忖度はあったのか?

昨年の流行語大賞にも確かなった「忖度」という言葉が、なかなか時代遅れにならないのは、それがマインドのメカニズムとしてあるからですね。

いわゆる森友学園問題に関連して、公文書偽造という大問題が発覚して大変な荒れ模様となっている国会ですが、その根っこにあるのが忖度があったのかどうか。

忖度があったとしてもそれは当たり前のことだとなぜ分からないのでしょうか?誰のマインドにも忖度がはたらくようにマインドはできているのですから。

忖度にいいも悪いもありません。その結果、法に触れるようなことがあればそれは問題ですし、処罰されなければならないというだけ。

もしも忖度してはいけないというのであれば、嫉妬をしてもダメということ、誰かを憎むのもダメということになってしまいます。

そうした考え方が根本にあると、物事を否定的に捉えることになってしまい、そこには何のご利益もありません。

それよりは、マインドとはどのように働くものなのかを深く理解することで、それを認めることの方がはるかに賢いのです。

安倍首相の間違いは、忖度はなかったと明言してしまったことにあるのです。昭恵夫人が名誉会長になっていたことを否定されないようにするためもあったのかも知れませんが…。

事務方に忖度されないような政治家であるなら、そちらの方が問題なのだということに一人ひとりが気付けばいいのです。

忖度を好ましく感じないのであれば、それは忖度されなかった側のひがみくらいに解釈すればいいのです。

私自身は、若い時から義理を欠いて生きるというのをモットーとしていたので、マインドの忖度事情を冷静に見ることができたのかもしれません。

なんであれ、そうしたくないということであれば、それをしようとするマインド事情をしっかり見つめて、いつも気づいていてあげることですね。