沈黙すること

マインドはおしゃべりだ

そのおしゃべりが止まらない限り、自分が何かを知ることはできない

沈黙することだ。外側でも内側でも、おしゃべりをやめて沈黙していることだ

そのときに、初めて時間から抜け出すことができる

そのときに、ようやく自己を感じることになる

時間の中にいるのは、あなたのエゴ(影)に過ぎない

本当の自己との出会い!

誰もが幼い時に、親という歪んだ鏡が返してきた自分に対する印象を集め、蓄積していくのですが、そうやっておびただしい数の様々な印象によって、自己イメージを作り上げてしまうのです。

その自己イメージがいいものであろうと、悪いものであろうと、それを使ってアイデンティティを確立していこうとするのです。その結果、「私」という自我をでっち上げてしまうのです。

結局、私たちは自己イメージを自分自身と固く信じてしまったために、死ぬまで自分自身の本当の姿を知らずにいるということです。

比較的肯定的な自己イメージを沢山持っている人は、それなりに恵まれた人生を送れるかもしれませんし、逆に否定的な自己イメージが多ければ、苦労が絶えない人生になる可能性が高いのです。

けれども、どんな自己イメージであろうと、それが作り上げられたかりそめの自己像であるために、人は根本的な不安感を拭い去ることはできないのです。

自分が何かを知らずにいながら、不安や恐怖から解放された至福の中にいられるはずもありません。だから本当に気づかねばならないことは、自分とは一体なにか?ということです。

それには、自分の外側にある他人という歪んだ鏡を見ることをやめて、眼を閉じて自分の内側深くへと入っていくことです。そしていつかは本当の自己との出会いを果たすことが…。

できるといいなあ…

あなたこそが唯一の障害

あなたが本当に気づかねばならないこと、それはあなた以外、他にどんな障害もないということです。あなたが、自分の行く手に立ちふさがっている唯一の障害なのです。

このことを深く理解しない限り、内面的な成長に向かってできることは一つもないということです。ここで言うあなたとは、あなたの自我(エゴ)のことを指しているのです。

そのエゴとは一体何で、どのようにして生まれたのか?そして、そのメカニズムはどうなっているのか?ということを掘り下げて行くことが何よりも必要なことです。

セッションでは、機会がある限りそうしたことについて、クライアントさんがより深く理解できるようにお手伝いさせていただいています。

そのため、私のセッションは単にクライアントさんのお話しをお聴きするということだけに限らないのです。クライアントさんは、自分が抱えている問題が解決できればそれでいいと思っているものです。

けれども、そうした問題を解決していくためにも、ただ場当たり的にセッションをするのではなく、エゴやマインドへの理解を深めることによって、癒しの正しい方向に気づいていただくのです。

何かの問題が運よく解決したとしても、根本を押さえていなければ、またすぐに別の問題が浮上してきて、それはエンドレスになるはずだからです。

そして、癒しの究極の目的は、エゴとあなたの関係を逆転させることなのです。つまり、エゴがあなたの主人である現状から、あなたがエゴを利用する立場になることです。

エゴを配下にするということは、すなわちエゴは自然と落ちて行くということを意味します。なぜなら、エゴはそのような状態ではもたないからです。

エゴを置き去りにしたあなたこそが、あなたの本質であるということです。その時には、<存在>がもたらすまったく理由のない至福と共に在ることになるのですね。

意識と思考の混同

クライアントさんとお話ししていると、意識と思考がごちゃ混ぜになっていることに気づかされることがあります。本当は、天と地ほどの違いがあるのですが。

意識がどこまでも澄んで清らかな青空だとすると、思考はその青空を覆う雲のようなものだと捉えることができます。その違いは歴然としていますね。

ただ、幼い頃からずっと、厚く垂れ込めた雲ばかりをみていたら、清い青空のことを忘れてしまったとしても無理もないと分かります。

雲だって、そこそこ大きいですからね。でも、雲がどれほど大きかろうと、あの青空の無限大さとは比べようもありません。

あなたは思考ではありません。ただ、「私」という思考がその雲の奥深いところに作られてしまってからは、自分のことが分からなくなってしまったのです。

あなたの本質は、雲では決してありません。あの壮大な青空なのです。雲の中に潜んでいる「私」という思考を見抜くことができたら、そのことを思い出す日がやってくるのでしょうね。

けれども、思い出さなくても、あなたが青空であることに変わりはありませんし、あなたが青空でなくなったことは一度もないのですから。

癒されたい人、読んで下さい!

最近、セッションの中であるクライアントさん(女性)から、次のようなお話しを聞いていて、思わず感動して泣けてきました。

ご本人が子供の頃、まだ幼い弟にひどい仕打ちをしてしまったと後悔していたのだそうです。それで、大人になってから、弟さんに会って、そのことを謝罪しようとしたのだそうです。

その時に、弟さんが言った言葉ですが、「姉さんがお父さんからボコボコにされているのを見ていたので、僕は姉さんに殴られても、痛くなかったよ!」。

本当に酷い精神状態のご両親に育てられたのに、純粋な心は汚されることなく残っていたんですね。

もう、ホント言葉がありません。こっちが癒されるなあ…。

傷ついてもいい!の実践

セッションのときに、時々お伝えすることですが、朝目が醒めてすぐの時、まだ若干眠りに意識を引きずられているときに、次のように言うのです。

「今日一日、少しくらい傷ついてもいい!」と。そうやって、潜在意識の中に暗示を与えることにより、そうしないよりも無防備な一日を過ごすことができるようになるのです。

それは本当にすばらしい体験となるでしょうね。そして、あなたが傷つくときには、二つのケースがあることも憶えておいて下さい。

一つ目は、自分が直接的に他人から傷つけられる場合であり、二つ目はあなたが誰かを傷つけることによって、自分が傷つくという場合です。

二つ目は忘れられがちなので、よく覚えておくといいですね。傷ついて、傷ついて、その傷から逃げずに見ていることができるなら、その傷口は癒えて、つるっとした皮膚よりも丈夫になるのです。

そうした癒えた傷口は、子供の時のツルツルな肌よりも、より成熟した味わいのある肌を連想させませんか?さあ、明日の朝から実践してみて下さいね!

傷ついたあなたを否定するものなど、一人もいないということも憶えておいて欲しいと思います。

この世に実在しないもの

ありそうに見えて、実はこの世に実在しないものをあげてみることにします。勿論、今すぐに思いつくものだけですが…。

自我、 正しさ、 悪、 時間、 罪、 魂、 価値、 意味、 etc…

なぜか、私たちが結構こだわりを持っているものばかりが思い浮かびました。なかなか面白いものですね。こうしたものは、すべて思考の産物なのです。

思考は実在するのですが、その思考の中身は実在するとは限りません。つまり、思考を停止してしまった状態では、それらに何の意味もないということです。

もしも気が向いたら、あなたも是非試してみて下さい。この世界に実在しないものにこそ、執着を持っているということに気づくことになるかもしれませんよ。

愛を持って放っておくこと!

4月1日の朝に、不思議なことが起こりました。この数週間、ずっと何とも言えない変な気持ちが心の底にあって、でも何の理由もないのでそのままに放っておいたのです。

それが、その日の朝にクルマを運転しているときに、明確に「抜けた!」と分かったのです。それ以外にどのようにも表現できないので、伝わらないかもしれませんが…。

それから丸一日以上たった今も、その抜けた感は続いているので、きっと本当に通り過ぎたのだろうと思うのです。いろいろなことが起きて、それなりに滅入ったりもしたのですが、回復しました。

本当に不思議ですね。この世界はやはり一過性のものでできているのですね。だから、大丈夫。何が起きてもそれをそのままに愛を持って放っておけば、いずれは去っていくのですから。

逆に、それを何とかしようとしてもがいてしまえば、それだけ問題に巻き込まれてしまうということです。そして、いたずらに長引かせる結果となってしまうのです。だから、今日もシンプルに、

何か問題が起きたら、

心理的に何とかしようとせず

愛を持って放っておきましょう!

「親は絶対」という感覚

幼少期の頃からずっと、「親は絶対」という感覚とともに成長してきた人がいます。ご本人としては、あまりにも当たり前のことなので、別に特別なこととは感じていないことが多いのです。

勿論、社会人になったりして、多くの人との交流を経て、親が絶対的なものではないということを知識として知るようにはなるのですが、心の奥底には残ってしまうのです。

言葉を変えれば、それはある種の洗脳とも言えるのです。なぜなら、「親は絶対」という思いは自動的に出来上がるものではなく、親がそのようにコントロールした結果だからです。

そうした洗脳は、心の癒しの妨害となるのは明らかなことです。間違った信念が、その人の内面を歪めてしまうために、何等かの悪影響が出て来るのです。

親への絶対視は、そもそも存在はみんな同等なものであるという自然な感覚を阻害してしまうのです。つまり、他人に対して、見上げるか、その反対の見下すかしかできなくなるということです。

また、自分以外のものを絶対視するわけですから、それを自分の基軸としてしまうために、自分自身の背骨のようなものが育ちにくいという重大な欠点が出て来るのです。

それは常に心の底流に不安を沈殿させることになり、不安を安心に変えようとしてひどく自己防衛をし続けることにも繋がるのです。

親への絶対視があると、それが強ければそれだけ癒しは長くかかるということを示しています。もしも、そうした自覚があるのであれば、その部分をいつも見てあげて、それがどのように自分を支配しようとするのかに気づいていることです。

この世界に絶対的なものは、何ひとつ存在しないということも肝に据えることが大切ですね。

理由のないことが素晴らしい

私たちは、ふつう自分が具合が悪いと感じるとき、なぜ不健康なのだろうと考えますが、健康なときにはなぜ健康なのかとは考えないものですね。

それは健康であるということすら忘れてしまうからです。健康ということには、それほど気づかないのです。だから、健康であることの原因など考えもしないのです。

気分が悪いときには、その原因は何なのだろうと思うのですが、気分がいいときにはその原因などどうでもいいと思うのです。とにかく気分がよければ、それがすべてなのです。

つまり、自分にとって都合の悪い状態のときには、それを何とかしようとするために、その原因についても考えることになるのです。

そのようなことをずっと見ていた時に、本当に大切なことというのは自ずから備わっているものに違いないということに気づいたのです。

健康であるということに理由はないのです。健康はただ存在することの属性みたいなものであり、不健康だけがそこに何等かの理由があるのです。

もしもあなたの心が満たされていないとしたら、それには確実に理由があるのですが、満たされているとしたらそこにはどんな理由もありはしないのです。

つまり、あなたがただそこに在るのなら、満たされないということは決してあり得ないということです。あなたが至福を感じていることには、どんな理由も原因もないのです。

至福とはあなたの本質が自ら持っている特質だからです。あなたが至福を感じられないときにだけ、そこにはれっきとした原因があるということです。

それだけ、あなたが生まれながらに持っているものは、素晴らしいものだということですね!だから、それらを感じられないように邪魔をしているものを排除するだけでいいのです。

ただあなたが在るだけになれば、そこには至福があり、愛があり、健康があるということです。