幸不幸と異なるもの

多くの人が自分の人生を、幸せなものにしたいと望んでいますね。今すでに幸せな状態にいる人は、より幸せになりたいと思うものです。

どうなれば幸せになれるかと言えば、勿論望んでいることが実現すれば間違いなく幸せになれると考えているわけです。

けれども、本当のところどんな欲求が叶ったとしても、その時点での幸福感はそれほど長くは続かないものなのです。それはなぜでしょうか?

実は、幸福感というものは不幸と抱き合わせでしか感じることができないものだからです。幸福というものは、言ってみれば不幸の一部でしかないということです。

不幸のどこか一部に、部分的にそれとの対比としての幸福があるのです。不幸の海に浮かんでいる島のようなものこそが、海との対比によって幸福と感じられるものなのです。

だから、幸福感は決して持続しないのです。その状態が続くうちには、必ずそれは何とも感じないものとなってしまうからです。

私自身も、そのことをはっきりと体験しました。サラリーマン時代の自分が今の自分のことを想像したら、それは夢のような生活だと狂喜するはずです。

それなのに、今この瞬間だけを見ていると、そこにはいわゆる幸福感というものを感じることができないのです。正確に言えば、幸福でも不幸でもどちらでもないということです。

今の生活が当り前になってしまったからですね。そして実は、幸不幸とは全く異なるものが毎日を占めている感じがしています。それは、きっと自分以外の誰にも伝わらないのだろうと思うのです。

きっとこれがある種の至福感だと思うのです。これはとりたてて大騒ぎするような代物でもないし、大きな感動や興奮を伴うものでもありません。

ただこうして在るという、そのことの中における微妙な味わいなのですね。

闘わない人生

定かではないのですが、栄養ドリンクか何かのコマーシャルで、『24時間戦えますか♪』という耳慣れたフレーズがありますね。

よく考えてみると、大変なことを言っているわけです。勇ましい面構えのスーツを着たサラリーマンの姿が目に浮かびますね。

また、岩崎宏美さんの歌の中で、大好きな「聖母(マドンナ)たちのララバイ」という曲があるのですが、その中に次のようなフレーズがあります。

『この街は戦場だから、男はみんな傷を負った戦士♪』。これ、たんなるたとえ話ではなくて、本当に社会の中で生き抜いていくには、熾烈な闘いに負けずに頑張る必要があるのです。

私は子供の頃から、男のくせにこうした争って勝つということに興味を持てないでいました。それなのに、気が付くとしっかりと社会という戦場の中で、ごく普通に闘いの毎日を送るようになっていました。

不思議ですね。生きて行くためには、それしか他に道はないと勝手に思い込んでしまっていたのでしょう。癌を患って、ようやくそこから脱出することを本気で考えるようになったのです。

そして、闘いはいつでも止められるということを知りました。それはサラリーマンだった頃の自分には、ただの夢物語のように思えていたものでした。

勿論、あれも手放したくない、これも手放したくない、というようにそれまでの毎日にしがみついている限りは、闘いから逃れることはできないでしょう。

だから、まず何よりも自分は闘いが嫌いであって、そこから手を引くのだという決意が最初に必要なのです。その決意さえできれば、あとは自動的になるようになっていくはずです。

闘わなくても生きて行けるのです。そればかりか、闘わない人生を生きることこそが本当の勝利者になるのだということにも、気づくようになるのです。

セラピー → 瞑想

もしもあなたが、セラピストのところへ行ってセラピーを受けて、自分の抱える心の闇を改善してよりよい人生を生きようとするのなら、次のことを忘れないことです。

まず、今現在あなたが抱えている(と考えている)問題のすべてが解決されるということは、事実上あり得ないということです。

セラピーは、続けようと思えば際限なく続けていくことができるものです。終わりがありません。だから、どこかで切り上げることです。

そうして、心の闇の部分を探ることを止めて、今度はその闇に光を持ち込むことをすることです。つまり、瞑想をするということ。

セラピーの目的は、様々あるのでしょうけれど、私がセラピーをする最大の目的は、クライアントさんが瞑想をすることができるところまで、癒しを進めることなのです。

セラピーはあくまでも前段でしかありません。終わりのない癒しの作業にいくら時間を割いてみても、何もいいことはありません。単に暗闇の中をグルグル回るのがおちです。

かといって、今日から瞑想を始めようとしても、なかなか思うようにできないことが多いものです。それは、あなたのエゴがそれを阻止しようと企むからです。

瞑想とは、あなたのエゴを落とすことになるわけですから、妨害されても仕方ありません。そのために、セラピーによって、ある程度エゴの力を小さくしておく必要があるというわけです。

もしもあなたが、今すぐに充分に瞑想をすることができるなら、セラピーを受けるよりも、そのまま瞑想を続けて行くことをお勧めします。

真の中心に気づく

自覚があろうがなかろうが、私たちの心の奥には不安、あるいは恐怖が潜んでいるのです。その不安の真の理由とは、一体なんだと思いますか?

それは、自分という存在の中心らしきものが見当たらないからなのです。いやいや、そんなことはない、人物としての自分の軸がしっかりとある、と思っている人もいるでしょうね。

けれども、それはそのように思い込んでいるということです。固く固く信じ込んでしまっているために、それは事実なのだとしているわけです。

この程度の誤魔化しは、ちょっと瞑想するだけでウソだとばれてしまうはずです。人物としての自分という中心がどこを捜しても見つけられないからです。

そして瞑想などしなくても、自分自身のことなので、いくら思い込みが強いとはいえ、やはり心のどこかでは気が付いてしまっているのです。

自分と言う存在の中心がないことを。それは勿論不安にならざるを得ないでしょうね。なぜなら、自分の存在が曖昧なのですから。

エゴは自分こそが存在の中心だと豪語するのですが、訴えれば訴えるほど怪しさが増してしまうのです。そしていずれは、誰もがそんなものは最初からなかったのだと理解することになるのです。

でも心配には及びません。あなたのエゴが落ちて中心が無くなってしまったと恐くなるのと同時くらいに、新しい本当の中心が見つかるからです。

見つかるというよりも、それ自体が自分そのものだったと気づくことになるのです。人物としての自分はその中心から隔てられた円周に過ぎなかったのです。

その円の中心こそが、あなたの本質であり、この宇宙の中心でもあるということに気づくのです。

死は最高の休養

生まれた瞬間から、死ぬことが決定づけられているのが私たちの運命ですね。けれども、自分はまだまだ死なないはずというようにして、死の恐怖から目を背けて生きているのです。

誰もが死ぬことを非常に恐れているのですが、それは幼い頃に知ってしまった恐怖なのです。誰か、身の周りの家族や友人知人、あるいは可愛がっていたペットなどの死を目撃すれば、激しい喪失感がやってきます。

そして、立場を変えれば、その恐ろしい死はいつか自分にも確実にやってくると考えて、子供は恐怖のどん底へと突き落とされてしまうのです。

成長するにつれて、都合よくそうした恐怖は感じないようにすることで、何食わぬ顔で生きているのです。それでも、死への恐怖を本当に拭い去ることはできません。

そこで、たとえば次のように考えることでその恐怖をいくらかでも和らげることができると思うのです。それは、死というものを長い眠りと捉えるのです。

私たちは、朝起きてからその日一日を活躍して、その疲れを癒すために夜睡眠をとるわけです。一日の疲れは、7~8時間の睡眠で元通りにできるのです。

そして、一日の代わりに一つの人生のことを考えてみるのです。そうすると、一つの人生(例えば80年くらい)の疲れは、そう簡単にはとれないはずですね。

だから、肉体は死を迎えて十分に休養をとることになるわけです。そして、また新しい人生に向かって準備を始めることになるのです。

睡眠と死には、本質的な違いはありません。熟睡して目覚めたときに、眠っていた間の意識はないはずなのに、すごく気持ちがよかったと感じるのは、エゴから解放されたすばらしい時間を過ごしたからなのです。

死も全く同じで、肉体の死によって私というエゴは消え去るのです。そして完全にリフレッシュした人生を、また一から始められるということですね。

死を恐れているのは、大人のあなたではなくて、喪失体験をした幼い頃のあなたなのです。いつまでもそこにしがみつこうとせずに、死は最大の休養だと捉えることですね。

欲求をただ見る

人の心の中には沢山の欲求がありますね。そのどれについても、そう簡単には捨てることができないのが人間らしいところでもあるのです。

実際、何かの欲望を捨てようとして捨てられた人はいないはずです。万が一、そう決意して捨てられたとしても、その代わりになるものをまた見つけるはずなのです。

寝ようと思って寝れないのと同じように、捨てようと思っても捨てられるものではありません。そもそも、何かの欲求を捨てようとする、まさにその原動力が執着から来ているということに気づくことです。

あなたが何かに執着していない限り、捨てようなどと決意することはないからです。執着心があるからこそそれを捨てたいと思う気持ちになるのです。

その「捨てたい」という強い想い自体も、一つの執着であるわけです。寝入るために最も必要なことは、寝なければならない、寝たいという欲求を忘れることです。

それと同様に、何かへの執着を何とかしたいという気持ちを忘れることです。欲求そのものが悪いわけでもなんでもないのです。

それをそのままにしておくことです。そこにばかりに目をやればやるほど、それはあなたの中で力をつけて、あなたを負かしてしまうことになるのです。

あらゆる欲求はあって当然のこととして、ただあるがままを見ていればいいのです。殊更それを相手にせずにいることで、それはおのずと力を失っていくものです。

そうすれば、捨てるという意志の力ではなく、自然とそれは自ら落ちていくことになるのです。あなたがそれと闘わず、それを相手にしないでいられれば、それは自動的に消え去ることになるのです。

「モノ」へ貶める

私たちの心の中にある愛は、大切な家族や恋人に向かうだけではなくて、家族同然に飼われているペットや大切に手入れをされた植物などへも向いますね。

そんな時、そうした動物や植物はある意味人間扱いされているということです。人を尊重するのと同じように動物や植物に接するということは、そういうことなのです。

場合によっては、クルマとか家といった「モノ」であっても、それを丁寧に扱い、心を込めて見つめるのなら、それらの「モノ」は、人間へと昇格させられたことになるのです。

愛のターゲットになったものは、すべてが人間と同じレベルになるということです。けれども、この逆も実はあるのです。

私たちが、もしも相手を利用しようとするなら、そこにはどんな愛も尊重もなくなってしまうため、人を「モノ」へと貶めたことになってしまうのです。

あまり例がよくないのですが、幼い女の子が大人の男性から性的な目で見られたときに、その子なりに何だかいやな感覚を持つはずなのです。

それは、その子にとっては自分が「モノ」を見る眼で見られたということを感じるからなのでしょう。普段は、人間として扱われているので、そのときには違和感を覚えたということです。

恋人同士であろうが、夫婦であろうが、自分の都合のいいように相手を使おうとするなら、相手を「モノ」へと貶めたことになるのです。

私たち人間は、決して自分を「モノ」扱いされたくないという尊厳を持っています。誰もが愛される、つまり人間扱いされることを望んでいるのです。

表面上は愛のように見えるとしても、相手への執着心や依存心がそこに含まれるなら、それこそが相手を「モノ」へと貶めることになることを、充分に理解しておくことですね。

あなたが相手を「モノ」扱いすれば、相手もきっとあなたを「モノ」へと貶めることになるはずです。

最奥にある真実

自分の肉体の眼を使って外の世界を見るとき、私たちは各々が独自の視点を持っていますね。世界中のあらゆる人間が、それぞれ別の視点を持っていることは明らかです。

だからこそ、私たちは自分と他人とを区別し、別々の存在なのだと認識するのです。この視点の違いというのは、決定的なのです。

つまり、それこそが私たちはそれぞれが別々の個人であるという結論になるのです。私には、あなたの見ているものを正確に知ることすらできません。

勿論その逆も同じように言えますね。私が今この瞬間に何を見ているかを知る人は誰もいないのですから。ところがです。ここからが核心のところなのですが。

各自が自分の内側へと視点を変えていき、どこまでもどこまでも深くへと入っていくと、そこには自分が個人だといえるようなどんな証拠もなくなってしまうのです。

私の中の最奥の部分が、あなたの中の最奥のところと違うということを証明することは不可能なことです。それに、実はそんな証明は何の意味も持ちません。

深部へと進んで行けた人びとは、それが唯一の全体性であるということを、すぐに理解します。この深い部分にはどんな個別性もないのですから。

それこそは、あらゆる人間が真に共有しているものなのです。外側の世界では個別性ばかりが見えるのに、内側に入れば入るほどそこには全体性しか見えません。

この違いに気づくとき、人はものすごく救われることになるのです。もうあなたが自分だと思っている人物、その人格はただの作り物でしかなかったと分かるからです。

その作り物は、この物理的な世界では通用する便利なものかもしれませんが、苦悩を生む張本人でもあったのです。あなたの本質はあなたの最奥にちゃんと在るのです。

それはあなたがどれくらい長い期間忘れていようと、そのままでずっとい続けてくれています。決して変化することのない、真実なのですから。だから安心していいのです!

意識は驚嘆すべきもの

自分の存在に気づいている状態を、意識があるといいますね。人間であれば誰でも、正常に目覚めている状態であれば意識があります。

人間以外の動物には、その意識がありません。彼らは、生まれてから死ぬまでずっと無意識の状態で生きているのです。

人間のような精神的な苦しみや、達成しなければならないしんどい目標もないのですから、当然彼らの毎日は遊びのようなものの連続でしょうね。

日々を満喫しているように見えます。けれども、彼らにはそれを自覚する意識がないので、自分は今満足しているということを知るすべがないのです。

人間の赤ちゃんも動物と全く同じように、無意識の状態です。私は、ハイハイもできないような赤ちゃんだった頃の一瞬の記憶があるのです。

仰向けになっていて、寝て起きたばかりで気分がいいのか、とにかく母親の方を見てケラケラ笑っている記憶なのです。とても嬉しそうなのです。

しかし、それは意識が芽生えた後にそのシーンを思い出して言えることであって、そのときには自分は気分がいいなどという自覚がないのです。

だからどれほど赤ちゃんの時の自分が幸福そうであったとしても、そのときの自分には戻りたいと思わないのです。つまり、意識を失いたくはないという強い欲求があるのです。

意識があるというのは、それほどかけがえのないものですね。自分に気づいているということを、じっくり味わってみると、それこそが奇跡だという感じがしてきます。

意識とは、驚嘆に値するものであり、その意識こそが私たちの真の姿であるということです。

物質と非物質を同時に見る

外の世界を見るとき、私たちはこの肉体の眼を使っています。そして、この眼で見ることのできるものと言えば、それはごく一般的には物質ということになります。

例外的には、物質ではない、つまり通常見ることのできないようなものを見てしまうこともあると感じている人もいるかもしれませんね。

でもそれは一般人からすれば、ごく限られた例外的な体験ということになります。そして、眼を通して物質としての外界を見るその方向を真逆にすると、どうなるでしょうか?

そのときには、この物質としての眼を使うことはできません。代わりに、物質ではない何かによって私たちは、自分の内側を見ることができます。

そこで発見するものは、すべてが非物質なのです。つまり、私たちは外界にある物質と、内側にある非物質の両方を見ながら生きているということです。

もしも仮に、あなたが「見る」という言葉によって、すぐに眼で物質を見ることをイメージしてしまうなら、それはバランスが崩れた生き方をしていることになるかもしれません。

外側ばかりを見ることに忙しくて、内界を見ることを疎かにしている可能性がありますね。かといって、その反対に瞑想にばかりに明け暮れて、内側の非物質を見るばかりでも、バランスが悪いのです。

私たちはこの現実の世界で生きているのですから、物質と非物質を共にバランスよく見ることが大切なのです。どちらかに偏るのは、極端な生き方だと言えます。

そして、物質と非物質を見るバランスがとれているとしても、大抵は物質を見るときには非物質は見ず、その逆に非物質を見るときには物質を見ないという状態になっているはずです。

理想から言えば、外側の物質を見るときには、「同時」に内側の非物質も見るということができればいいのです。それこそが、意識的に生きるとうことになるのです。

これって、練習のし甲斐がありますね!