今ここにただ在る

「今ここにただ在る」ということをさらっと聞き流してしまいがちですが、とても本質的なことを描写していると言えますね。

「今」というのは、時間のことを言っているのではなく、逆に時間の概念から解放された感覚のことです。

また、「ここ」というのも場所のことを言っているわけではなく、ここでもあそこでもどこでもないという感覚のことです。

一般的には、瞑想している時の感覚と言えるのですが、実は瞑想しなくても思考が入ってこなくなれば、この状態になるのです。

なぜなら、時間も場所もどちらも思考によってあたかも実在しているかのように感じるからです。思考が停止してしまえば、どちらも意味が消えてしまいます。

そして「ただ在る」というのは、どのようにとか、何としてということもなく在るということです。

結局、いつ(when)、どこで(where)、何が(what or who)、どのように(how)といった普段は大切にしている情報が全て消えるのです。

だから自我にとっては、この「今ここにただ在る」というのは魅力がないだけではなく、気に入らないことなのですね。

ただこの感覚に慣れ親しんでいくことで、このブログでしばしばお伝えしている全体性の感覚にも馴染んでいけるのだろうと思います。

逆境の恩恵

私たちは、あわよくば都合のいいことばかり起きてくれたらと願うものですが、必ずしもそううまくはいきません。

というよりは、必ずや都合の悪いことが起きてきます。大切なことは、そのときにどのようにしているのかということなのです。

嫌な出来事には様々あります。22年前に私が経験した大腸癌の宣告もその一つでした。あるいは、頑張っても頑張っても仕事がうまくいかない。

それこそ交通事故に遭遇してしまうとか、大切な人に先立たれる等々。さあ、そのときにどのようにしているのか?

嘆き悲しむだけで問題と対面するのを先送りするのか、なぜこんなことになったのかと過去を悔やむのか、それとも未来を憂いて絶望するのか。

大切なことは、過去へも未来へも行かないこと。ただその渦中に居続けることです。無理やりの逆転劇を狙わないこと。

じっくりとその苦悩の中に入っていることで、自然と何かが起きるのです。それは周囲に起きるのかもしれないし、自分自身に起きるかもしれません。

解決、対処、そういったことを一旦忘れてしっかりとその中に入ることです。そうすると、不思議にどこからともなく光が見えてくるのです。

そこにじっとしていることは、どことなく信頼と類似している感覚があります。そして必ずやそうした逆境は、あなたに多くの気づきをもたらしてくれるのですね。

自他はペアで成立する

子供の頃からずっと、この世界には本当は自分しかいないのではないか?という感覚がありました。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、そういう俺様感ではないのです。ただ、自分が認識している中にあるのは、自分だけだという感覚です。

外の世界とか他人というのは、本当のところその存在が曖昧なのです。更に言うと、その感覚を好んでいるなというのも分かるのです。

地球上に誰もいなくなって、自分一人になってしまったら凄まじい孤独感がやってくるだろうことは分かるのですが、一旦それは傍に置くのです。

自分一人だと気持ちがいいのは、きっと闘う相手がいなくなること、煩わされることがなくなるということがあるのでしょうね。

けれども、もっと先には他人がいないということで、実は個としての自分も一緒に消えていってしまうという感覚があるのです。

実はそれが本当は気持ちがいいのではないかと大人になって気づいたのです。自他というのは、表裏と同様にペアで成り立っているのです。

だから他が消えれば自も消え失せるのです。その時、自他の区別のない全体としての真の自己が顕われるのでしょうね。

目を閉じる習慣

以前にも一度くらい書いたことがあったかもしれませんが、新たな気持ちで再度書いてみようと思います。

何かというと、目を閉じるということについてです。朝起きてから夜寝るまでの間、つまりは日中活動している間に意識的に一定時間目を閉じることはあまりないはずです。

居眠りしたり、目の違和感などで目をつぶることはあるかもしれませんが、そういうことではなくとにかく目を閉じるのです。

10年以上も前のことですが、定期的に勉強会を開催していたことがあるのですが、参加者の一人が時々目を閉じるのを目撃したのです。

自分の身に置き換えてみたら、人前で目を閉じるのは何かの理由がない限りはちょっと周囲に対して失礼な感じがしたのです。

けれども、その人が目をつぶっている姿を見ても、全く失礼な感じがしなかったので、自分も真似てみようと思い立ったのです。

実際にやってみると、思いの外効果を感じられたのです。周囲からくる信号をある程度遮断することができるので、内側に意識を向けやすくなるのですね。

今ではもう無意識的に目を閉じるようになりました。きっとセッション中に私が目を閉じてクライアントさんのお話しを聞いている姿を記憶している人もいらっしゃるでしょう。

いつどんな時でも、危険がない限りは目を閉じることで、意識を内側に向けやすくなるのです。その効果は絶大です。

だから病みつきになってしまうくらいです。もしも、内側に意識を向けるのが難しいと感じているなら、所構わず目を閉じることをお勧めします。

違うなと思ったらすぐに目を開ければいいだけなので、どんなリスクもありませんので、是非試してみてください。

そして目を閉じているときに不安を感じるようでしたら、そこを癒す必要があるということにも気づけるはずです。

マインドの歪みが身近な家族に顕われる

どんなものでも余計な力が加わると、そのままのあるべき姿から不自然な歪みを生じるものです。これはモノでも人間でも同じです。

つまり自然であることが理想なのですが、さまざまな理由から何かの力が加わってパキッと割れてしまったりするのです。

もしもその人が表面的には頑張って問題ないかのように生きていたとしても、その歪みは身近な誰かのところに出現することにもなるのです。

大抵は家族の中のひ弱なところ、より繊細な感覚を持った人のところへと歪みは集中することになるのです。

それが子供の場合であると、親は困ってしまいます。何が悪いのかが皆目わからないからです。自分は正しい道を精一杯頑張ってきた。

努力もしてきた。それなのに、なぜか子供の人生に何らかの問題が起きるのです。こうしたことは本当によくあることです。

目には見えないマインドの裏事情を理解しようとする意欲さえあれば、問題の首根っこを掴んだことになります。

あとは理解と実践。マインドへの深い理解と、その洞察から自然と導き出される新たな生き方の実践が大切なのです。

問題を近視眼的に捉えるのではなく、このような家族の間のマインドの関連性も含めて、じっくり見つめることですね。

自分に注意を向ける

自分を癒していくためには、何はともあれ自分自身に注意を向けるということが求められます。癒す対象を見ずには何も始まらないからです。

日頃から自分を見つめることに慣れている人は、外側ばかりを見てきた人に比べてその点では大分有利ですね。

ただ所詮は自分を見ることを習慣にしていけばいいだけです。セッションでは必ず自分に注意を向けることになるからいいのです。

けれども、普段の生活の中でモミクシャにされている間に、自分のことをすっかり忘れて、周囲で起きていることに意識を持っていかれてしまうのです。

そういう状態では、癒しの進み具合は思うようにはいかないでしょうね。それがダメというわけではありませんが。

とにかく、癒しの基本は1にも2にも、自分自身を深く見るということです。それと同時に、自分の内面であるマインドを深く理解すること。

マインドの生い立ち、マインドの仕組み、そういったものを深くより深く理解していくうちに、それは本当の自分ではないと気づくことになるのです。

マインドが一生懸命になって生きているこの現実を、少し距離をとって見直すことができるようになるのです。

そうなると、マインドの不快感や不安、孤独、絶望感、そういうものがやってきてもそれに飲み込まれずに済むようになります。

そうやって少しずつ余裕ができるようになり、癒しが進むと同時に自分の正体を朧げながら感じるようにもなるのですね。

自分は空間として在るという感覚

クライアントさんを目の前にしてセッションをしているうちに、この部屋の空間全体が自分であってそこにクライアントさんがいるという感覚になるのです。

セッション以外の時でも、自分の存在がいつも大きくて、他人の存在は周辺に小さくあるという感覚を持っています。

誤解を恐れずに言えば、自我の極端な自己中に聞こえるかもしれませんが、この世界には自分しかいないという感覚です。

一般的にそれと似た感覚になるとしたらどんな状況かなと記憶を巡らしたのですが、かなり似ているものを一つ思い出したのです。

それは、物凄く開けた大自然の景色を目の前にして、距離感がバカになったような感じでこの全てが自分でしかないというあの感覚に近いのです。

そういうときには、個人としての自分などいないというか、どうでもいいという感覚になるのです。

自然の中に溶けてしまうような感覚とも表現できますね。自我の本性である不安や孤独が吹き飛んでしまう瞬間です。

ということはそれを逆手にとって、自分がこの空間であるという感覚をイメージすることで、個人という自我の感覚から解放されやすくなりそうです。

興味があったら、是非試してみてください。

マインドに飲み込まれずにいる

毎日クルマを運転しているのですが、そのほとんどは経路も決まっていて1日に走る距離は20km超のことが多いですね。

交差点に差しかかって、対向車線に右折車がいるときには、なるべく譲るようにしているのです。

そのほうが全体的な効率が良くなるし、自分も譲られたときには嬉しいので。ただ、譲るドライバーが少ないのが現状です。

自分が交差点で右折しようとしていて、対向車が誰も譲ってくれずに通り過ぎていくと、ちょっと悲しくなりますね。

後続車への迷惑というのも気になるし、なぜ数秒譲るということができないのだろうと思ってみたり。

ところが自分が何かの理由で少し急いでいたりすると、譲っている場合じゃないという感じになってしまうのです。

あるいは何らかのことをグルグル考えていたりすると、譲ること自体を忘れてしまうということも何度か経験しています。

要するに周囲に気を配れる時というのは、自分のマインドに取り込まれていないとき、余裕を持って生きていられるときなのですね。

これは運転に限ったことではないはずです。いつも自分のマインドを見つめて、マインドに飲み込まれずにいられるようにしたいものです。

存在を意識する

自我というのは、とにかく特徴があるものを好むのです。際立ったもの、目立つもの、他に類を見ないものが好きなのです。

自分自身のことを投影しているからですね。自分自身が群衆の中に埋没して、その存在が消えてしまうのを恐れているのです。

だから、特別でありたいのです。群を抜いて優れているとか、群を抜いてダメダメなんていうのもアリなのです。

一番興味がないのが普通ということです。何の特徴もなく、群衆の中に溶けて存在が分からなくなってしまうからです。

こうしたことから、自我にとってはただ存在するということにも興味を持てないということが理解できますね。

存在というのはただ在るということなので、評価の対象にはならないからです。存在を他と比較することはできません。

何かの存在それ自体を特別視することもできません。だから自我にとっては、存在ほどどうでもいいものはないのです。

けれども、存在ほど絶対的なものはありません。どんな評価も超えて、ただ在ることの素晴らしさは他に例えようもないからです。

あなたは、どの程度存在を意識して生きてきたでしょうか?自分や他人の存在を見ることができれば、そこには信頼も愛もあると分かるのです。

もしも存在を意識してこなかったのでしたら、今日から存在に注目することです。自分の存在がはっきりすれば、ソワソワした不安などは小さくなってしまうでしょうね。

この世界は謎だらけ

誰でも子供の頃は特にそうですが、見るもの聞くもの何でも疑問に思うものですね。小さい子供が親を質問責めにしている光景が目に浮かびます。

自分自身の記憶を遡っても、そんな時代がありました。けれども、割とすぐにあまり質問をしないようになったように思います。

子供の自分が問いかけるものが、大人を困らせることになると思ってしまったのかもしれません。あるいは、どうせ回答は貰えないとたかを括ったのか。

ただし、大人になってこの質問はリーズナブルだろうと思えるものについては、積極的に質問するようになったのです。

特に何かを学んでいるような時には、分からないことをそのままにしておくのが嫌で、かなり質問をする方でした。

ところが今の仕事をするようになってから、本質的な疑問はいくらでもあるのですが、それについて答えを知りたいという欲望が小さくなったのです。

きっと誰に聞いても答えはないだろうというのもあるのですが、より深く見つめてみると分かるのですが、そもそも答えはないということにも気づくようになったのです。

この世は謎なのです。疑問に対する答えが必ずある、あるいはあって欲しいというのは自我のものだということにも気づいたのです。

疑問というのは思考の範疇であり、その癖思考の外側にその答えがあるならそれは決して理解できないのですから。

そういうわけで、私のマインドが持っているたくさんの疑問は、そのほとんどが宙ぶらりんのままになっていますが、それでいいのです。

それが瞑想の時の感覚と一緒なのです。瞑想すると疑問も消えてしまうので、答えを求める欲望も無くなるのですね。