ループを断ち切る

何かの努力がかえって裏目に出るということはよくあることですね。改善しようとするあまりに、改善できなくしてしまうとか。

あるいは、遅れそうで焦ってしまった結果、道を間違えてかえって時間がかかってしまったとか。

緊張しないようにと気をつけることで、より緊張を強めてしまうこともあるかもしれません。

人前で緊張していることを他人に気づかれることが嫌で、それを隠そうとしてかえって緊張してしまうなどはよくあることです。

こうした悪い循環にはまってしまうと、自力で抜け出すのはとても難しくなってしまいます。

そんなとき、その循環(ループ)に気づくことがなにより大切なのです。そして、ループを断ち切るためにはあらゆる努力を放棄してしまうのです。

これには瞑想が役に立つかもしれません。何もせずにいるというのは、日頃の瞑想によって身につけることができるからです。

もしもあなたが何かのループにはまり込んでいたとしても、一定のタイミングで瞑想を日々の習慣にしていれば、自動的にそこから抜け出すことができるのです。

真に知ってることは思考できない

哲学とは正確には何か?それはまったく何も知らないのに、知っているふりをすることだ。それは思索だ。思索とはつねに、人が無知であるのに、何かをでっちあげようとしているという意味だ。いつであれあなたが考えるとき、それはたんに、あなたが知らないことを示している。

by osho

↑上で言っている、「あなたが考える時、それはあなたが知らないことを示している」ということを理解するためには、以下のことに気づく必要があるのです。

知るという言葉には二つの意味があるということ。一つは、知識として知っているという意味であり、もう一つは真に知っているということ。

知識というのは単なる情報に過ぎません。それは思考の範疇なのです。思考は知識を使いまわして思索するからです。

「〜について知っている」というのが知識だと言ういい方もできます。思考も「〜について考える」のです。

一方で、真に知っていることを考えることはできないのです。それはただ直接的に知っていることだからです。

ということは、もしもあなたが年がら年中考え事をし続けているなら、全くの無知の状態でい続けていることになるのです。

真実についてあれこれ考えることは可能ですが、どれだけ考えたところで真実を知ることができないということを思い出してもいいですね。

知識は自我にとっては有用ですが、それが無知であることに気づくことができない理由でもあるのです。


依存するマインドを見る

「共依存」という言葉が一般的に使われるようになって久しいですが、要するに依存者に依存するマインドのことを言うのです。

自分に依存してくる人をそばに置いておいて、あれやこれや世話を焼いたり面倒をみたりして、しっかりと自分に依存させるのです。

そうして、自分の存在価値を見出そうとする自己防衛の一種なのです。私の母親もそういうタイプでした。

子供のころは、ただの心配性、世話焼き、過干渉だと思っていたのですが、その根っこにあるのは共依存だったのです。

私自身、必要以上に世話をやいてもらったおかげで、依存的な子供に育てられた自覚があるのですが、母親が怖い人ではなかったために、救われたのです。

世話を焼かれて都合のいいときには、それに甘んじるし、それが居心地悪いと感じたときには、嫌だと言うことができたからです。

今思えば10歳くらいのときに、これはまずいと気づいて少しずつですが依存から離れていくことができました。

母親は、子供が依存して来なくなったので、父親を依存者として利用したのです。あらゆる家事仕事をすべて自分でやることで、父親は何もしない人になったのです。

父親が亡くなってそのことが明確になりました。母親が一人になったとき、自分のためには一切の料理をしなくなったのですから。

そうなると、もうどこにも依存者がいなくなってしまったので、共依存が消えて、ごく普通の依存だけが残ったのです。

今は食べ物を買うことで不安を解消しようとする依存が強くなったようです。冷蔵庫の中にたっぷりと食べ物があっても、それを都合よく忘れて次々とお弁当などを買ってくるのです。

これもいわゆる買い物依存として捉えることができるでしょうね。自分がどういう状態にあるのか、それを見るということができなければ治ることはありません。

やはりできる限り若い頃から、意識的である練習をするということが大切なのだと思い知りますね。

自意識は自我のものではない

AIの技術が進化して、人間とそっくりに見えるロボットが生まれる時代が、いつかは必ずやってくるでしょうね。

その時、目の前にいる存在が血の通った人間なのか、あるいはAIのテクノロジーが生んだ人間のような存在なのか、外側からは判別できないのです。

相手に自我があるのかどうか、それを見分ける方法は絶対にないのです。自意識がなくても、あるかのような振る舞いをすることは可能だからです。

だとしたら、今あなたの目の前にいる大切な人に自我があると証明することも不可能なことだということが分かります。

自我があるかどうか、自意識があるかどうかは一人称である本人だけが決められることだからです。

そういう意味では、やはり自分というのは本当に自分にとっては特別な存在だということが言えますね。

けれども待ってください。だからといって、自分という存在はここにいる、というのは全くもって間違いようのない真実だと思うのは早とちりなのです。

実は自意識というのは自我のものではないからです。それは覚醒した意識のことだからです。

自我はうまくそれを利用して、自意識こそが自我である自分の根っこだと思い込んでいるのです。

自我(思考の塊)と意識とは全く次元の違うもの、雲群と青空くらいに異なるものだと理解しておく必要がありますね。

中道=至福感

山は平地があるから山でいられるのです。谷があれば、山の高さはもっと際立つことになりますね。

もしも山ばかりであれば、それはもはや山ではなくなってしまいます。喜びがあればその分悲しみもあるということ。

歓喜が大きければ、落胆もひどくなるのです。そうやって釣り合いが取れるわけです。もしも歓喜が続けば、それが普通になってしまうのです。

物事をそんな風に見ていられるといいですね。ところが残念ながら、私たちは都合のいい方ばかりに目がいってしまいがちなのです。

どちらも同じように見る訓練をするのです。すると物事を捉える感じ方に変化が現れるのです。

嬉しいことが起きて、それを喜んだり楽しんだりするのは当然のことですが、悲喜こもごもの出来事が起きる生全体をも楽しむのです。

それはちょうど真ん中にいること、そこからあらゆるものを眺めるのです。幸不幸もその位置から眺めると、どちらかに偏らなくなるのです。

その位置を中道と呼ぶのです。中道は歓喜も落胆もない代わりに、ただ至福があるだけになるのです。

物語からも離れた位置なので、自我の立場からするとつまらなく思うかもしれませんが、深い至福感を体験したらそんなこと言わなくなるはずです。

世界を持たずに、この世界で生きる

覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者だという真実を見抜き、それから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。

by osho

「自分が自分の世界の創造者だ」とはどういうことでしょうか?↑上ではそれが真実だと言っているのです。

私たちはこの世界をあるがままに見ているわけではないということです。一人ひとりが自分に都合のいい世界を創っていると言っているのです。

それが結果として、一人ひとりの人生という物語があるように感じさせるのです。自分が知覚し、経験することがそのまま真実だと信じているのです。

それは自我という思考の塊が創り出した独りよがりの物語でしかないということです。だからこそ、人(自我)の数だけ世界(物語)があるのです。

私たちが日頃見ているこの世界とは、自我の目を通して見たものなのです。だから、人類がいなくなったらこの世界は消えてしまいます。

残るのは、ただそこにあるだけのものがただ在るのです。ただ起きることが起きているということです。

覚者とは、そのことに気づいただけでなく、実際に自我を通さずにこの世界を見ることができるようになった存在のこと。

そうなったら、この世界から争いも恐怖も惨めさも消えてしまうのでしょうね。

期待せずに待つ

それを握りしめようとするのはやめなさい。握りしめようとするその努力そのものを落とすのだ。それがあなたのなかに入ってくるのを許しなさい。それに心を開き、傷つきやすくなりなさい。<彼>にあなたを捉えさせなさい。<彼>にあなたを乗っ取らせなさい–。彼を所有しようとしてはならない。

by osho

自我の特徴は、能動的であることです。自分の活動を通して、目的地へと到達しようとするのです。

ただ時として受動的に見える場合もありますが、それは単に恐怖から逃れようとするからなのです。

恐怖が小さければ、自分の手柄が欲しいので能動的になります。だから待つことが苦手なのです。私の自我もご多分に漏れず、待つのがすごく苦手です。

↑握り締めようとする努力というのは、能動的なことを指すのですが、それを落としなさいと言っているのですね。

ただ待つというのは、心を開き、期待せずにいて、傷つきやすい状態であることを指すのです。

受動的になるということです。自我である自分にできるのは、準備をすること。その後はただ待つのです。

自分の努力で寝入ることができないように、自分の力で覚醒することもできません。瞑想するのは、彼がノックしたことに気づくための準備なのです。

期待せずに待つのは自我にとっては本当に難しいですね。

自我も自然の一部

自然に生きなさい、可能な限り自然に。不自然なものに魅せられるのは避けなさい。特別で、とりわけひとかどの者でありたいという欲望は病的だ。特別でありたかったら、あなたは自然に逆らわなければならない。そして自然に逆らうことは神に逆らうことだ。なぜなら、神とは自然そのものだからだ。

by osho

自然が創造したものの中で唯一不自然なもの、それが自我なのです。勿論それが実在すればの話しですが…。

自我自体が自我は存在すると思い込んでいるので、そのレベルでみれば自我だけが不自然なものだと言えるのです。

自我は自然に逆らって生きています。だから自然が創造したものと自我が創造したもの、つまり人工物との間には明確な違いが見て取れます。

自我はこの自然の中で、自分の存在だけは特別であろうとするのでおのずと不自然なものになってしまうのです。

その結果、自然に逆らうことになってしまうわけです。けれどもよくよく見てみれば分かるのですが、自我も自然の一部なのです。

自我が特別で不自然だと感じるのは、それが存在するという錯覚をしているからなのです。そうでなければ、それは自然界に存在するただの思考です。

思考が寄り集まったもの、それ自体がそれは特別だという思考を作り上げただけで、その思考から離れてしまうと当たり前のことですが、それも自然の一部なのですね。

あるがままでいるは難しい

食べ物を楽しむがいい。風呂を楽しむがいい。太陽を楽しむがいい。雨や風を楽しむがいい。あなたの手に入るすべてのものを楽しむのだ。そして、あなたが誰であろうと、あなたのままでいるがいい–偽善をなさず、ふりをせず、見せかけや体裁をつくろわず、自分自身に対して誠実でありなさい。

by osho

もしも生まれた時からずっと、↑上のようなことを言われ続けて育っていくとしたら、どうでしょうか?

なかなか想像するのが難しいかもしれないですね。なぜなら、私たちは大抵が真逆のことを言われて成長するからです。

このままではいけない、もっとこうでなければならない、それではダメだ、より良くなりなさい、こうしたことを繰り返し教え込まれるのです。

そんな周囲の期待に応えようと頑張るのですが、それができないとなれば今度は自己嫌悪に苛まれるのです。

これが闘いの原動力なのです。人生は闘いだと思っている人、実際闘ってしまっていると感じている人が多いのも仕方のないこと。

幼い頃から、自分のあるがままではいけないのだという強い脅迫観念を植え付けられてしまったら、人生が生きづらいものになるのも当然のことです。

最後に、多くの人が気づいていないことがあるのですが、それはマインド(自我)にとっては↑このような osho の言葉は都合が悪いのです。

一度でも闘う自我が出来てしまったら、今度はそれを維持しようとする習性があるからです。その習性が「あるがままでいる」という癒しを邪魔するのです。

そのことを自覚しつつ、何度も繰り返し osho の言葉を実践していくことですね。

自分の思考を信じるな

人は束縛されてはいない、そう思っているだけだ。そう思うから現に束縛されているのだ。ブッダとふつうの人のあいだに違いはない。しかし人は違いがあると思っている。そうなったら違いがある。

あなたがたは自らの監獄、自らの錠をつくりだす。そうしておいてそこから抜けだす方法を見出そうとする。

by osho

人は、そう思うから束縛されるし、そう思うから違いがあることになる。つまり、思う(思考する)からそれが現実となるということ。

自ら監獄、錠を作り出す、つまりそれがあると思うのです。だからそれが現実となり、そこから抜け出す方法を見つけようとするのです。

思うこと、思考することが人生を作っているのです。このことを深く深く理解することがとても大切なのです。

私たちは思うことと事実とは別ものだと感じていますが、そうではないということに気づくことです。

あなたが自分は人より劣っていると思えば、そのような人生がやってくるのです。自分には価値がないと思えば、そうした扱いを受けることになります。

そこから抜け出すには、頑張って価値ある自分になろうとする代わりに、そう思うことがいかにくだらないことかを腑に落とすこと。

思考しなければ、自己イメージは思考がでっち上げたものだと気づけば、あらゆる不自由から解放されるのです。

まずは何一つ信じないこと。マインドが持っているあらゆるでっち上げを信じないでいること。そして何が残るのか、それを見てあげるのです。

残ったものが本当のあなたです。何も残らなければ、それでもそれこそがあなたの本質なのです。