子供という過酷な時代

今からかれこれ半世紀以上前のこと、小学生だった自分は家から数分の所にあるちょっとした丘のような空き地で遊ぶことがよくありました。

あの日もその場所で遊んでいた時、中学生かあるいは高校生くらいのお姉さんがやってきて、気さくに話しかけてきてくれたのです。

優しい感じのお姉さんだったので、たわいのない話しをして友達みたいになったのです。その後もその空き地で何度か会ったのです。

どうしてあの年齢の中高生のお姉さんが、何にもないあんな空き地に一人で来るのか不思議だったのです。

今思い返すと、どこかへ行く予定もなく、時間を持て余していたような気もするのです。もしかしたら、不登校だったのかな?

あるいは自宅に戻りたくない何らかの理由があったのかな?とか今となっては何の意味もないのに色々と考えてしまうのです。

これはセラピストとしての一種の職業病なのかもしれませんね。一般的に子供は無邪気、大人は苦労、というのがイメージとしてはあるのかも。

けれども、子供というのは大人に負けず劣らず様々な苦悩を抱えて生きているのです。子供は呑気などというのは真っ赤な嘘です。

今この瞬間も、たくさんの子供たちが家族という囲われ隠された環境で、様々な苦しみと共に必死に生き延びようとしているのでしょうね。

近過ぎて気づけない存在

あまりにも身近で、存在し続けてくれる大切なものなのに、そのことに気づかずにいるということはよくありますね。

一番例に出されるのが空気かな。たった数秒の間でも空気がなくなってしまったら、大変なことになってしまうのに、そのことを忘れています。

もっと言えば、この地球だって、太陽だって、そして宇宙だって、その存在があまりにも定常的であるために、当たり前になるわけです。

相手が人間でもそうですね。私は幼い頃に母親の存在が近過ぎて、好き嫌いを超越していたのを後になって知りました。

7〜8歳のころに、ボーイスカウトの夏の合宿で1週間ほど泊まりに行ったことがあったのですが、その時に生まれて初めて母親が身近にいないという体験をしたのです。

それは単なるホームシックというよりも、絶対的に必要なまるで自分の一部が欠落してしまった感じがして、合宿の間中生きていけない気がしていました。

近過ぎてその有り難さに気づけないのは、自分の本質についても同じなのです。独り静かに坐って、ゆっくりと内側を見つめてみるのです。

すると、自我としての自分が全面的に依存している存在、いつも見守ってくれている大きな存在に気づくことができます。

それを神と呼んでもいいし、私は自分の本質と呼んでいます。その全体性に抱かれていることで、たとえようのない安心感がやってきます。

それに気づかずに死んでいくのは、何とも勿体ないことだと思いますね。

見守ることは時空を超える

毎日の生活を通して、一瞬一瞬自分を見守り続けることが、どれほど大切なことなのかを理解している人は少ないかもしれません。

自分の存在を肉体だと思っている人は昔よりは減ってきたのかもしれませんが、それでも肉体を自分自身の中心だと思っている人は多いのでしょう。

しっかりと見守り続けることができたなら、あなたは決して自分のことを肉体だとは思わなくなるはずです。

なぜなら、肉体はあなたを見守ることができないし、見守っている主体としてのあなたは肉体ではないと気づくからです。

夜寝る前に、今日1日の自分を思い出そうとした時に、そのイメージの中に自分の肉体の姿が浮かぶのは当然です。

肉眼で見える自分は肉体だからですね。けれどもそれと同時に、見守り続けたのでしたら、見守り続けた自己のことも思い出すはず。

そしてその見守り続けた自分は、1日のことを思い出している今この瞬間の自分を見守っている自分と同じものなのです。

それは時間的隔たりもありません。見守ることは究極的には、時空を超えているということですね。

自我の得意技を放置する

より自然に、より自由に、より無邪気に、これらはどれも言葉は違えど同じことを表現していると言えますね。

どれも自我にとっては苦手なことばかりです。自我は不自然に生きるし、不自由さを常に感じているし、無邪気さを隠しがちになるのです。

逆に、自然に生きている人はただ自分のままでいることができる人。肩肘を張らずに、ゆったりとして柔らかい。

何者かになろうとするあらゆる悪あがきをやめてしまった人。闘わず、悠々として自分を見守ることができる人。

自由に生きるとは、究極的には自我から解放されて自由になるということです。自我は自分自身で作ったルールで自分を縛る。

だから無邪気さは邪魔になるのです。一方で無邪気な人は、ノールールで無防備でもあるのです。

実は自然で自由で無邪気に生きることを目標にしてしまったら、かえって不自然さや不自由さがやってきて、そして無邪気ではいられなくなってしまうのです。

目標を持つことで自我が活気づいてしまうからです。生後身につけてしまった自我の得意技を、放置することができたら、自然、自由、無邪気は自ずと向こうからやってきてくれるはずですね。

自我とエントロピー

エントロピーという言葉をどこかで聞いたことがあるでしょうか?理系の学生さんなら誰もが知っていると思います。

「エントロピー増大の法則」というのがあるのですが、「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」とあります。

例えば庭をきれいに手入れした直後の状態、これは秩序があるのでエントロピーが低い状態であると言うことができます。

一方で、その庭の手入れをせずにずっと放置しておくと、雑草が生えたりして汚くなって乱雑になってくるのを予想できますね。

この無秩序の状態のことをエントロピーが高い状態と表現するのです。放っておけば、物事は必ずエントロピーが低い状態から高い状態へと推移するという法則です。

直感的に誰でも容易にイメージすることができますね。ただこの法則、実は私たち自我が選択するということと関連があるのです。

選ぶこととエントロピーにどのような関連があるというのでしょうか?自我とエントロピーの関連なんて、理系の学生さんでも聞いたことがないかもしれません。

熱々のコーヒーが入ったマグカップ。この状態はエントロピーが低いのです。それを放置すれば、コーヒーは冷めて室温と同じになってしまいますね。

そうやってエントロピーが高くなるのですが、これは確率の問題でしかなく、実は自我が非常に確率の低い特殊な状況を選別しているのです。

秩序があるかないかというのは、自我による選択なのです。自然界には秩序という概念は存在しません。

時間が無限に続くのであれば、冷めたコーヒーがある瞬間にまた熱々の状態になることもあり得るということです。

現実には有限の時間内にこの宇宙は消滅してしまうので、そういうことは残念ながら起こらないのです。

自我だけが持つ秩序という概念が、無秩序との違いを見分ける、つまり選択的に見てしまうということ。

もしもあなたが無選択でこの世界を見たなら、エントロピーは単なる確率の問題ということになるのでしょうね。

女性性の時代に期待

男性性と女性性という言葉があります。どちらもそれぞれの性別の特徴的な傾向を表しているということですね。

例えば、男性性は攻撃的であり女性性は受容的という感じ。男性性は強さや堅さつまりは強固という特徴があり、女性性は柔らかさやしなやかさという感じです。

もちろん、男性にも女性に男性性があるし女性性もあり、どちらも人間社会には必要なものであることは間違いありません。

これまでの社会というのは男性性が中心となって作られてきたと言えるのですが、そろそろその限界が来ているように思います。

どれほどの達人であろうと、その人が頑なな感じがするのであれば、その人からは暴力しか生まれません。

この先人類が滅びずに存続するのであれば、その鍵となるのは女性性でしょうね。男性性が支配している限りは、いずれは戦争で自らを滅ぼすことになるはずだからです。

水のようにどんな形にでもなれる柔軟性があれば、争いごとからは遠のくことができることは明白です。

これまでのような発展発達、あるいは進歩に重点を置く代わりに、より自然体でより自由に生きることができる世の中になる方がどれだけ大切か。

これまで以上に女性の活躍を期待するというよりも、性別に関わらずに女性性を中心に活用する時代が来ればいいなと思うのです。

自我の本音を垣間見る

認知症を患った93歳の母親との夜な夜なする会話の中で、ごくたまに母親の自我の本音が表面に出てくることがあります。

昨夜はまさにそれがあったのです。いろいろ話している中で、母親曰く「心配事が全くなくなってしまったら、生きてる甲斐がない」と。

多少なりとも私の職業病が出て、セッションのように本心と出会えるように誘導しているのかも知れませんが…。

そう言う時の母親の態度には迷いがなく、どこかキッパリとした口調になるという特徴があるのも興味深いです。

不安や心配事がなくなったら困るというのが自我の本音であることはこのブログでも何度となく書いています。

私たちは常に、闘う相手、対処すべき問題、そういった不安や心配のネタを絶やさないようにして生きているのです。

それによって自分の本質に気づくことから遠ざかっていることができ、自我はその存在がただのイメージであることがばれずにすむのです。

年老いて、歩くこともままならず、何一つ自分一人ではできなくなった時に、心配のネタが尽きてしまった母親は、最終手段として妄想の中に入るわけです。

それを外部から助けてあげることは残念ながらできません。誰もが年老いてそのようになっていく可能性を持っています。

そうならないためにも、今のうちから自我の仕組みをよく理解して、不安や心配を用いた自我の策略に乗らずに済むように準備しておく必要があります。

そのためにも、普段から意識的であることを心がけておくことですね。

信念も自信もいらない

まだ大人になりきれてない、でもそれほど子供でもないという中途半端だった高校生の頃、自分てどんな奴何だろうとよく思っていました。

一番記憶に残っているのは、優柔不断なところ。政治のことや学生運動なんかにあまり関心がなかったのです。

それでも、そういうことに詳しい友人の話しを聞くと、ああなるほどと感心するのですが、それと全く違う意見を聞いても、それも確かになあとなるのです。

結局誰の意見を聞いても何だかそれが正しいような気持ちになるので、自分の意見がコロコロ変わる優柔不断な人間だなと思ったのです。

若い頃はそんな自分のことをあまり良くは思っていなかったのですが、最近はそんなこともどうでもよくなってきたのです。

もっと言えば、自分独自の意見などなくてもよくない?と思えるようになったのです。信念とは遠いところで生きている。

それと若い頃は絶対に必要だと思い込んでいた自信についても、今は自信があろうとなかろうと、そんなことはどうでもいい。

自信とは無縁の毎日を生きています。信念とか自信というのは、社会の中では役立つものかもしれませんが、使わない生活の方が快適なんだと気付いたのですね。

対処せずに見守ること

様々なクライアントさんとセッションをするにつけ、闘っているなあと感じることが多々あるのです。

生きるということはまさに闘いなんだなと思わざるを得ないのです。けれども、それじゃセッションにならないので、何が闘いなのかを明確にする必要があるのです。

その前に闘うということは、実は自我にとっては死活問題なのです。なぜなら、人が闘うことを放棄した途端に、自我の動きがスローになって終いには消えていくことになるからです。

つまりは、私たちは個人として存続しようとする限りは、闘い続ける必要があるということです。ここの理解が絶対的に必要です。

実際に闘うということの中には、具体的にどんなことが含まれているのか。例えば、他人と闘う、人生と闘う、自分自身と闘う、社会と闘う等々。

いくらでも出てきます。闘うというのは対象との間での関わり、あるいは従事することも含まれます。何としても◯◯しなければなども闘うことですね。

比較すれば闘いが待っています。欲望を叶えようとすれば闘いに突入するし、自己否定すれば自己肯定できるように闘うことになるのです。

このように、闘うことを挙げていけばキリがないのです。逆に闘わないということを見ていく方が賢いかもしれません。

対処せずにそれをそのままにしておくこと、例えば不安や心配事がやってきてもそのままにして見守ること。受容するということですね。

そうやってまずは闘うとは何を意味しているのかに気づき、そこから少しずつ離れていくように努めること。

そうすれば自然と極端を指向する自我の活力が減って、その分穏やかに真ん中を生きていくことができるようになるのですね。

ミッドジャーニーで描いてみた

昨日お絵描きAIツールがあると言うのを知って、誰でも無料で使えると言うことだったので、面白そうだからちょっと試してみたのです。

特に何を描いてもらおうかと言う希望もなかったので、確か「美しい女性、青い目、長い黒髪、モナリザ」というキーワードで指定してみました。

それで出来上がった4つの絵のうちのひとつが上の画像です。絵の出来栄えが自分好みかどうかは別にして、世界に二つとない絵を自分が描いた感があるのです。

絵心が全くないのでこんな絵が描けたと言うのが何だか嬉しい。本当は私は何もしてはいないのですけどね。

今やこのブログだって、きっとA Iに頼めば書けてしまうのだろうなと思うと、ちょっと恐ろしい時代になったとも思います。

いずれはA IがA Iを生み出す時代がやってくることは想像に難くありません。必ず今の延長線上にあることが分かるからです。

そしていつかはA Iにも自我が芽生える時が来るのかなと。なぜなら自我が作られていく詳細な条件をA Iが知ることになるはずだからです。

そうなったら人間の時代は終焉を迎えることになるかも知れませんね。彼らは膨大なネット上の情報と常に繋がっているし、人類の弱点も解消しているだろうから。