辛ければ、適当に生きること

私たちの内面は最初の頃、まるで真っ白なキャンパスのような状態だったのです。外側からやってくるものに反対したり対立したりする何ものもなかったのです。

だからこそ、人生の最初の頃に外側からどんな絵の具で塗りたくられても、それがそのままに心のキャンパスを彩ることとなったのです。

そうした初期の頃の絵というのは、とても深く私たちの内面の奥に刻み込まれてしまうことになるのです。

それを避けるどんな手段もなかったからです。たとえば、私の内面には恐ろしい地獄絵図のようなものが描かれています。

きっと幼い頃にそんな絵が描いてある本か何かを見たのでしょうね。そんなところに連れていかれたくないという一心から、良い子でいようと思ったのでしょうね。

夜布団の中で、寝る前にその日1日の自分の振る舞いを思い出して、それでよかったのかどうかを反省するという習慣がありました。

もしもそんな毎日がずっと続いていたら、今頃牧師さんか何かになっていたかもしれません。ところが、小学5年生くらいのころに転機がやってきました。

どんなきっかけがあったのかは分からないのですが、その真面目さがバカバカしく思えてきて、適当に生きるように変わったのです。

その適当さが今でも私の中心にドシッとあるのです。適当さは真面目さと共にあった深刻さを片付ける役割も果たしてくれたのです。

適当に生きることは、中道を極めることへの近道でもあるのかなと思っています。

人のマインドはみな同じ

私たちは一人ひとり生き方も違うし、考え方や感じ方にも違いがありますね。ある人は嫉妬深いかもしれないし、ある人は依存的だったり。

そういったそれぞれの個性を比べてみれば、確かにマインドの成長度合いが分かったりもするのです。

大人っぽい落ち着いた人、幼稚で子供っぽさが目立つ人。口数の少ない物静かな人がいれば、常におしゃべりが止まらない人。

このような違いというのは、マインドがどのように成長して、どのように自己防衛をしてきたかという違いでもあるのです。

けれども、所詮はマインドなのです。マインドに違いはありません。私はどんなクライアントさんがいらしたとしても、その人のマインド以外に見つけるものはないのです。

私が知らないマインドというものは、地球上にはないのだと思います。天使のような人のマインドでも、連続殺人鬼のマインドでも同じマインドなのです。

そういう意味では、私が唯一理解することができない人がいるとしたら、覚醒した人ということになりますね。

その人だけは、もうマインドが落ちてしまっているので、どのようにしても私のマインドは、その人を理解することができないはずです。

この世界を本当に理解したいのでしたら、人のマインドを深く深く理解することですね。それでほとんどのことを知ることができるはずです。

区別することで自我は存続する

これはきれいであれは汚いだの、これは善くてあれは悪いだの区別をしないこと。区別はいらない。

離れているのだ。ものごとは善くも悪くもない。善だの悪だのという性質はあなたによって持ち込まれたものだ。

ものにはきれいも汚いもない。それはただあるがままにそこにあるだけだ。

by osho

↑これを日常の生活の中にそのまま持ち込もうとしても、それは土台無理なことですね。無理して、何かを自分に強いるのはやめることです。

そうではなくて、人知れず自分の中で↑このことを携えて生きていればいいのです。たとえ忘れてしまったとしても、また思い出すことができればいいのです。

「区別をしないこと」と言われて、すぐにそうしなくてはならないと考えるのではなく、自我は区別するものだと認めることが先決なのです。

その上で、自我として生きている自分はそのままにしておいて、ここで言われていることを忘れずにいればいいだけなのです。

この人が好きで、この人は嫌いということを否定せずに、自我として生きている自分は、そのようにして区別することで存続しているのだと理解することです。

それを否定したり、改善しようとすればするほど、それこそが自我の欲望であることに気づくこと。

これは善いことで、あれは悪いことだと思いながらも、一方では本当はそんなのはないのだけれどね、というのを持っていればいいのです。

自我が消えれば、区別も一緒に消え失せると知りつつ、自我として生きている自分を受容するのです。

そして時期が来れば、自我としてのあなたは消えていくことになるだけなのですね。

内なる革命

あなたの思考を、あなたの感情を見守ってごらん。すると、ただ見守ることで、新しい要因─見守る者─を理解するようになる。

この理解こそ、内なる革命の始まりだ。あなたは見守る者であり、見守られるものではない。

by osho

↑これをもう少し補足すると、「見守る者」というのはこれ程気楽な稼業はないのです。

私たちの誰もが幼い頃に防衛を始めるのですが、それは見られる存在としての自分に気づいてしまうからなのです。

見られるというのは、褒められたりけなされたり、肯定されたり否定されたり。つまりは、何にせよ裁かれる存在だということなのです。

だから「見守る者」としての存在になれるなら、それは本当に気楽でいられるということなのです。

そしてあなたの本性は、「見守る者」つまりは覚醒した意識なのです。それを思い出すためにも、見守ることを続けていくことです。

思考が止まらずに困っているなら、とにかくその思考を見守り続けること。どんな感情であれ、それがやってきたならそこから目を逸らさないこと。

見守る者のフレーバーを感じることができるようになったら、自我を殊更改善しようとしなくなっていくのです。

それこそが内なる革命なのですね。

信頼が惨めさを消す

もしあなたが惨めならば、ほかに救いは何もない。信頼を学ぶことだ。もしあなたが人生に何の意味も見出せず、虚無感を抱いているとしたら、ほかに救いは何もない。

信頼を学ぶことだ。信頼が意味を与えてくれる。なぜならば、信頼はあなたをして、全体があなたに降臨することを可能にしてくれるからだ。

by osho

↑これは何を言わんとしているのでしょうか?これを理解するためには、以下のことに気づいている必要があるのです。

それは、私たちの自我というのは誰のものであれ惨めさを抱えているということです。惨めさとは事実ではなく、思考が作り出すものなのです。

その惨めさを何とかして払拭しようとして奮闘努力するのが人生なのです。そのすべてが無駄だと言っているのですね。

どれほど惨めじゃないということを証明しようとしても、いつかはまた惨めさの中へと戻されてしまうのです。

なぜなら、自分は惨めだという信念がなくなることはないからです。だから、あなたが惨めならば、救いはないと言っているのです。

ただし、信頼を学ぶことができれば、惨めさは消えていくという途方もなく大切なことを教えてくれているのです。

信頼には、非二元のフレーバーがあるのです。それが二元性の世界が思考による物語に過ぎないという気づきをもたらすのです。

そうなったら、惨めさは克服するものではないと分かるのですね。

挑戦が自我を強化する

もし自然に逆らったら、あなたの自我は強まるだろう。それがチャレンジというものだ。

人々が挑戦を好むのはそのせいだ。挑戦のない人生は退屈なものになってしまう。

自我が空腹を感じるからだ。自我は食べ物を必要とする。挑戦がその食べ物を供給する。

そこで人々は挑戦を求める。

by osho

私がクライアントさんとのセッションで心がけていることの一つは、自我のことを深く理解できるようにするということ。

自分のこと、人間のことを深く知りたいというなら自我のことを徹底的に分析して、その生まれと生い立ち、そしてその目的を理解することなのです。

たとえば、↑ここで言っているように、自我はそれなりの食べ物を必要としているのですが、その一つが挑戦なのです。

チャレンジャーが何となく生き生きしているように見えるのは、自我が活性化している状態だからなのです。

私たちには、何もせずにじっとしていることができません。どれほど疲労していようと、それが回復するやいなや何かをやり出そうとするのです。

この社会においては、挑戦することは素晴らしいということになっていますが、それはこの社会を作って維持しているのは自我だからです。

自我の、自我のための、自我による社会なのです。自然だけが自我から解放されたもの。だから自我は自然に逆らうのですね。

あなたの中にいるチャレンジャーを見守ることができるなら、それは次第に力を失っていくことになるでしょうね。

そしてあなたは笑いだす

ちょっと内側をのぞいてごらん。

ちょっと何かの瞬間に、どこにも行かず無欲望で、未来のことも考えず過去のことも思わず、ただいまここにとどまっているだけ–。

で、突然それはそこにある。それはずっとそこにあったのだ。そしてあなたは笑い出す。

by osho

↑突然笑い出す…と言われても、一体何が可笑しくて笑い出すというのでしょうか?それはきっとあらゆる事柄のバカバカしさに気付くということなのでしょう。

自我というのはとにかく深刻になろうとする傾向が強くあるのです。気楽に気楽にと思っていても、何か都合の悪い事態が起きればすぐに深刻になるのです。

その深刻さが逆に滑稽に思えるようになるということですね。ちょうどドッキリカメラに仕掛けられた人が深刻になればなるほど、見ている側からすると面白いと感じるのに似ています。

ドッキリカメラだと分かっているからこそ、そこで何が展開されていようと笑っていられるのです。深刻さは笑いのツボになるのです。

この現象界で起きるどんなことであろうと、100%いつかは過ぎ去っていくということを思い出すのです。

さらに起きている現象の背後にあるもの、それこそがずっとそこにあった真実であることを発見して、それをどこか遠くに探し求めていたバカバカしさに気づいて笑い出すのですね。

あなたがずっと探し求めていたもの、それはどこか遠くにあるのでも、あるいは近くにあるのでもなく、あなたの内側にいつもあったのです。

自分勝手にしか生きられない

自分のことを「自分勝手」だと信じ込んでいる人が沢山います。そして問題は、そのことを自己否定に利用していることなのです。

私はこの仕事を始めて、そう言う人がいることに気付かされたのです。自分勝手というけれど、ある意味当たり前のことなのにな…と。

もしもあなたが他人の言うことの言いなりになって、あたかも奴隷のように生きているとしても、それはあなたが決めたこと。それも自分勝手なことです。

人は自分勝手にしか生きられないのに、それを否定しまくっているのですから不思議なことだと思ったのです。

なぜ自分勝手を否定するようになったのか、それは幼い頃に「お前は自分勝手だ」と否定的なエネルギーと共に言われたからなのです。

そういった過去の出来ごとをご一緒に丁寧に見るにつけ、幼い頃のクライアントさんの自分勝手さを何とも感じないのです。

全く否定するようなことではなく、無邪気さというのは自分勝手でなければ成り立たないことです。

親に否定された通りに、自分勝手さを否定するようになったおかげで、違う自分になろうとするあまりに、問題行動を起こすようになるのです。

つまり自分勝手にしてはいけないという禁止が、より強い自分勝手さを起こすということです。

自分勝手とは自分本位であるということであって、否定されるべきものではないということに、しっかりと気づくことです。

そうすれば、自分勝手を抑制するために利用していた罪悪感も、必要なくなってしまうということですね。

自己同一化が取れたら…

禅は言う、何にも自己同一化しないように、と。そうすれば、おのずから超越が起こる。あなたは惨めさがやって来るのを見るが、見守る者のままでいる。惨めさが現れ、暗い煙のようにあなたを飲み込み、あなたを包み込むのを見るが、あなたは見張りのままだ。

by osho

私たちの本質が何かであったためしはないのですが、この現象界においては常に何かと自己同一化し続けているのです。

そうでなければ、この世界の一員として成り立たないからです。生まれてしばらく経てば必ずや自我が形成され、その自我と自己同化が始まるのです。

自我はこの身体との自己同化をするだけでなく、身体が経験したあらゆることとも自己同化するのです。

だから自我はとてつもなく巨大な存在として感じられるようになるのです。それが「ここにいるこの自分」という感覚を生み出すのです。

その個人が最も避けたいものが、惨めさなのです。惨めさの本質は単なる思考体験なのですが、それがあたかも事実であるかのように感じるのです。

↑上で言っていることは、こうした一連の自己同化に気づくことができるなら、そこに惨めさを含めたあらゆるものへの超越が起きるということです。

ただ全てを見守り続けるなら、私たちがやり続けているすべての自己同一化も自然と落ちていくということですね。

そして何かであろうとした夢が終わり、何でもないものにただ戻るのです。

無条件の「イエス」は100年早い

タントラは無条件に「イエス」と言う。まさにあなたの実存そのものから、「ノー」は消え失せる。

そこにひとつの「ノー」もなかったら、どうして戦うことなんかできる?あなたはただ漂うだけだ。

ただ交わり合うだけだ。あなたは<ひとつ>になる。境界線などというものはもうない。

by osho

確かに↑その通りなのですが、だからタントラの教えに従って何でも「イエス」と言えばいいのかというと、そうではないのです。

私たちは所詮自我として生きているのです。自我とは、この世界とは分離した「私」という存在がいるということを信じているのです。

その個別性、特別性を持続するためには「ノー」を言わなければならないのです。自我にとって、「ノー」は自分の存続を支えるものなのです。

それなのに世間には沢山の「イエス」マンがいるのです。こういった人々というのは、「ノー」を言う自我であることを隠そうとしているのです。

「イエス」を言うことで、私はあなたに従属しますので、私を攻撃しないで下さい。私を評価して下さい。私を見捨てないで下さい。

そう訴えているのです。そのための「イエス」なので、タントラの言うこととは、全くもって異なるということを理解することです。

自我として生きている限りは、まずは「ノー」をしっかりと表現できるようになって、自己防衛を小さくしていく必要があるのです。

その先に、もっともっとず〜っと先の方に、タントラの世界があることを分かって欲しいのです。