一人称は非存在

よく、常識に縛られずに柔軟な考え方をしろ!と言った言葉を聞くと思うのですが、今日はそんな話しです。

私自身は、もちろん常識人としてのごく普通の感性で生きているという面があるのと同時に、割と常識に捉われずに生きているなあと思っていたのです。

ところが、最近めちゃくちゃ常識とか、当たり前と思われるようなことに縛られていたということを発見したのです。

昨日のブログの続きのようになってしまいますが、「一人称は存在できない」ということを発見してしまったのです。

これは、私たちの常識とはかけ離れたことを言っているように思われるのですが、実はそのカラクリを次のように説明できるのです。

私たちは自分のことを一人称として自覚していますし、その自分はレッキとした1人の人間として「存在」していると思っています。

ここにはとても致命的な落とし穴が隠されています。私たちの自覚というのは、ほんの少し自分自身の中心から距離があるのです。

だから存在できるのです。つまりは、清廉潔癖な一人称ではなかったということです。一人称ですから、どんな距離もあってはなりません。

その距離がどれほどのものかは測ることは難しいのですが、それでも自分の中心ではなかったのです。それが自我ですね。

そして私たちが自分を内省するとき、つまりこれが自分だと内面を見るときには、その距離の外側までしか見てはいないのです。

それよりも先の中心にまで意識を向けられたら、その時にはいきなり個人という存在は消えて、無もしくは全体性と呼ばれる非存在を見ることになるのです。

「一人称は存在できない」という意味は、一人称は非存在としてあらゆる存在を支えているということです。

それが私の本質であり、あなたの本質でもあるということですね。

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