傷つけること

私たちは、怒りや憎悪の感情があるときには、人を傷つけたいという衝動を持つこともあるし、その反対に決して人を傷つけたくないという思いも持っていますね。

そういう二面性が人の心にはあるということです。通常心が健康な状態では、自分が傷つけられるのがいやなのと同じで、人を傷つけたくはないはずです。

しかし、悪気があってもなくても、また自覚があってもなくても、誰でも必ず人を傷つけてしまうという経験をします。それはどんなに細心の注意を払って生活していても、必ず起きることです。

相手を傷つけてしまった自分は加害者としての立場に立たされることになりますので、相手に謝るわけです。ごめんなさい、赦して下さいね、と。これは、傷つけてしまった自分は罪があると感じるため、それを相手に赦してもらうことで少しでも楽になろうとする行為とも言えます。

自分で自分を充分に赦すことができるのであれば、一度の謝罪だけで晴れ晴れとした気持ちに戻すこともできます。

しかし、それがうまくできないとなると、その罪による罪悪感を持ち続けることになってしまうため、本人はとても苦しい思いをすることになってしまいます。

結局、それがとても怖いので細心の注意を払って人を傷つけないようにするわけです。相手への思いやりというのも勿論ありますが、それより自分の罪悪感への恐れの方が大きいのです。

そのために、ともすると私たちは自己表現を抑圧して、相手の気持ちや都合ばかり優先してしまい、罪悪感を免れたとしても今度は自己犠牲のえじきになってしまうのです。

自己犠牲を繰り返していくと、怒りを蓄積していってしまうために、今度は相手を傷つけてやりたいという攻撃的な気持ちになってしまうのです。

「奇跡のコース」のワークブックの中に、「自分を傷つけられるのは自分の思い以外の何ものでもない」という言葉があります。つまり、言い換えると人は自分以外の誰かを傷つけることなどできないのだと言っているのです。

もしこれが本当だとしたら、相手を傷つけることを怖れて自己犠牲を繰り返すこともなくなるはずですね。傷つけてしまったと思っても、それは錯覚であって罪悪感を持つ必要もないとうことになります。

なぜそんなことが言えるかというと、自分が誰かに傷つけられたと感じた時のことを考えてみればいいのです。相手にされたどんなことも、それは結果であって、その原因となるものは、自分の心の中にあるのです。

このことは投影の説明の中で繰り返しお伝えしてきました。したがって、相手から傷つけられるように見えるものは、結局自分で自分を傷つけようとしている想念なのだということになります。

自分は決して相手を傷つけることはできない、できると思っていることほど傲慢なことはないと分かることです。そうすることで、自分を罪悪感からも、自己犠牲からも解放することができるのです。