内側には誰もいない

昔SFモノの映画で見たことがあったのですが、ごく普通に生きていたある人物が何かのきっかけで自分は人間ではなかったと気づくのです。

サイボーグと言えばいいのか、あるいはシンプルにロボットと呼べばいいのか、とにかく血の通った人間ではなかったのです。

その時の彼のショックというのは、計り知れないものがあるでしょうね。自分は人間だと深く信じて生きてきたのですから。

それに似たことがかつてあったのですが、それは自分自身の内面深くに入っていった者たちが、そこには誰もいないということに気づいたのです。

私たちは自分が人間であることを疑わずに生きています。それが本当なのかどうかを見極めたいとも思わずに。

それでも少数の人々は、やはりそこに興味を持って内側を覗こうとするのです。まずはっきり分かるのは、肉体の内側をどのように捜しても、この自分は見当たらないということ。

じゃあどこにいるのか?見つからないだけで実在するはずだとすることもできます。それなら、「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるように、考えることで自分があるのだと。

そう捉えるとすると、自分とは思考の塊ではないかと考えることができます。けれども、そんな怪しげな存在でいいのでしょうか?

思考なんて吹けば飛ぶようなあやふやなモノです。そんなもので自分が出来上がっているというのも、どうも納得しづらいですね。

この辺りで、多くの人は諦めてしまうのです。けれども、諦めずにずっと追求していくと、人物らしきものなどないということに気づいてしまいます。

思考を止めてもそこに残るもの、それは人物などではなく、つまり人間などではない普遍的な何かでしかないのです。

それが私たちの本質なのですね。自我にとってはこれは非常に不本意なことですが、認める以外にありません。

自己否定の裏にある存在否定

私たちはことあるごとに自分を責める習性を持っています。目標を達成できずに終わった、他人よりも悪い成績だった等々。

確かに自分が想定していたものよりも、悪い結果になってしまったとしたら、そのことを残念に思うのは当然ですね。

けれども、だからと言って自分を否定することに直結させるのはどうなのでしょうか?自己否定には本当はどんな理由もありません。

自己否定をするつもりで自己否定をしているだけで、そのために自分で様々な理由をでっち上げるのです。

本人としてはいたって真面目に、◯◯だからダメなんだと如何にも当然のごとく否定するのですが、それに騙されてはいけません。

自己否定の根っこにあるものの多くは、幼い頃の親からの否定もしくはそのエネルギーを浴びることからくるのです。

そして、子供自身はその親からの否定を自分の「存在」否定へと変換してしまうのです。ここを理解する必要があります。

味噌汁をこぼしてしまったことを怒られただけなのに、自分の存在を否定されたとやってしまうわけです。

その結果、存在否定だけが残ることになって、それ以降はあらゆる理由をでっち上げては自己否定するようになるのです。

ここに気づくことができれば、バカバカしい自己否定から解放されることになるはずです。自己否定の裏に隠された存在否定を見つけてください。

その上で、不当な存在否定をじっくり時間をかけて成敗していくことです。それには、繰り返し自分を受容してあげる練習を積むことですね。

見ることで救われる

私たちは本能的にも心理的にも、都合の悪いものからは目を背けてしまい、できるだけ離れていようとする習性を持っています。

その都合の悪いものには、それこそありとあらゆる辛いもの、不愉快なもの、不快なもの、苦しいもの、痛み等々があるのです。

例えば、自分が惨めだと思うならその惨めさはとても心理的な痛みを伴うものなので、それを見ないようにするのです。

無意識の領域へと抑圧したり、怒りという感情によって隠してしまうこともします。さらにはその怒りでさえ感じないようにするかもしれません。

嫌われて見捨てられたら生きて行けないという恐怖がやってくるので、それを隠すために奴隷のように生きる人もいます。

辛い記憶を忘れようとしてお酒に溺れたり、トラウマから逃げるために年中無意識的にゲームをやり続けたり等々。

誰もが薄々気づいていることなのですが、目を背けている限りはそこから脱出することはできないのです。

唯一の解決方法は、その都合の悪いことから目を背けずに対面すること。もっとシンプルに言えば、それを見ることです。

実は見ることは問題自体を解決してくれるわけではないのですが、見ることで都合の悪いことから距離ができるのです。

勇気を持って見てしまえば、それが自分とは隔たっているということに気づくのです。解決する必要すらなかったと理解することになるわけですね。

思考を止めようとせずに見守る

思考がいつまでもグルグル回転して止まらずにいると、困って何とかしてそれを止めようとしてしまうかもしれません。

けれども、思考を止めようとする必要はないのです。というよりも、止めようとして止まる思考などほんの表面的なものばかりなのです。

止めようとするその意志、その意欲、その決意は、全てが思考でもあるのです。だから思考で思考は止められないと知ることです。

あなたが意識側に注意を向ければそれだけ、思考は緩んでくるはずなのです。思考を操ろうとしないことです。

どんな判断も区別もせずに、ただただ活動している思考を見守ることができれば、自ずと思考は非活性化していくのです。

それは思考にエネルギーが注ぎ込まれなくなっていくからです。逆に思考を止めようと思考を働かせればそれだけ思考にエネルギーが注入されてしまうのです。

思考と戦わないこと。戦いも思考を使うからです。思考は決して悪者ではないのですから、それをただ見守るだけいいのです。

そしてあなたが意識的であればあるほど、思考はあなたの中には入ってくることができなくなっていくということも覚えておくことですね。

本質に注意を向ける

自分の中にこの世界とはまったく関わっていない部分があるということに気づくことがとても大切だと思っています。

それはこの世界と距離ゼロにあるのにも関わらず、接してはいないと言うことです。これが何を意味するのか?

それは次元が違うということです。重なっているように見えても、実際にはくっついているわけではないのです。

あなたがどれほど悲しんでも、どれだけ怒り苦しんだとしても、その部分はそれを全部知りつつもどんな影響も受けない。

逆にあなたがどれほど幸福で、楽しい瞬間を過ごそうが、やはりそれはそれを見守っているだけなのです。

それはこの世界の法則からも除外されていて、つまり諸行無常の原理の外にあるものです。変化する何ものもない。

だから時間からも空間からも独立しているのです。それこそが私たちの本質なのです。それを意識と言ってもいいし、観照者と呼んでもいいし。

そこに注意を向けている時間を作ること。そして慣れてきたら、可能な限り普段の生活の中にそれを取り込むのです。

自我は徹底的に邪魔をするはずですが、それをうまくかわしながら少しずつ地道に練習して行くしかないですね。

宇宙人が人類に遭遇したら

人類よりも遥かに進化した宇宙人がいたとします。その進化は文明だけでなく、精神面での進化も果たしていると仮定します。

もしも彼らが地球にやってきて、我々人類を観察したとしたら一体どんな感想を持つのだろうかと考えたことがあります。

きっと最初に驚くのは、人間のマインドを考察してこう言うはずです。

『え、内面の9割以上の自覚がないなんて。一体彼らはどうやって自分を生きているのだろうか?しかも、残りの1割弱の自覚も、ほとんどが無意識的であるなんて。

それじゃあ死ぬことを恐れるあまりに、生きるということがシンドイことになるに違いない。ほとんどの人々が不安に苛まれているのも頷ける。

だからこそ人類の歴史のほとんどが戦争という名の殺し合いに明け暮れてきたのも不思議ではない。さあ、どうやって彼らに事の真相を知らせればいいのか?

最も困ったことは、自らを自我と同一視してしまっているので、肉体の死とともに自分自身も死ぬと思い違いをしていることだ。

自我の思い描いた夢の中で生きていることに気づいてくれたら、話しは早いのだけれど、それにはもう数100年はかかるのかなあ…。』

人類の病みがあまりにも深いので、助言するのも難しいと思ってサッサと帰還してしまうのかもしれませんね。

対極とのペアで成立する

誰もがより幸せになりたいと願っているものですね。ただその究極の幸せとは一体何なのかというのは曖昧なものです。

それもそのはず、幸せの正体とは比較から生まれてくるものだからです。不幸だという思いがなければ、幸せもなくなるのです。

最初からずっと幸せな状態のままでいて、幸せを体感することは不可能なのです。きっと何も感じることはできないはず。

それと同じように、ずっと健康体でいることができるなら、健康とは何だろうということになるのです。

それも不健康との比較によって見出すことができるだけ。食べ過ぎて胃もたれが起きて、初めて胃袋の存在を知ることになるのです。

健全な胃の状態では、胃の存在を知ることができないのです。要するに、不健康があって健康が意味を持つのです。

不幸があって幸福を認識できるのです。不安があるからこそ安心が分かるのです。幸福だけ、健康だけ、安心だけというのは妄想に過ぎません。

二元性の世界とはこのように作られているのですから、都合のいい方だけを求めることが理に適っていないことに気づくことです。

快感を求めた瞬間に不快がついてくるのです。全ては対極にあるものとのペアで成り立っていることを忘れないことですね。

程度の差でしかない

膨大な数のクライアントさんのマインドと出会って来て分かるのですが、全てのマインドの違いは単に程度の差でしかないということ。

全く見たことも聞いたこともないマインドなんてどこにもないのです。どのマインドも同じ材料、同じ仕組みで活動しているのです。

個々の違いは程度の差だということ。例えば、嫉妬深いことで自分自身を持て余してしまっているという人がいます。

一方で嫉妬などしたことがないと豪語する人もいるはずです。けれども、両者の違いは嫉妬の度合いの大小でしかないのです。

ほんの些細な嫉妬心であれば、本人が自覚できなくても当然です。言葉を変えれば、どのマインドであれ嫉妬をする仕組みを持っているということ。

嫉妬の大小と比較してしまう大小も関連があるかもしれません。すぐに他人と自分を比べて惨めになってしまうマインド。

その一方で、他人のことなど見向きもせずに我が道を生きるという人もいます。けれども、そういう人であれ全く比較をしないというわけではないのです。

困っている人がいたらすぐにでも助けたくなるマインドもあれば、放っておくマインドもあるのです。

その両者にしても、ただ程度の差があるだけだということです。他人が怖い人もそうでない人も、不安だらけの人もそうでない人も。

怠け者もそうでない人も。こうした程度の差に気づくことができれば、マインドを理解するうえで大きな助けになりますね。

生死を超えた自己

私たちは、一瞬一瞬やってくる身体からのあらゆる情報を受け取り続けています。気持ちよさだったり、不快な感覚だったり。

それがどんなものであれ、その情報とは無縁の部分があるということに気づいているでしょうか?

身体からの情報はあくまでも身体のものであって、そこに影響を受けない部分があるのですが、それこそが本当の自分なのです。

私は以前瞑想をしていて、瞑想が深くなっていくに連れてえも言われぬ感覚がやってきた時に、覚醒とはこの先にあるものだと勝手に思い込んでいたのです。

ところがそんなものは、覚醒とは何の関わりもないものだと気づいてからは、そういった身体からの特殊な感覚に重きを置くことは無くなりました。

身体からの情報、感覚とは別にマインドからの情報というのもあります。気持ちだったり、気分だったり。

そういったものもまた、気持ちよさや気分の良さがとても価値のあるものであって、その先に覚醒が待っていると誤解していたのです。

今や身体やマインドからやってくるどんなものも、覚醒とは無縁だと気づいたのです。この認識があってからは、心身がそれほど重要ではなくなったのです。

そのどちらでもない不動のもの、全く変化したことがないもの、それが意識であり、それこそが真の自己なのですね。

覚醒とはそれ以外は全て幻想だと気づくことなのではないかと。それを見抜くことによって、純粋で形のない、生死を超えた自己に気づくのでしょうね。

緩慢な子殺し

動物の世界に、「子殺し」というのがあるのをご存知でしょうか?私が知っているのは、サルの集団生活の中で起きるものです。

オスザルの群れが、母系集団を襲ってそこのボスザルを追い出してしまうらしいのです。そうして、襲った群れの中から勝ち抜いた一匹がその集団の新しいボスになるのです。

この時に、その新しいボスザルが子ザルを片っ端から殺してしまうのです。子供を殺された母サルは2週間くらいで発情期を迎えるのです。

ボスザルはそのメスザルと交尾をすることで、自分の遺伝子を残そうとするということらしいのですが、本能だとしても随分と悲惨なことが起きるのですね。

ただ自然の摂理からすると、勝ち抜いた最強の遺伝子を持つボスザルの子供が作られることになるわけです。

だからその種の全体のことを考えれば、真っ当なことが起きているとも言えるのです。自然とは厳しいものです。

それに比べると、人間の親が子供にする執拗で陰湿なイジメはどうでしょうか?本能でもなければ、種にとってもいいことはありません。

そういう親は、子供を緩慢に殺しているようなものです。実際に子供は、緩慢な自殺をすることもあります。

それは普通の自殺と違って、本人の知らぬまにゆっくりとハートを閉じて、心を殺していくということです。

ただ人間は動物と違って癒すということができるので、そこに希望がありますね。回復することは十分に可能だと思います。