自分が基準

自分が子供の頃には、今のようなゴミの分別というものはなかったように記憶しています。ほとんど何も考えずにどんなゴミもゴミ箱へまとめて捨てていたと思います。

ところが、いつの頃からかゴミを捨てるのが厳密になってきて、気が付いたら相当に気を配らねばならないような世の中になってしまいました。

それでも、地域によっては燃えるゴミもプラスティックも全部一緒くたに捨てられる場所もあるようですね。たまたまですが、私が暮らしている地域ではかなり厳格な分別を要求されています。

たまに、友人たちと飲み会をすると、友人の中にはゴミの分別がいい加減だなと感じる人もいます。自分は何でも口に出してしまうほうなので、そうしたことも相手に伝えます。

そのゴミの捨て方、だらしないんじゃないの?くらいは平気で言えます。酔っているからというのもあるでしょうけれど、もっとしっかり分別してよと思うのです。

ところが、そうした友人は本人の住んでいるエリアでは、それほど厳密な分別をしなくてもいい所で暮らしているようなのです。その人はその人の毎日のやり方でゴミを捨てるだけなのです。

それを聞いた後は、さすがにそれじゃあ仕方ないねと頭では理解するのですが、どうも心では納得できないでいる意識があるようなのです。

自分がいつも気をつけて、余分なエネルギーを使って、やりたくもないことをやらねばと頑張っていることは、誰にでも同じようにやって欲しいと思っている意識があるようです。

それができないなら、その人はだらしのない人、しょうもない人だなあというとても理不尽な感覚が自分の中にあるようです。

それは笑ってしまうようなものですが、人はいつも自分が基準となって、人を判断したり裁いたりするものなのですね。

逆に、分別をそれほど厳密にしないでいい地域で長いこと暮らしていたとしたら、今の自分のように細かく分別する友人がいたら、うっとうしいなあと感じてしまうかもしれません。

人には、自分の正しさや基準をとても大切にする傾向があるということですね。そのことを知っているだけでも、ある程度人の言動をやさしい目で見てあげることができるようになるかもしれません。

それは、人との関係をより円滑にする助けとなるでしょうし、自分自身も否定的な目というものを減らすことができて、人生が楽になるはずですね。