モチベーションなんていらない?

最近あるクライアントさんとお話ししているときに、モチベーションが下がると思うように仕事ができなくなるといったことを伝えられました。

その時には、誰にとってもごく普通のことだなと思っていたのですが、ふと気が付いたのですが、そのモチベーションなるものが必要となるのはなぜなのか?

例えば、ある仕事を頼まれてそれを時間内に頑張ってやり遂げようとするとき、報酬として1万円もらえる場合と、100万円もらえるのとではモチベーションが違うのは当然かもしれません。

つまりモチベーションというのは、何かの要因によって起きてくる「やる気度」のことだと言えるのですが、実は私自身は若い頃からモチベーションを自覚していなかったのです。

何かをするときに、やる気というのを感じられずに生きてきたということで、ちょっとそう言ってもうまく伝わらないだろうと思うのです。

もっと簡単に言ってしまえば、何事にもやる気がないということなのかもしれません。これって、考えてみれば結構辛いことですよね 笑。

それこそが私の奥深いところにくすぶっていた違和感なのかもしれません。けれどもそのおかげで、今ではより積極的にモチベーションはいらないという生き方になれたのです。

ないものはないのですから、それを受け入れて生きていくしかないということですね。モチベーションがないと、いいこともあって、それは常に淡々としていられるということ。

それと自然でいられるということ。関連するかもしれませんが、テンションの高い低いもありませんので、つまらない人と思われるかもしれませんが…。

もしもモチベーションが小さくなってしまったら、あなたの生活はどうなるでしょうか?一度よく考えてみるのもいいことかもしれません。モチベーションの原動力は愛なのか、それとも恐怖?

 

“モチベーションなんていらない?” への4件の返信

  1. ドラマや仮想のことを実際のことのように体験したい、という病に侵されています。
    でも仕事をしないと生活が出来ない独身者ですので、モチベーションは仕事をするうえで必要でそれをかき立てるのに時間がいり
    終るとぐったりして仮想の世界に逃げ込みます。
    仮想のものから離れることが必要ですがうまくいきません。

  2. saraさん

    それは簡単に言ってしまえば、現実逃避ということではないでしょうか?都合の悪いことを見ないようにするということですので、いつまでも続けているわけにはいかないのです。

    私たちは、肉体がある限りは、たとえ覚醒したとしても日々の生活は続いて行くわけですから。日常の生活を現実だと思っているからこそ、ドラマや仮想のことに逃げるわけですから、この現実こそが物語なのだと見抜くことができれば、現実から逃げる必要がなくなりますね。

  3. 検索したところ4月16日のブログ「物語中毒を見抜く」が私にぴったりのようです。でも、「エゴとの同一化を見抜くこと。人生を物語だと見抜く目を養うこと。」の一文が理解できないのです。
    この現実こそが物語だとしても、気に入らない物語を生きていたくないのでしょうか。この物語は思うようにコントロールできないので、カタルシスっていう奴が得られないのでしょうか。もっと奥底でなんらかの恐怖を抱いているのでしょうか。
    それ以前に思考の投影である私もわたしの人生も架空であるという…。外から私の人生を眺めるという…。
    いま、ぐちゃぐちゃに自分の人生の中で混乱している私が、外からそれを眺めるという。物語を抜きにして。
    とても難しそうに思えます。

    1. 人生物語に、しっかりと飲み込まれて巻き込まれているときに、それが物語なのだと見抜くことはほとんど不可能でしょうね。
      というより、物語の中の主人公であるあなたが見抜くのではなく、マインドとの同一化を見破ったあなたの本質だけが、人生を物語だと見抜くことができるということです。

      人生の中で混乱しているあなたのままで、つまりエゴであるあなたが物語を物語として見破ることはできないのです。だから、力を抜いて、マインドを静かにしてしばらく静寂の中にいるようにすることです。思考の外からでしか、物語として見ることはできないのですから。

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