他人の一言で目が覚める

認知症の母親が時々、夜間自宅で転倒するようになってきました。監視カメラで見ていて気づく時には助けに行けますが、就寝後はその限りではないのです。

そのため、まだまだと思っていたのですがどうも一刻の猶予もできない状態になってきたことを認めなければと思うようになりました。

このままだと、転んで骨折したり頭を打ったりしてとても危険なことになりそうです。ただ半年前に申し込んでおいた特別養護老人ホーム(比較的安価)は、空きがない。

さあどうしたらいいだろうと考えていた時に、ある認知症専門医の方の言葉でスッと目を覚ますことができました。

というのも、高額な有料老人ホームに入居して親の財産を使ってしまうのは勿体無いという、浅はかな考えに囚われていたのです。

自分が管理しているからといって、親のお金は親が気持ちよく余生を過ごすのに使うのが一番いいというのは当たり前のことです。

人間欲に目がくらむと、ごく普通に物事を考えることもできなくなるのですね。目が覚めてみてびっくりです。

ということで自宅での介護生活はそろそろ終わりを迎えそうです。来年からは、自分の部屋で過ごすことができそうです。

それにしても認知症の母親には本当に多くのことを教えてもらえたし、いい人生だったよねと改めて二人で話し合うこともできたので、ありたがいことですね。

自分の癒しが相手を変える

久しぶりに人間関係のことについて書いてみようと思います。かつてはそういった内容のことを真面目に書いていたのですが、最近はちょっとご無沙汰していましたね。

私たち人間は社会的な存在です。人数の大小があっても、多くの場合数名以上の他人に囲まれて生きています。

だから他人との関係性というのはとても重要になってくるわけです。幼稚園や保育園を皮切りに、様々な学校や会社などで団体生活の中に入ることになるのです。

その時になんの支障もなく、スムーズな人間関係を築けるならそれに越したことはありませんね。けれども、どうもうまくいかないということも起きてくるのです。

その時に、問題が自分にあるのだと考える場合もあれば、相手に問題があると考える場合もあるはずです。

どちらにしても、そう簡単に問題が解決することはありません。ただ自分になんらかの問題があるとする場合の方が、望みがあるのです。

なぜなら、他人の問題を改善するというのは他人任せになってしまうからです。そしてここからが本題なのですが、どんな場合であれ問題はこちら側にあるという見方ができるかどうか。

常識的に見れば、どう考えたって相手の問題だと言えるとしても、そのような相手と関係している時点で、もうそれは自分の人生の一部なわけです。

ということは、自分の身に起きることは自分が起こしているという原点に立ち返って、深く自分を見つめてみるいい機会だと捉える必要があるのです。

そして癒しなどを通して自分の生き方や考え方が変化すると、不思議なことに相手の言動さえも変化する可能性が高いのです。

自分を癒していく途中で、仮に相手との関係が壊れたとしても、それはその方が良かったということです。

私たちは他人との関係の中で多くのことに気付かされるのです。それが何よりも大切なことですし、その上で関係性を深めていけたらなお素晴らしいことですね。

無知であることに気づく

この世に悪などというものはありません。もちろん罪もないのですが、罪悪感はあります。自ら作り出してしまうだけですが。

悪がないばかりか、善もありません。あるのはどちらでもないという中間の状態だけです。もしも百歩譲って悪があるとしたら、それは無知のことです。

無知とは、真実を知らなすぎて勝手に夢のような世界で大騒ぎしていることです。ひどく苦しんでみたり、不安になったり、野心に満ちたり。

知らないというのは本当に恐ろしいことです。生をバカバカしいことの連続にしてしまうのは、真実に対する決定的な無知のせいなのです。

自我というのは、私たちのその無知を利用して生きるのです。無知であるがために、死を恐れ苦しみを恐れて防衛三昧になるのです。

それが思考を次から次へと働かせて、より一層の無知の中へと迷い込ませるのです。それが自我が生き延びるやり方なのです。

こうしたことは、親も学校でも誰も教えてくれません。無知が無知を育て続けるのですから、いつまで経っても地球上に無知が蔓延ったままなのです。

もうそろそろ、無知であることをしっかり見抜き、無知の中で生きるのをやめるためにどうしたらいいかを真剣に検討する必要があると思います。

やんわりと防衛を小さくしてゆき、少しの勇気をもって意識的になるように練習することです。結果は10年後、20年後に出るでしょうね。

思考を見守る側に戻る

意識をしっかり目覚めさせておくこと、つまりは意識的であることを継続することができれば、過去へ行ったり未来へ行ったりが少なくなるのです。

なぜなら、意識的であることによって思考過多の状態から脱出することができるからです。思考は常に過去と未来を行ったり来たり。

逆に言えば思考は今この瞬間にいることができないのです。思考は時間的な広がりというか空間が必要なのですね。

たった今という瞬間には思考が機能するスペースがないのです。だからこそ十分に意識的であることは、改めて瞑想をする必要すらありません。

思考を頼りに生きている自我は、思考が使えない今この瞬間にはいることができないのです。だから私たちは普段過去を思い出したり、未来のことを考えたりするわけです。

そうして思考が活躍する状態を維持させようとしているのです。実は、時間あるいは時間的広がりということ自体、思考による作り物なのです。

そう考えると、思考というのは本当にうまくできているものだなと感心してしまいます。思考がどれほど巧みであれ、私たちの本質は思考とはなんの関係もありません。

そのことを忘れずにいれば、いつかは思考を見守る側としての意識こそが自己の本質だということに気づくことになるのでしょうね。

癒せばハラスメントは起きない

いつの頃からだったのか、セクハラとかパワハラと言った言葉があちこちで叫ばれるようになって久しいですね。

私自身は実際の体験をした記憶がないので、そういったハラスメントに遭った人の気持ちは、想像するしかないのです。

特に自分は男性だからか、セクハラもパワハラも自分が加害者側になる可能性があるので、気をつけなければならないと思っています。

被害者側になるのは、立場上弱みを握られている場合が多いのではないかと思います。例えば、上司と部下、先生と生徒、親と子等々。

本来誰と誰でも対等であるはずなのですが、社会や家庭においては立場上の上下というのがどうしてもあるのです。

部下の立場では、上司に逆らいにくいし、生徒は先生に従うのが社会の一般的ルールと思われています。

子供だって親の機嫌を損ねたら大変なことになると思えば、自由な自己表現を抑えてしまうようになるのです。

立場の違いを考慮せずに、立場の有利な側が無遠慮な言動をすれば、知らぬ間にハラスメントをしている可能性があるということです。

だからと言って被害者側に勇気を持って立ち向かえと言ったところで、それは現実的ではありません。要するに加害者側の配慮が絶対的に必要だということですね。

加害者側に悪気がないのであれば、本人の癒しを進めることで問題は起きなくなっていくはずです。 

生きることは手段ではない

人生には成功も失敗もありません。なぜなら、人生は何かの目標を達成するための手段ではないからです。

成功と失敗が起きるためには、とにかく何らかの目標が必要なのです。その目標に向かって少しでも近づくことが成功で、遠ざかれば失敗なのです。

だからもしもあなたが未来のどこかに目標を作り出してしまうと、その目標を達成するための手段として人生を使うことになるわけです。

シンプルに表現すれば、人生は手段ではなくそれ自体が目標だということです。生まれて生きて死ぬ、それだけです。

それで完結しているのです。ところが自我はそれでは気が済まないのです。生きることとは別の目標を設定したがるのです。

それを達成するために頑張るのですが、結局どんな目標を達成してもしなくても最後は死ぬことで決着するのです。

生きること自体が目標であるということが腑に落ちるようになったなら、穏やかで喜びに満ちた毎日を過ごすこともできるはず。

なぜなら、失敗を恐れて悩んだり焦ったりする必要がないからです。誰のどんな人生であれ、もうすでに共通の目標は達成した状態なのですから。

変わり者でもいい

今思い返すと子供の頃の自分というのは、随分と傲慢だったなと思うのです。大人の人たちに対して、尊敬の念を抱いたことがなかったからです。

というよりも、大人のクセに何て頭が悪いんだろうと思っていたりしたのです。例えば、「たくさん食べなさい」と言う大人。

たくさん食べることがいいことだと思っているようで、食べたいだけ食べなさいと言うべきじゃないのかなと思ってました。

あるいは、「仲良くしなさい」というのもなんだそれ?と思っていました。仲良しの友人とは仲がいいし、仲良しじゃない友人とは仲が良くないのだからそれでいいじゃないって。

なぜわざわざ誰とでも仲良しにならなきゃいけないのか、その訳を知りたいものだと思っていましたね。

あと一番苦手だったのが、「予定を立てなさい」というもの。予定をしっかり立ててしまうと、どうにも身動きができなくて不自由な気がしたのです。

この感覚は今でも色濃く残っていて、明日の予定もものすごくざっくりとしたものでないと、なんとなく気が重く感じてしまうのです。

そんな感じで要するに、いろいろ変わり者だったわけです。それをそのまま引きずって大人になってしまった感があります。

それでも生きているし、みんなと同じじゃなくてもいいという考えも、今も昔も変わらないです。人間て変わらないんですね。

ただし、癒しを継続していくと生き方や考え方の根本が変化します。より自由な生き方ができるし、より自然体になっていくはずですね。

鏡のようにあるがままを映し出す!?

思考から解放された純粋な心というのはただの鏡だ、と osho は伝えてくれているのですが、それがどうも長いことしっくりこないでいたのです。

つまり逆を言えば、自我に乗っ取られた私たちのマインドは、まるで歪んだ鏡のように周囲のものを映し出すということです。

鏡はその周囲にあるものをそのままに、あるがままに映し出すのですが、私たちの目、自我の目はそうではないということです。

確かに自我の目は観念というフィルタをかけてしか、ものを見ることができません。例えば今私がいる部屋の様子が目に写っているのですが、自分ではあるがままを見ているように思えます。

けれども、上を向けば天井があって、下を見れば床があって目の前には壁があってという具合に常に観念や概念が働いた結果を見ているのです。

目を大きく見開いたまま、何を見ているのか分からないという状態にならない限りは、鏡にはならないのですね。

分かってはいたのですが、あらためて見つめ直してみて何となくしっくりくるようになったようです。

だとしたら、マインドが鏡のようになるためには頭をごっそりそのまま無くしてしまうしかないのではないかと思われます。

あるとき、目の前のものを微細に明確に見ているのに、何を見ているのか全く分からないという不思議な夢を見たことがありました。

あれはきっと、観念や概念を司る脳の部分が眠ってしまった状態で夢を見たからそうなったのだろうと思っています。

自我が生きている状態で観念だけが落ちてしまうと、そんなもどかしい体験をすることになるのですね。

最後の野心は健在

長いこと生きてきて、これまでで最も印象に残ったことは、この自分はいないということです。

それは勿論ただ情報として知ったということだけであって、実体験として知ったわけではなかったのです。

それでも、その衝撃は他のどんなことよりも凄まじく、そして大いなる希望として自分の中に定着したのです。

その後毎朝のように瞑想をしたり、絶えず意識的であることを訓練したりしていたのですが、自分の本質は自我ではないという知識に留まっていたのです。

それから数年後にたった一度だけ、その体験はやってきてくれました。どう説明しても曖昧な表現になってしまうのですが、ただ個人としての自分がいない体験をしたのです。

本当はその体験が起きただけであって、それを体験した自分などいないと分かっているのですが、自我は自分の体験にしてしまうのです。

その後はそうした明らかな体験はやって来なくなってしまったのですが、その代わりにその片鱗は絶えず感じるようになったのです。

ただし自我の騒音が大き過ぎて、自分の中の静寂がかき消されてしまうので、片鱗でしか味わえないのが残念。

まるでジェット機の爆音の中で、風鈴の音を聞き分けるような感じです。もう色々な野心がだいぶ消えていってくれたのですが、本質に戻りたいという野心だけは強く残っています。

その最後の野心が取れた時にこそ、本当の自分に戻ることができるのでしょうね。

認知症がマインドの仕組みを見せてくれる

母親には平日月〜土まで毎日デイサービスに行ってもらっているので、日曜日だけが唯一朝からのんびりと家にいられる日なのです。

その朝いつもより1時間くらい遅い時間に母親を起こしに行ったら、帰るの?と聞かれたのです。どうも家に帰るのか?と聞いてきたらしいのです。

どこかに出掛けていて知らない部屋にいるような気がしたのでしょうね。毎日過ごしている自分の家に違和感を感じたのでしょう。

寝起きは大抵変な状態になるのです。夢の内容がそのまま続いていることもあるし、過去に生きているようになるらしいのです。

実は私たちのマインドも同じようにして、潜在意識の中では過去に生きていた自分がそのままの状態で現在生きているのです。

これはたとえ話しなのではなく、本当のことです。そんな馬鹿なことがあるのかと思われるかも知れませんが、それがマインドの仕組みなのです。

私のマインドに対する理解をそのまま裏打ちしてくれているのが現在の母親なのです。認知症がその正しさを証明してくれているのです。

母親の寝起き時の不思議な言動のほとんどを理解してあげることができるのは、今の仕事を通してマインドを深く理解したおかげなのです。

だからセッションで内側を見せてくださったすべてのクライアントさんに感謝ですね。