もうしばらく自我として生きたい!

以下のoshoの言葉を聴いて、ものすご〜く納得している自分がいます。自分自身のことも含めて、ほとんど誰にも当てはまる耳が痛い言葉。

私たちは心の底では
自我から与えられる重みがにせものであること
まやかしであることにいつも気がついている
私たちはそれを知っているが、まだ知ってはいない
私たちは気がついているが、まだ知りたくはない
私たちは気がついているが、まだ忘れたままでいたい
これが人間のジレンマだ

そうなんです。私たちは、実は自覚できないだけで深いところでは気づいているのです。何をって?それは自分は自我ではないということです。

自分の中の誰かが、自分を縛るために罪悪感を上手に利用していることにも気づいているのです。罪悪感を投げられると、誰もが逃げ続けてしまうので自我の思い通りの人生から抜け出せないでいるのです。

あるいは、表現を変えると防衛の一つとして、自分は正しいというところから逸脱しないようにするのです。

こうあるべき、こうであらねばならない、道徳、倫理、そういった不自然なもので自分の自由を奪うわけです。

それと引き換えに手に入れられるのは、ほんの少々の安心感のみなのです。oshoの言う通り、気づいているのにまだ知りたくない。

まだ忘れたままでもうしばらく自我としての人生を続けたい。これが自我の本当の気持ちなのだと思いますね。

それが悪いということではないですが、もうそろそろバカバカしいと感じるようになってきた人から順番に、自分の本性を見ようとするようになるのでしょうね。

心の避難所を作る

日本は災害大国です。万が一災害に見舞われたときのために、各自で避難所を特定しておくことはとても大切ですね。

そうした物理的な避難所とは別に、内面にも避難所があれば大きな助けになるはずです。私のイメージは、あらゆるものから解放される場所。

私たちは精神的に多くのしがらみを持っていて、さまざまに縛られて暮らしています。その不自由さに耐えられなくなる前に、心の避難所に退避できればいいわけです。

そんなもの、一体どうやって作ればいいのか?実はやり方はいたってシンプル。もちろんそれなりに練習は必要です。私もまだまだ未熟ですが。

自分の内側に静寂が広がるようにするのです。あらゆる言葉を無くして沈黙の中に入っていくようにするのです。

それはあなたをあらゆるものから解放してくれます。あなたが所属しているもの、他人との関係性、あなたの属性、そういったものとの関係が消えてしまいます。

すると、あなたはたった一人、そう完全な孤独の中へと置き去りになるのですが、実はそこから孤独も消えてしまいます。

あらゆる対象との関係性こそが孤独を作り出していたので、それらから解放されると孤独も同時に消えていってしまうのです。

そして境界が消失して全体性へと戻っていくことができるのです。自分が誰でもなくなった時の清々しさは格別のものがありますね。

意識と思考の直交軸

何をやっていても何もしていなくても、いついかなる時でも次のことを忘れないようにする必要があります。

それは、私たちの内面の状態を二つの軸で見るということ。一つ目は、意識的かあるいは無意識的かということ。

そしてもう一つは、思考が多い状態かあるいは思考が少ないかです。この二つの軸は直交していると思うと分かりやすいです。

中学生の頃に習ったx軸とy軸のグラフを覚えていると思いますが、それと同じようにして意識の方を例えばx軸にするなら、思考の方をy軸にするといった感じです。

そうすると、二つの直交する軸によって4つの仕切られた場ができますが、それぞれに特徴があるのです。

まず、無意識的で思考が多い状態というのは、ほとんどの多くの人々の日常的な状態だと思って間違いありません。

社会で働いている人や、勉強を頑張っている人などはこの状態である可能性が高いと思います。思考というのは、人を無意識に持っていく力があるようです。

次に、無意識的で思考が少ない状態というのは、赤ちゃんや幼児の頃の無邪気な様子を思い出せばいいのです。大人でも、ぼーっとしている状態が当てはまります。

そして三つ目は、意識的であって思考が多い状態になるのですが、しっかりと意識的でありつつ思考過多の状態というのは原理的にはありません。

最後は、意識的であって思考が少ない状態ですが、この状態であり続けることができたら人生が大きく変わってしまうはずです。

自我から離れて、自分の本質の感覚が明確になってくるからです。以上の4つの内面の状態を理解しつつ、まずはその時々の自分の状態を知ることです。

そして少しずつでも、最後の状態、つまり意識的で思考がないという状態に持っていけるよう練習することですね。

存在を丸ごと認める

まず初めにはっきりさせなければならないのは、この宇宙はあなたがいなくてもやっていけるということです。

あなたがいなくても、日本は困らない。それはそういうものですし、そんなことは分かってるという声が聞こえてきそうです。

ところが視野をぐっと狭めてしまうと、誰かに自分は必要だと言われたいと思っている人が沢山いるのも事実です。

これ、役に立ちたい症候群とか、必要とされたい症候群などと私が勝手に呼んでいるのですが、心当たりがある人がいるはずです。

こうした事は全て、自分の存在をあるがままに受け止めることができないことから起きて来ることなのです。

存在をそのままに認めることができないために、その代わりになるものを探そうとして、他人の力を借りることを考えるのです。

必要とされれば、自分はこのままいてもいいと思えるし、役に立っていると思えれば、自分の価値が上がって安心して生きていけると思うのです。

もしも自分の存在を丸ごと認めることができれば、誰からも必要とされずにいてもいいし、誰かの役に立ちたいという欲求もなしに生活できるのです。

子育てを頑張っている時や、社会で活躍している最中ならいいのですが、それから先の人生では徐々に期待されることが減るし、何かの役に立つこともなくなっていくのです。

そうなった時に困らないためには、今からでも遅くないので自分の存在を丸ごと受け止めることができるようにしていく必要があるのです。

具体的な方法がわからなければ、プロの力を借りることもありだと思いますね。

自我を脇へ置く

日々いろいろな動画を観るのが習慣になっていて、その中でも科学的なもの、宇宙物理学や量子力学などの分野の難しそうな話題を分かりやすく解説しているものをよく観るのです。

とても興味深くて、様々な書籍の内容を簡潔にまとめてくれているので、自分でそういった本を読まなくていいので非常に助かりますね。

ただそのような動画を観ていて時々違和感を感じることがあるのですが、それは「意識」という言葉がかなり曖昧に使われていることです。

もっというと、脳によって意識は生じるものという前提があるように感じてしまうのですが、どうもその前提で研究が進められているようなのです。

私の感覚では意識は脳とは全く無縁な自分の本質であると受け取っているので、そこの違和感は非常に大きいのです。

意識についてはきっとこれまでのような科学的なアプローチでは解明することはできないと思っています。

自我の要素を全て脇に追いやってしまった後に残るもの、それが意識の感覚に一番近いのだろうと感じます。

例えば、自分は人間だ、を脇に置くのです。続けて、自分は肉体だ、自分は生物だ、自分は地球上で生きている、などを全て脇に置いていくのです。

そうしてもう自分について何も残っていない状態までいった時に、それでも残っているものこそが意識なのだろうなと。

それはただの無だし、この3次元の世界の中に存在するものではないと分かる気がします。これが科学で解明できないと思われる理由です。

普段は自我に乗っ取られていますが、こうしてゆっくりと自我を自分の中心から脇へ押しやることで、本質である意識として全てを見ることができる感じがしますね。

執着から離れていく

愛の形をしているものの、その実中身は執着で出来ているということがとても沢山あるのです。だからドラマが成立するのですが…。

それを見るにつけバカバカしいと思ってしまうのですが、だからと言っておいそれと笑ったりすることはできません。

なぜなら渦中にいる人は、本気でそれを愛だと信じているのですから。そうなると、愛することは苦しいなんてことを言い出すわけです。

愛が苦しいというのがもうすでに原理的に破綻しています。ただ、執着は誰も幸せにならないので手放しましょうというのも変ですね。

なぜなら、手放せないことを執着と呼ぶのですから。そもそも手放せるのであれば、それはもう執着ではなくなってしまっています。

執着から離れるための第一歩は、当然ですがそれが執着であるということに気づくことです。その気づきがなければ、絶対その先へは進むことができません。

この気づきは冷静な理解があれば大丈夫。その全てが執着というのではなく、愛と執着が混ざった状態だと思えばいいのです。

その上で、執着の要素があるなということを理解するのです。執着心をじっくりと見つめてあげるのです。

それがいいとか悪いということではなく、ただそれが在ることを認めてあげるのです。その上で、執着のパワーがどこからやってくるのかを見るのです。

その必死さは、ターゲットから離れてしまったら生きていけないという思い。自分の命がかかっているからこそしがみつくのです。

そのしがみついている自分の様を見守ること。誰だって溺れかけている人は、浮いているものならどんなものにでもしがみつくのです。

それが当然だということを認めてあげれば、少しずつですが力を抜いても沈んでいかないことに気づくはずです。

執着心が小さくなってくると、どこか清々しい気持ちというのがやってくるので、それが執着から離れていくときのサインだと覚えておくといいですね。

無関心の勧め

一般常識的に言って、「無関心」というのはあまり良いニュアンスを持っていませんね。どちらかというと冷たくて、愛のない感じがしてしまいます。

例えば、親が子供の成長に無関心であるとか、成人しても政治に無関心のままでいる等々。ほぼ悪い意味で使われています。

ただ、無関心というのにもメリットはあって、そのうちの一つが対象と闘わないというのがあると思います。

対象と闘って何とかしてしてやろうと思わないわけですから、その対象から距離を取るということになるのです。ただし抑圧しようとはしていないことが大切です。

そうすると、その対象に対して自分のエネルギーが行かなくなるのですが、それがとても大切なのです。例えば対象を自分のマインドにやってくるモノについてみてみると。

猜疑心というのは誰のマインドにもあるものだし、それを無くしてしまうということはまず不可能なことです。

けれども、猜疑心に無関心でいることを貫くことができれば、そのパワーは一人でに小さくなってしまうのです。

一方で、その対義語である信頼の方に関心を向けることで、内側で信頼が大きくなっていくはずです。

罪悪感についても同様で、それから逃げようとせずにただ無関心であればいいのです。その対義語である安心や喜びの方に関心を持つようにすること。

このようにして、自分が感じていたいものにのみ関心を寄せるようにするのです。関心と無関心を上手に使いこなせるといいですね。

空間に意識を向ける

:空間がどれほどスカスカかを教えて。

AI君:すみません、ご質問が具体的すぎて回答することができません。もう少し詳細を教えていただけますか?「空間」が何を指しているか、またどのような「スカスカ」さを知りたいのかについて、具体的に教えていただけますか?それに基づいて、できるだけ詳細な回答を提供します。

:例えば原子は原子核と電子で構成されているけれど、一つの原子が占める空間の大きさの中に存在する原子核と電子は非常に小さいということなど。

AI君:なるほど、理解しました。ご説明いただきありがとうございます。

原子については、一般的には原子核と電子があり、原子核は陽子と中性子から構成されています。原子核は非常に小さく、一般的には原子全体の直径の約1/10,000から1/100,000程度の大きさです。一方、電子は原子核の周りを回っているため、原子全体の大きさは主に電子の軌道が占めています。ただし、電子自体も非常に小さく、原子核の大きさと比較すると、原子全体の大きさに対して非常に小さいと言えます。

上記によると、例えば原子一つの大きさを直径1メートルの球だとすると、その中心にある原子核の直径は0.1~0.01mm程度ということになります。

そのあり様をイメージしてみれば明らかですね。原子はほとんどが空間でしかないということです。その原子が寄り集まって、あらゆる物質ができているのです。

つまりどれだけ硬い物質で密度が詰まっているように思えたとしても、中身はスカスカでほとんど空間だということが分かります。

このスカスカ感は宇宙についても同じことが言えるようです。宇宙空間に存在する地球や太陽などの天体が占める割合は、表現できないくらい小さいのです。

結局私たちが暮らしているこの世界全体のほとんどが空間でできているということです。それにもかかわらず、私たちが知覚できるのは空間以外の物質だけ。

空間がこの宇宙を構成しているというのに、それを知覚できないというのはどういうこと、と思いませんか?

私はそのことがとても不思議だなと思っていたのですが、そのおかげで空間そのものに意識を向けるということを気がついたらするようになっていました。

そのことが全体性を感じ取る手助けになっているなと思うのです。もし興味があれば、空間に意識を向ける練習をしてみてください。

対象を空間とすることは、初めのうちは違和感があるかもしれませんが、うまくすると「無」を感じることもできるようになるかもしれませんね。

受け身でいること

「気分」と「気持ち」は似たような意味を持ちますが、微妙に異なるニュアンスがあります。

「気分」は、その瞬間の感覚や状態を表します。例えば、嬉しい気分、悲しい気分、不安な気分、興奮した気分などがあります。状況や出来事によって変化することが多く、一時的で短期的なものと考えられます。

一方、「気持ち」は、個人が抱く感情や感覚を表します。例えば、愛情、怒り、嫉妬、感謝などがあります。気分とは違い、より長期的なものであり、自分自身や他人に対する思いや考え方を表すことが多いです。

簡単に言えば、「気分」は現在の状態を表す言葉で、「気持ち」はより深い感情や思考を表す言葉ということができます。ただし、両者の違いは微妙であるため、文脈によってはどちらの言葉を使っても意味が通じる場合があります。

と、ここまでは例のAI君が教えてくれた気分と気持ちの違いですが、今日は気分の方について書いてみようと思います。

というのも、気分がすぐれないとか、気分がいいという言葉で表現されるように、その瞬間精神的にいい状態でいるためには、気分がいいというのが必須だからです。

そして通常私たちは、なんらかの外的要因によって気分を左右されてしまうと思い込んでいるし、実際そうなのでしょう。

いい音楽を聴くとか、好きな人と会話するとか、応援している選手やチームが勝利した時など色々です。

けれども、その時々の気分が必ずしも外的要因によって決定づけられてしまうわけではないという体験もあります。

なぜだか全く不明なんだけど、気分がいい、という経験が誰でもあるはずですね。だとしたら、外的要因に依らずに気分をよくする内的方法を知りたいものです。

それって最強だと思いませんか?私の場合は、ブログを書こうとしてipadに向き合ってしばらく静かにしている時、いい気分になることが多いです。

それは自分が何かいいものを書こうという欲張り精神を無くして、ただ浮かんでくるものを待っている状態なのです。

このことからの私の解釈ですが、精神活動が受動的になっている時にその静寂の心地よさというのがやってくるように思うのです。

能動的だとどうしても意識が外側に向いてしまうため、外的要因に気分が左右されがちになってしまうのです。

それに対して、自分自身は特に何もせずにただ受動的に待っている状態。自我にとっては苦手かもしれないですが。

何事に対しても受け身でいるということは、ひょっとすると生きる極意のようなものに繋がるのかもしれませんね。

自分を丸ごと見てあげる

自分という自我をより深く理解するためには、なんと言ってもその自己防衛の方法について気づいてあげることです。

例えば物事を自分にとって都合のいいように解釈してしまうという防衛方法があります。これは誰でも大なり小なり経験があるはず。

極端になると病的と思われることもあります。ストーカー体質の人が、俺が君を好きなのだから、君も俺のことが好きに違いない。とやるわけです。

自分だけ一方的に相手を好きであって、相手から嫌われてるなんて惨めすぎて受け入れられないので、相思相愛が一番都合がいいのです。

もう少し可愛げのあるものだと、あの子が僕の方をあまり見てくれないのは、僕に気があるので恥ずかしがっているだけだと思うといったこと。

勿論場合によってはそれが当たっていることもあるのですが、大抵の場合は都合のいい解釈をしてしまう防衛なのです。

この程度の勝手な思い込みには特別な実害はないかもしれませんし、かえって物事をなんでも否定的に捉えて暗い気持ちになるよりもマシかもしれません。

ただこうした防衛を放置しておくと、それが次第に自分の中で当たり前になってきて、自分を丸ごと見つめることができなくなる可能性もあります。

都合のいい部分も都合の悪い部分も同じように見守ってあげることができれば、ひとりでにバランスの取れた生き方ができるようになるはずですね。