恐怖が先か、逃避が先か

ライオンに追われたシマウマは、当然のごとく命をかけて逃げ回ります。それは、すべての動物が持っている自己防衛本能が発動するからですね。

勿論そのことは、人間であっても変わりありません。自分の命を守るために、危険を察知して、恐怖という感情を用いてその危険から逃げようとするのです。

こうした本能的な行動というのは、初めに危険による恐怖がきて、その結果として逃げるという行為が起こるのです。

ところが、人間だけがそうした恐怖を何倍にも膨らませて、実際には命の危険には至らないということが明白なのにも係わらず、逃げ続けるのです。

それは言わば精神的な恐怖と表現することができます。そしてそうした実体の伴わない恐怖というのは、自ら作り出しているということに気づくことが出来ません。

なぜなら、その恐怖とは、精神的な逃避によって自動的に作られてしまうものだからです。こうなると、恐怖が先にあるのか、それとも逃避が先なのかがはっきりしなくなってしまうのです。

逃げる心が恐怖心を生み出し、その恐怖から更に逃げようとするために、また恐怖が生み出されるという具合に、あっという間に恐怖と逃避の無限ループに陥ることになるのです。

そうなったら、もうその日を生きるエネルギーの大半をそのループをグルグル回ることだけに費やすことになってしまうでしょうね。

きっといつも疲労して、何もやる気が起きない状態になってしまうはずです。ウツ症状などもこうしたことが原因であると言うこともできます。

そこから撤退する方法はただ一つ、その悪循環にはまり込んでいることに気づくことです。そして、自分がこしらえた実体の伴わない恐怖から逃げなくすることです。

恐くても、恐くても逃げずに立ち止まり、そこにただいることです。たったそれだけでも、追ってきていた恐怖は、エネルギーを失うはずです。

とことんまで、その悪循環に嵌ってにっちもさっちもいかなくなった人は、自動的にそうした経験をしているはずです。

けれども、そこまで苦しむ必要などないのです。今この瞬間でも、逃げることをやめることは可能なのです。それを信頼して、実践することです。

「自分」という中心人物

このブログでも、もうすでに何度も繰り返して書いていることなのですが、来る日も来る日も毎日の人生はすべて、自分を中心に回っているといえます。

自分が喜んで、自分が退屈して、自分が考えて、自分が感じて、自分が決意して、自分が苦しんで、自分がどうしようと悩むのです。

とにもかくにも、自分、自分、自分なのです。どんなすばらしい本と出会って、その内容に感動しても、そこに感動している自分がいるのです。

仲良しだった友達と仲たがいをして、裏切られて、ひどく落ち込むことがあっても、その落ち込んでいるのは自分なのです。

大切な人の理不尽過ぎる体験を聞いて、猛烈に怒りを感じても、やっぱりそこに怒りを露わにしている自分がいるのです。

すばらしい経典や聖典などを読んで、これこそが真理なのだと理解したつもりでも、そこには真理を理解したと思っている自分がいるのです。

いついかなる時にでも、その中心に自分がいます。そして、自分には必ず何らかの物語が係わっているのです。

どんな物語とも関係のない、独立した自分というのはありえません。自分が何かを経験し続けることこそが人生なのですから。

けれども、この分かりきった決して変わることのない、物語の中心人物である「自分」がいなくなるときもあるのです。

それは、思考が停止するとき。あるいは、何かに没頭しているとき。何かのために無我夢中になっているときにも自分は消えうせます。

そのときに、愛が発動するのです。であれば、もっとも邪魔なのは自分ということになりはしませんか?それは本当に皮肉なものですね。

でもこれが本当のことなのです。個人としての「自分」は相当にしぶとい奴ですが、それでも自分が希薄になる経験をすれば、それがどれほど清々しい体験なのか理解することができます。

きっと誰もがそれを経験しているのですが、「自分」はそのことをなるべく悟られないようにして、次第にそれを忘れていくように仕向けるのです。

それを忘れないようにしておくことは可能です。自分を大切にすることは、自分がいる限りは大事なことですが、いない状態もあるのだということをいつも覚えておくことですね。

人間性と神性は不連続ではない

私たち人間の心には、考えられる限りのあらゆる種類の思考や感情が渦巻いています。もっとも神聖なものから、悪魔のようなものまで選り取り見取りです。

人間が天使になることはできませんし、悪魔になることもできません。でもどちらの要素も含んでいることは間違いありません。

凶悪犯罪を犯したばかりの犯人が、その犯行現場から逃げようとするときに、ふいに道路に飛び出した子猫を自分の命を顧みることもなく、助けることだってあり得るのです。

薬物やアルコール中毒に陥って、どうしようもなく堕落した人生を送っている人がいたとしても、我が身を守る事を忘れて、誰かのために奔走することもいくらでもあり得ます。

一人ひとりの個人のその瞬間を切り取って、表面的に見るのであれば、それは当然その人物の様々な要素のごく一部だけをみて全人格を判断してしまうことになるのです。

誰もが認める賢人がいれば、多くの人は尊敬と崇拝の対象として見るかもしれません。しかし、ある人にとっては鼻持ちならない苦手な人だと感じる場合もあるでしょう。

多くの宗教においては、私たちのエゴを徹底的に否定して、それを解体することこそが真実への道だと指導するのです。

エゴと神聖さは確かに相反するものですが、両者は決して不連続ではありません。つまり、エゴを持った人間でも、誠実にその内奥に入っていけば、そのまま神聖さへと繋がっているということです。

エゴと神聖さとを行ったり来たりして生活しているのが日常的な人間の姿なのです。その二つは一瞬にして入れ替わることもできるのです。

今、目の前の人がエゴを中心に据えているのか、神聖さに触れるような生き方をしているのかは、ただその瞬間に起きているだけです。

そしてきっと究極的には、誰もが自分自身から一切逃げずに、奥深くへ正直に突き進むときがやってきて、神聖さの中に留まるときがくると思うのです。

すべてを喪失する覚悟をする

自分の中には、相反する両極にあるものは等しいということを、何となく知っているという感覚があります。

それは例えば、自分自身は広大無辺の宇宙と比べれば、砂粒よりも小さい存在だと分かるのですが、でもそれが一つに繋がっていることを感じます。

つまり、極大と極小は同じものであるということです。ところが、この世界というのは、明らかにすべて中途半端な状態として存在しています。

両極こそが真実であって、その間に挟まれたこの世界は、その真実から生まれ出てきたものだと言うことができるかもしれません。

自分は、ある程度の大きさの肉体を持って、ある程度の何かしらを所有して、ある程度の時間の長さだけ生きるというわけです。

この中間的な人生の真実を知るためには、本当は両極にこそ自分の本質が隠されているのだと気づくことが必要なのだと思うのです。

つまり、中途半端に所有して、出来る限りそれを奪われないように注意し、そしてより欲するものを手に入れようとする人生を見直すのです。

もしも、すべてを手に入れようとするなら、その対極にあるものを見ることです。つまり、手に入れる代わりに、あらゆるものを失うこと。

すべてを所有することが不可能であるなら、すべてを喪失すること。これなら、可能なのです。すべてを失えば、自分こそがすべてだということになるはずだからです。

何もかも失う決意を今すぐにでもする必要がありそうです。勇気がいることではありますが、でもそれを選択することが可能なのです。

同様にして、すべてを知りたいと思うのなら、中途半端に知っているという状態をよく見つめて、本当は何も知らないということに目覚めることです。

そして、私が無であることに気づけば、自分の全体性に目覚めることになるのですね。どちらも同じことだからです。

一番怪しいのは「私」という想念

バーチャルリアリティを題材にした映画を観ました。ネタバレするといけないので、内容を詳しく書くつもりはありませんが、なかなか考えさせられる映画でしたね。

超スーパーコンピューターによって構築された仮想現実の世界に、生身の人間をダウンロードできるようにするシステムが開発されるのです。

その仮想現実の世界で生きている人々は、彼らがコンピューターによって構築された世界の住人だということには勿論気づいていないのです。

現実の世界に戻ってきたり、また仮想現実の世界に入ってみたりを繰り返しているうちに大変ショッキングな事実に気づくことになるのです。

それは、仮想現実のシステムを作りだしたこの世界も、実はそうしたシステムによって構築された仮想の世界だったということです。

これを観ていて、奇跡のコースを読み出した頃のことを思い出していました。コースでは、この世界は幻想であると断定しています。

こうしたことをどこかで感じている人たちがいるからこそ、きっとこのような映画を製作しようと考えたに違いありません。

しかし、最近ではこの世界は幻想だということに殊更こだわることがなくなってしまいました。その理由は簡単です。

この世界が幻想だという想いは、ただの想念(思考)であるし、その想念を抱いていると信じているこの「私」こそが最大の幻想だと気づいたからです。

この世界は…、と言い出した「私」がここにいるという自覚こそが、言ってみれば幻想であるということですから、世界がどうであれそんなことはどうでもいいのです。

一つだけ確かなことは、「私」とは何としぶとい奴なんだろうということです。今、この世界を構築した誰かがニヤッと笑ったような気がします。

どんな邪悪な妄想でも罪ではない

確か、モーゼの十戒に、「汝、姦淫することなかれ」というのがありますね。詳しくは知りませんが、きっと現代用語で言えば不倫のようなものをするなということだと思います。

それだけでしたら、現代の一般常識とさほど違いがないように感じますが、どこかで聞きかじったことですが、それは行為に及ばなくても考えただけでも罪だということも含まれるらしいです。

つまり、心のなかで想像したり、妄想するだけでも実際の行為と同じだけの罪深さがあるということのようですね。

そこは、確かに宗教的な色彩が強い部分だと思われます。現実のこの世界では、例えば殺人を犯したら罪を問われますが、殺人をどれほどリアルに想像したところで、罪にはなりません。

それは、他人の心の中は当人以外の何ものも覗いて、その想像の内容を見極めることができないからでしょう。

証拠のないものを、本人の自白だけで罰することができないので、それは罪にはならないということですね。

ところで、長い間膨大な数のクライアントさんとのセッションを通して気づかされたことがあるのですが、それは想像しただけで罪悪感を持つ人が沢山いらっしゃるということです。

私にしてみれば、人間は可能な限りのあらゆる想像をめぐらすことができて当然なのですが、人によってはこんなことを妄想している自分は許せないと思うことがあるらしいのです。

一番いい例が、幼い子供の場合に多いのですが、親の言動に対して本当は否定しているのに、それをなかったことにしようとする心の傾向が強いのです。

いやなことを言われても、それに対する怒りや憎しみのような感情を感じてはいけないとして、それを無視したりするということです。

勿論こうしたことは、大人になっても継続する場合もあるでしょう。自分は誰かのことをこんなふうに否定しようする邪悪な心があるとして、それに罪悪感を感じたりするのです。

けれども、心の中に巻き起こるどんな妄想でも、それに付随するいかなる感情であっても、それをあるがままにしっかり見ることです。

そうしたものに対して、誇張したり脚色したりせずに、そのままを逃避せずに見ることです。それができたときには、罪悪感も一緒に消えうせるはずなのです。

逃げも隠れもしない決意

セラピストの役割とは、クライアントさん自身が逃亡生活を送り続けていることに気づくように仕向けることだと言えます。

一体何からの逃亡かと言えば、ご本人にとって非常に都合の悪いもの、惨めな自分の姿だったり、それを体験した時の恐怖だったりするのです。

誰もがそういった決して向き合いたくないと思っている感情から、遮二無二逃げ切ろうとしているのですが、大抵はそのことに気づいてもいないのです。

自分が逃げ回る人生を送っているなどとは思ってもいないので、逃げることをやめることができなくなってしまっているのです。

だからまずは気づく事こそが是非とも必要なのです。自分一人で気づけないからこそ、他の誰かのサポートが必要となりますね。

そこでセラピストの出番なわけですが、残念ながらセラピストはご本人が何か困った事を抱えていなければ、お会いすることさえできません。

そのために、クライアントさんは、自分が逃げている事に気づくために、困った現実を起こしてセラピストのところへやって来ることになるのです。

そしてもう一つの方法を使う場合もあるのです。自分の人生ではなくて、みじかなご家族などの問題を利用して、セラピストのところにやってくる方法です。

後者の場合、ご本人にはそうした自覚は全くないのが普通です。問題は自分ではなくて家族の誰かだと信じ切っているのですから。

そして確かにそのご家族の方にも同様な逃避の問題があるのも事実なので、その方のセラピーも行っていくのですが、その途中で当の本人の逃避にも気づきがやってくることになります。

セラピストは、時には憎まれ役を演じなければならないかもしれません。なぜなら、逃避に気づくためには本人を追い込まねばならないからです。

クライアントさんは、嫌なことばかりを見せつけられるので、セラピストを避けるようにさえなるものです。そして、それもずっとやってきた逃避生活と同じことなのです。

そして、逃避に気づくことさえできれば、今度はその逃避をやめるという選択肢があるということに気づくことができるのです。

そうなったら、あとは本人が逃げも隠れもしないという決意をすることです。傷つくことを厭わないという決意がそこにあれば、まったく新しい自由な人生が待っています。

サポートとコントロール

子供が産まれると、親は我が子が幸せになれるようにできるだけのサポートをしようと思うものです。それは親が子供に対して持つ本能的な愛が、そう思わせるのですね。

けれども、子供の成長と共に少しずつですが、親は子供をコントロールするようになっていくのです。そのことは、もしかしたら初めのうちは、親の自覚がないかもしれません。

親が子供に幸せになって欲しいと思うこと自体が変化することはないのですが、ただそこに親のコントロールが介在するようになっていくのです。

そのコントロールとは、親が個人的に望むような幸せを子供の人生に期待するということです。こういったことは、多かれ少なかれ、どんな親にもある程度は当てはまるものです。

随分前のことですが、あるクライアントさんの親とお話しするチャンスがあったのですが、そのときに母親がこう言ったのを覚えています。

「自分の子供に幸せになってもらいたいのは当たり前のこと。けれども、どんな幸せでもいいということではない。そんな身勝手なことは許されない。」

それを隣で聞いていたクライアントさんが、深く落胆しているのを私は見逃しませんでした。残念ながら、そのセッション中にその親の気持ちを変えることは不可能なことでした。

子供が幼いときに、母親が気に入る服だけを子供に着させようとするなどという事例は、山ほど知っています。

娘が成長して、結婚したいと思っている恋人を親に会わせたところ、単に彼が黒人だったというだけで反対されたという悲惨な話を聞いたこともあります。

こうした親のコントロールについては、子供の年齢にかかわらず、事例はいくらでも思い出すことができます。

それだけ、親のコントロールに苦しんできた子供は沢山いるということですね。心当たりがある方も多いのではないでしょうか?

自覚としてはサポートしているだけのつもりが、知らぬ間にコントロールの要素が強くなっていくので、なかなか気づくことが難しいのです。

コントロールされる苦悩を持っているのなら、自分も相手をコントロールしようとしてはいないかを、まず第一によくチェックすることから始めて下さい。

そして、コントロールを手放すことができると、それだけサポートすることにエネルギーをつぎ込むことができるようになるはずです。

そうすると、不思議なことに相手からのコントロールが気にならなくなっていくのです。愛の力はコントロールを溶かしてしまうらしいです。

あまりにも自明すぎる全体性

以前にも書いたことがあったと思うのですが、会社員の頃にステレオグラムに嵌ったことがありました。みなさんは、そのステレオグラムを覚えているでしょうか?

今でも、本は売っていますし、ネットでも沢山の画像を見ることができますね。ステレオグラムというのは、平面上の画像に立体的な要素が隠されているものです。

一度コツをつかんでしまえば、いとも簡単に隠れていた立体が浮かび上がってくるのを経験することができます。

それは何と言うか、外側には何の変化もないのに、自分の知覚が急に変化してしまうことによる見え方の激変を体験するわけです。

不思議なことに、その画像の中に立体を見ている状態になると、どういうわけか普通に見ているときと比べて緻密さが出てくるような気がします。

どうすればそれが見えるのかが分からない人にとっては、初めとても難しいことのように思えるかもしれませんが、一度でも経験した人からすれば何と簡単なことかと分かるのです。

これって、個人としての自分が一瞬にして全体であるものに変容する感覚と似ているように感じます。

けれども、ステレオグラムを見るときよりももっと容易く全体性を感じることができますし、個人の感覚と全体性は両立します。

同時に両方の感覚を感じていることが可能です。それは、ステレオグラムとはまったく異なる特性ですね。ステレオグラムは、普通の見方と立体のどちらか一方しか見ることができません。

全体性を感じるのには何の努力も工夫も必要ないということも、ステレオグラムとは違うところです。あまりにも簡単すぎて、説明ができないところも違います。

ステレオグラムの場合には、視点にある操作をすることによってその状態に持って行くのですが、全体性は実はずっと生まれたときからそれが途切れたためしがありません。

ただいつも「在る」ものを見ないようにしてきただけなのです。簡単すぎることは、私たちはとかく敬遠しがちだということも、分からなくなってしまった要因の一つかもしれません。

誰もが本当はわかっている、この全体性にはっきりと気づくときが確実にやってきます。分からないというのは、呼吸をしていることを忘れているというのに似ています。

でも呼吸していることに意識を向ければ、それに気づけない人はいません。それと同じことです。そのくらい当然の感覚なのです。

安心と快適さだけでは満たされない

幸せの定義というのは、十人十色といわれるように、人によって様々かもしれませんが、それでも多くの人に共通していることは、安心、安全と快適さが必要だと思っているはずです。

その逆に、不安で不快な状態であれば、幸福などというイメージとは繋がりにくい感じがしてしまいます。

そして私たちは、その安心、快適というものが手に入れば、幸せになれるというように単純に直結してしまいがちなのです。

でもそれは本当ではありません。その理由はいたって簡単、つまり完全に安心できる完璧な安全とか、100%継続する快適さなどというものはありえないからです。

安心、快適を欲すること自体が悪いということではないのですが、そこに多大なエネルギーを費やすほどになると問題が起こってきます。

それは都合の悪いことから逃避しつつ、欲しいものを手に入れようとする人生ということになります。それが常に成功するという人生は決してないのです。

だからこそ、そこに苦しみが発生してしまうわけです。その人生を別の言葉で表現すれば、自己防衛の人生ということになります。

それも決して悪いことではありません。誰もが自分を守ろうとして生きているのですから。けれども、それがあまりにも強大になってしまうと、それだけ苦悩することになるのです。

深みのある人生について考えているのなら、苦しみや恐れ、不都合なものから逃げないことです。そして、都合のいい安心、快適さだけを殊更求めないこと。

自分がコントロールできる範囲をしっかり見据えて、コントロールできないと認識したことからは、きれいさっぱり手を引くことです。

そうして、自分の浅知恵などよりももっと奥深い知性に委ねることです。一過性の安心、安全と快適さだけでは、奥深い満足感を得ることはできないということに気づく必要があるのです。