親教の恐ろしさ

以下のoshoの言葉を味わってみてください。誰かの言葉で「信じる者は救われる」というのがありますが、それとちょうど正反対の内容だと思います。

誰かの言うことを信じるのは破壊的であり、あなたの生にとって有害だ。信じないこと、決して信じないことだ!信仰体系を生の基礎とする者は、盲目の世界へと入るだろう–すると、生に光が射すことはない。生涯、光には到達できないだろう。他人の言うことを信じる者は、決して自分自身を知り得ない。

なぜ他人の言うことを信じてはいけないのでしょうか?残念なことですが、この世界にはあなたを利用しようと思って虎視眈々と狙っている者がいるからです。

それがこの世界の実情なので、信じてはいけないのです。それともう一つ、他人を信じてはいけないもっと大切な理由があります。

それは、信じた瞬間に自ら検証しようとしなくなってしまうからです。誰かが正しそうなことを言ったとしても、それがそのままあなたに当てはまるとは限りません。

本当のことを知りたければ、自分自身で身を持って確かめる以外に方法はないということです。信じた瞬間に、人は何もしなくなってしまいます。

ただし、幼い子供の場合は信じるなと言ってもどうしようもないのです。無力な子供は、親を信じて生きるしかないからです。

そのため、自分がいつも正しいというような親、あるいは子供をコントロールしようとする親などは、子供に自分を信用させようとあれこれ策を練るのです。

子供はまんまとその作戦に乗せられて、大人になるまで親という教祖に入信したような状態で生きていくことになるのです。

他のどんな宗教よりも親教は洗脳が強いのです。なぜなら、まだ自我の発達前から心を侵略されてしまうからです。

もしも親の正しさが自分のマインド深くに影を落としていると感じるなら、人生を棒に振る前にしっかりと癒しをすることですね。

外の熱狂と内の静寂

この数日の間、スポーツクラブがガラ空き状態で非常に気分がよかったのです。初めのうちはなぜか分からなかったのですが、朝から自宅で野球観戦をしている人が多かったらしいのです。

元々のファンであれ、にわかファンであれ、とにかく熱狂の日々だったのですね。久しく野球の試合を見ていない自分は、ほぼ興味がないのです。

そのことをスポーツクラブの知り合いに告げると、非国民だと言って笑われてしまいました。そう思われても仕方がないのかもしれませんね。

かつては私も野球観戦が好きでしたし、基本的にはスポーツ観戦が好きだったので、熱狂する人の気持ちはよく知っているのです。

ただ、もうそういった興味が薄れてしまっているのも事実なので、どれほど興奮させられたかを延々と聞かされるのには、閉口してしまいます。

私にとって、一度離れてしまって何とも感じなくなってしまったものは、元々本質的なものではないということです。

仮に熱狂することがあったとしても、それを引きずることはないと分かるのです。熱狂は自我のものであり、自我を強めることになるのです。

どれほど熱狂したとしても、すぐに内側にある静寂に戻ることができるのです。それはとてもありがたいことですね。

機嫌の悪さは罪

少し前にこのブログで、自分の気分をコントロールできたら最強ですよね、ということを書いたことがありました。

「気分」という言葉に近い言葉で「機嫌」というのがありますね。気分は自分自身が体験する内面の状態を表すのに使われる言葉です。

一方で、機嫌は他人から見た表情や態度を通じて、その人が現在どのような気分なのかを表すのに使われる言葉だと言えます。

そのせいなのか、私は個人的に機嫌という言葉があまり好きではありません。自分の状態を他人に機嫌がいいとか悪いと判断されるのが嫌なのです。

その逆も然りで、他人の機嫌の良さとか悪さなどに翻弄させられるのは、もっと嫌いなのです。これは誰にでも言えることだとは思いますが。

機嫌が悪いというのは非常に人迷惑なことだなとつくづく思うのです。親の機嫌が悪いだけで、子供はビクビクしてしまうこともあるからです。

子供は常に親の感情的エネルギーに晒されて、そこから逃げる方法がありません。できることと言ったら、ハートを閉じることくらいです。

その結果、親とのコミュニケーションに支障をきたすことにもなってしまうのです。機嫌の悪さは本人が自覚して改善することができるものです。

つまり、気分が悪くてもそれを表に出さないように気をつけるだけで、子供は救われるのです。それができない親は、本人のインナーチャイルドが暴れていると思って間違いありません。

私自身も思い当たることが多々あるのですが、機嫌の悪い状態は大人げないのでしっかりそれを自覚した上で、自分の気分をもっと上手にコントロールできるようにする必要がありますね。

マインドの土台を作り直す

今となっては、我が家は築43年のご老体になってしまいました。新築当初は、地震が来ても揺れ方が固い感じがして強さを感じることができたのです。

ところが、年月が経つうちに徐々に柳のような揺れ方をするようになっていて、土台もシロアリにやられている箇所があるようで、なんとかしなければならない状態となったのです。

いざ新築を建てようとすると、勉強しなければならないことばかりでウンザリしてしまって、そう言うのを楽しみにできる人が羨ましいなと。

近年は、高気密高断熱、換気、耐震などをしっかり考えて家を建てることが大事な時代になっているようです。

けれども、どれほど性能の良い家を作ろうとしても、その土台がしっかりしていなければその努力は無駄になってしまいます。

仮にお金が潤沢にあったとしたら、鉄筋コンクリートの家を建てれば、最高性能の家が建つとしても、土台や土地そのものが軟弱だったりしたら、何にもならないのです。

実は人間もそれと全く同じ事が言えます。例えば自分の存在価値に気づくことなく、大人になってなんとかして人生を立て直そうとどれほど頑張ってみても、土台無理な話なのです。

マインドの土台となる、自分の存在を認めることができなければ、単なる悪あがきで終わってしまいます。

その間違った努力がむしろ仇となって、悪い方向へと進んでしまうのです。まずは、土台を作り直すこと。これしかありません。

具体的には、幼かった頃の自分を繰り返し受け止めてあげて、安心させてあげることに徹するのです。

そこからようやく、高気密にするには、高断熱を確保するには、耐震等級3にする等々が意味を持ってくるのですね。

自分一人では難しいと思うなら、プロの力を借りることも検討すべきだと思いますね。

もうしばらく自我として生きたい!

以下のoshoの言葉を聴いて、ものすご〜く納得している自分がいます。自分自身のことも含めて、ほとんど誰にも当てはまる耳が痛い言葉。

私たちは心の底では
自我から与えられる重みがにせものであること
まやかしであることにいつも気がついている
私たちはそれを知っているが、まだ知ってはいない
私たちは気がついているが、まだ知りたくはない
私たちは気がついているが、まだ忘れたままでいたい
これが人間のジレンマだ

そうなんです。私たちは、実は自覚できないだけで深いところでは気づいているのです。何をって?それは自分は自我ではないということです。

自分の中の誰かが、自分を縛るために罪悪感を上手に利用していることにも気づいているのです。罪悪感を投げられると、誰もが逃げ続けてしまうので自我の思い通りの人生から抜け出せないでいるのです。

あるいは、表現を変えると防衛の一つとして、自分は正しいというところから逸脱しないようにするのです。

こうあるべき、こうであらねばならない、道徳、倫理、そういった不自然なもので自分の自由を奪うわけです。

それと引き換えに手に入れられるのは、ほんの少々の安心感のみなのです。oshoの言う通り、気づいているのにまだ知りたくない。

まだ忘れたままでもうしばらく自我としての人生を続けたい。これが自我の本当の気持ちなのだと思いますね。

それが悪いということではないですが、もうそろそろバカバカしいと感じるようになってきた人から順番に、自分の本性を見ようとするようになるのでしょうね。

心の避難所を作る

日本は災害大国です。万が一災害に見舞われたときのために、各自で避難所を特定しておくことはとても大切ですね。

そうした物理的な避難所とは別に、内面にも避難所があれば大きな助けになるはずです。私のイメージは、あらゆるものから解放される場所。

私たちは精神的に多くのしがらみを持っていて、さまざまに縛られて暮らしています。その不自由さに耐えられなくなる前に、心の避難所に退避できればいいわけです。

そんなもの、一体どうやって作ればいいのか?実はやり方はいたってシンプル。もちろんそれなりに練習は必要です。私もまだまだ未熟ですが。

自分の内側に静寂が広がるようにするのです。あらゆる言葉を無くして沈黙の中に入っていくようにするのです。

それはあなたをあらゆるものから解放してくれます。あなたが所属しているもの、他人との関係性、あなたの属性、そういったものとの関係が消えてしまいます。

すると、あなたはたった一人、そう完全な孤独の中へと置き去りになるのですが、実はそこから孤独も消えてしまいます。

あらゆる対象との関係性こそが孤独を作り出していたので、それらから解放されると孤独も同時に消えていってしまうのです。

そして境界が消失して全体性へと戻っていくことができるのです。自分が誰でもなくなった時の清々しさは格別のものがありますね。

意識と思考の直交軸

何をやっていても何もしていなくても、いついかなる時でも次のことを忘れないようにする必要があります。

それは、私たちの内面の状態を二つの軸で見るということ。一つ目は、意識的かあるいは無意識的かということ。

そしてもう一つは、思考が多い状態かあるいは思考が少ないかです。この二つの軸は直交していると思うと分かりやすいです。

中学生の頃に習ったx軸とy軸のグラフを覚えていると思いますが、それと同じようにして意識の方を例えばx軸にするなら、思考の方をy軸にするといった感じです。

そうすると、二つの直交する軸によって4つの仕切られた場ができますが、それぞれに特徴があるのです。

まず、無意識的で思考が多い状態というのは、ほとんどの多くの人々の日常的な状態だと思って間違いありません。

社会で働いている人や、勉強を頑張っている人などはこの状態である可能性が高いと思います。思考というのは、人を無意識に持っていく力があるようです。

次に、無意識的で思考が少ない状態というのは、赤ちゃんや幼児の頃の無邪気な様子を思い出せばいいのです。大人でも、ぼーっとしている状態が当てはまります。

そして三つ目は、意識的であって思考が多い状態になるのですが、しっかりと意識的でありつつ思考過多の状態というのは原理的にはありません。

最後は、意識的であって思考が少ない状態ですが、この状態であり続けることができたら人生が大きく変わってしまうはずです。

自我から離れて、自分の本質の感覚が明確になってくるからです。以上の4つの内面の状態を理解しつつ、まずはその時々の自分の状態を知ることです。

そして少しずつでも、最後の状態、つまり意識的で思考がないという状態に持っていけるよう練習することですね。

存在を丸ごと認める

まず初めにはっきりさせなければならないのは、この宇宙はあなたがいなくてもやっていけるということです。

あなたがいなくても、日本は困らない。それはそういうものですし、そんなことは分かってるという声が聞こえてきそうです。

ところが視野をぐっと狭めてしまうと、誰かに自分は必要だと言われたいと思っている人が沢山いるのも事実です。

これ、役に立ちたい症候群とか、必要とされたい症候群などと私が勝手に呼んでいるのですが、心当たりがある人がいるはずです。

こうした事は全て、自分の存在をあるがままに受け止めることができないことから起きて来ることなのです。

存在をそのままに認めることができないために、その代わりになるものを探そうとして、他人の力を借りることを考えるのです。

必要とされれば、自分はこのままいてもいいと思えるし、役に立っていると思えれば、自分の価値が上がって安心して生きていけると思うのです。

もしも自分の存在を丸ごと認めることができれば、誰からも必要とされずにいてもいいし、誰かの役に立ちたいという欲求もなしに生活できるのです。

子育てを頑張っている時や、社会で活躍している最中ならいいのですが、それから先の人生では徐々に期待されることが減るし、何かの役に立つこともなくなっていくのです。

そうなった時に困らないためには、今からでも遅くないので自分の存在を丸ごと受け止めることができるようにしていく必要があるのです。

具体的な方法がわからなければ、プロの力を借りることもありだと思いますね。

自我を脇へ置く

日々いろいろな動画を観るのが習慣になっていて、その中でも科学的なもの、宇宙物理学や量子力学などの分野の難しそうな話題を分かりやすく解説しているものをよく観るのです。

とても興味深くて、様々な書籍の内容を簡潔にまとめてくれているので、自分でそういった本を読まなくていいので非常に助かりますね。

ただそのような動画を観ていて時々違和感を感じることがあるのですが、それは「意識」という言葉がかなり曖昧に使われていることです。

もっというと、脳によって意識は生じるものという前提があるように感じてしまうのですが、どうもその前提で研究が進められているようなのです。

私の感覚では意識は脳とは全く無縁な自分の本質であると受け取っているので、そこの違和感は非常に大きいのです。

意識についてはきっとこれまでのような科学的なアプローチでは解明することはできないと思っています。

自我の要素を全て脇に追いやってしまった後に残るもの、それが意識の感覚に一番近いのだろうと感じます。

例えば、自分は人間だ、を脇に置くのです。続けて、自分は肉体だ、自分は生物だ、自分は地球上で生きている、などを全て脇に置いていくのです。

そうしてもう自分について何も残っていない状態までいった時に、それでも残っているものこそが意識なのだろうなと。

それはただの無だし、この3次元の世界の中に存在するものではないと分かる気がします。これが科学で解明できないと思われる理由です。

普段は自我に乗っ取られていますが、こうしてゆっくりと自我を自分の中心から脇へ押しやることで、本質である意識として全てを見ることができる感じがしますね。

執着から離れていく

愛の形をしているものの、その実中身は執着で出来ているということがとても沢山あるのです。だからドラマが成立するのですが…。

それを見るにつけバカバカしいと思ってしまうのですが、だからと言っておいそれと笑ったりすることはできません。

なぜなら渦中にいる人は、本気でそれを愛だと信じているのですから。そうなると、愛することは苦しいなんてことを言い出すわけです。

愛が苦しいというのがもうすでに原理的に破綻しています。ただ、執着は誰も幸せにならないので手放しましょうというのも変ですね。

なぜなら、手放せないことを執着と呼ぶのですから。そもそも手放せるのであれば、それはもう執着ではなくなってしまっています。

執着から離れるための第一歩は、当然ですがそれが執着であるということに気づくことです。その気づきがなければ、絶対その先へは進むことができません。

この気づきは冷静な理解があれば大丈夫。その全てが執着というのではなく、愛と執着が混ざった状態だと思えばいいのです。

その上で、執着の要素があるなということを理解するのです。執着心をじっくりと見つめてあげるのです。

それがいいとか悪いということではなく、ただそれが在ることを認めてあげるのです。その上で、執着のパワーがどこからやってくるのかを見るのです。

その必死さは、ターゲットから離れてしまったら生きていけないという思い。自分の命がかかっているからこそしがみつくのです。

そのしがみついている自分の様を見守ること。誰だって溺れかけている人は、浮いているものならどんなものにでもしがみつくのです。

それが当然だということを認めてあげれば、少しずつですが力を抜いても沈んでいかないことに気づくはずです。

執着心が小さくなってくると、どこか清々しい気持ちというのがやってくるので、それが執着から離れていくときのサインだと覚えておくといいですね。