究極のしがみつき

昨日のブログでは、「しがみつき」について書きました。今日は、多くのしがみつきの中でも根本的で、誰もが共通してしがみついているものについて書いてみます。

そのしがみつきとは一体なんだと思いますか?それは、自分自身へのしがみつきなのです。他のどんなしがみつきであろうと、自分自身へのしがみつきがその原因となっているのです。

あなたは、この究極のしがみつきに気づいているでしょうか?セッションに来られるクライアントさんの多くは、自分を癒したいとは思っているものの、自分へのしがみつきには気づかないでいるのです。

だからこそ、困った問題だけが改善されてしまえばそれでいいと思い込んでいるのです。たとえば過食の問題を抱えている人は、それが起きなくなればいいと思っています。

人間関係がうまく築けないと悩んでいる人は、そこが改善されればいいと思っているのですが、そうした問題の原因となる部分にメスを入れられることは望んでいないのです。

その原因とは、その本人自身にあるからです。自分はそのまま手つかずの状態で隔離しておいて、問題だけを治してもらえればいいと願っているのです。

たとえ自分の性格を治したいと訴えてくるクライアントさんであっても、心の奥底には自分のままでいたいと願っているのですから、驚くしかありませんね。

癒しがとんとん拍子で進んで行かないとしたら、その理由は自分自身でいることへのしがみつきがあるからなのです。あなたは決して、あなたの根っこを変えたいなどとは思っていないのです。

あなたがしがみついている自分自身とは、具体的には何でしょうか?それは、これまでにあなたが培ってきた様々な価値観なり正しさなり、主義や信条などです。

あるいは、溜め込んだ体験や知識なども含まれるでしょうね。つまり、あなたの人格を形作っているあらゆる要素を決して失くしたくないのです。

けれども、そうしたものの一切合財があなたの苦しみの原因を作り続けているという事実に気づき、それらを潔く手放していくことができるなら、エゴは自動的に落ちていくことになるはずです。

あなたがしがみついているあなたとは、本当はエゴであり、それは実在しない架空の作り物なのです。そこを真に見抜く(光を当てる)ことで、エゴという影は消滅するのでしょうね。

しがみつきを点検する

私たち人間は、動物と違って心理的な恐怖というものを持っていますね。ライオンに追われたシマウマも、恐怖によって全力で逃げるのですが、この場合の恐怖は本能的なものです。

人間だけが、本能的恐怖に加えて知性的な恐怖というものも感じるのですから、動物よりも何百倍も恐怖を感じて生きているということになりますね。

その恐怖から必死に逃れようとすれば、人は何かにしがみつくことになるのです。たとえば、溺れそうになっている人は、死の恐怖から逃れようとして藁にもすがりつこうとするのです。

「しがみつき」はきっと誰の心の中にもあるはずです。あなたは、何にしがみついていますか?少し時間をとって、ご自身の心の中を見つめてみて下さい。

緊急時だけでなく、平常時であってもやっているしがみつきを見つけることです。なぜなら、緊急時のしがみつきは、一過性のものなので、あなたの人生を悪化させる心配はあまりないからです。

問題となるのは、常日頃継続的にやっているしがみつきなのです。そのしがみつきには、必ず副作用が発生するのです。それも、本人が望んでいないものが起きるのです。

仮にもしもあなたが、いい人であるということに必死でいれば、そのいい人の仮面へのしがみつきが強ければ強いほど、人といることを嫌うようになってしまうはずです。

せっかく人から好感をもたれようと頑張っているのに、自ら人間関係を壊したくなるくらいにエネルギーを消耗させることになってしまうからです。

底知れぬ寂しさを拭うために、いつも一緒にいたいと恋人にしがみつくなら、相手はいつかそのしがみつきの重圧から逃れたくなって、結局は孤独がやってくることになるのです。

しがみつきとは、ある種の狂気なのです。極端な飽くなき欲求とも言えますね。それは必ず、期待とは裏腹の結果を導くことになることに気づくことです。

自分の心の中を点検して、何等かのしがみつきを発見したら、真反対の副作用がやって来る前に一刻も早く、癒しを進めて行くことですね。

マインドの外に出る

自分のことをダメ出ししている人はいませんか?そりゃ当然いるでしょうね。自分をダメ出ししてない人など、この世界には一人もいないのです。勿論、私もしてますよ。

もしも本人にはそうした自覚がないとしても、潜在意識の中には必ず自己否定をする部分があるのです。それは、人間として当り前のことなのです。

で、次にもう一つ質問があります。そのダメ出しを何とかやめようとしている人はいませんか?これもきっと沢山いるはずです。

ダメ出しせずにいられるような理想的な自分になろうとするのも、今言ったようにそのダメ出し自体をやめようとするのも、どちらも不要なのです。

結局どちらも自分を改善しようとしているわけです。なぜ人は、AをBにしよう(A→B)とするのでしょうか?なぜそれが際限のないやり方であるということに気づかないのでしょうか?

実は、現状を変えなければならないという強迫観念は、私たちが幼少の頃に、エゴに毒された親や社会などから仕込まれたことなのです。

この、「お前のままではダメなんだぞ!」という、悪魔(エゴ)の囁きをそれこそ何万回も聞かされて育ってしまうため、誰もが心の奥底に自己否定感を持ってしまったのです。

それがあまりにも強烈だったために、大人になってもダメ出しを自覚している人もいるし、あるいはダメ出しを自覚できないように抑圧して、自分を好きという自覚で生きている人もいるのです。

本当はどちらも同じように、自分のままではいけない!という惨めさを持っているのです。したがって、癒しにとって最も大切なことは、マインドの外に出ることなのです。

マインドの中には、必ずこの「自分のままではダメだ!」があるのですから、マインドの中にいる限りは、あなたは自分を改善しようとする人生から抜けられないのです。

自分のマインドの中には、一体どんな思いや感情が詰まっているのか、それをマインドの外から見ることです。戦場にいれば、生死がかかっているので冷静ではいられませんが、戦場を上から俯瞰するなら落ち着いて戦況を見守ることもできますね。

それと同じことをすればいいのです。マインドの外からマインドの内側を冷静に見ることです。どんなに努力してもあなたがマインドの内側にいる限りは、必ず元々のマインドの内容物に汚染されてしまうからです。

そして、マインドの外に出る唯一の方法とは、マインドの中にある声の一つひとつを受け止めることなのです。受け止め続けている間に、マインドの外から自分を見ることが容易くなるのです。

そうなれたら、あなたはもう自己改善には興味がなくなります。その先にこそ、今流行りの「ありのままで~♪」が現実のものとなってくるのです。

死の体験が生を体験させる

この二元性の世界においては、常に対立するものがあって、それが存在するのです。つまり、夜があるからこそ昼があり、闇があるからこそ光があるということです。

もしも、一度も具合が悪くなったことのない人がいたなら、その人は健康というものを実際に理解することはできないのです。知識として健康を知ることは可能ですが、それを体感することができないのです。

同様にして、もしもあなたが不幸せな状態を経験していなければ、どれだけ頑張っても幸福感を味わうことはできないということです。

谷があるから山が存在できるのです。ということで、少し不思議だなと思ったことがあるのですが、それは私たちは誰も死んだ経験(記憶)がないのに、生きていることを経験しているということ。

なぜ、生の対極である死の体験がないのに、生について分かっているのでしょうか?なぜ自分は今人生を生きていると理解できるのかということです。

それで思ったのですが、もしかしたら私たちは誰も本当には「生きている」ということに気づいてはいないのではないかということです。

「生きている」と思い込んでいるだけなのかもしれません。かつて、テレビ番組か何かで臨死体験をした人の特集をやっていたことがあったのですが、臨死体験をして生き返った人は、その後の人生の生き方が変わるということでした。

ということは、彼らは一度ある意味では死の経験をすることができたために、生き返ったあと、本当に生きるということの実体験ができるようになったのかもしれません。

臨死体験に限らず、まさに死の淵まで行ったような、とても危険な経験をした人たちは、その後の人生において何かが変わるということを聞きますね。

これこそが、死の体験があって初めて、生を体験できるということなんだろうと思うのです。自己防衛に明け暮れるだけで、死に際の経験がない人は、どう頑張っても煌めくような生の経験ができないのです。

それはまるで眠っているような人生と考えられるかもしれません。少しでも、死をリアルなものとして感じることができれば、生をより豊かに生きることができるのではないかと思うのです。

朝の穏やかなひととき

最近の私の朝食は、(朝食とは言えないかもしれませんが)ヨーグルトと青汁を飲むことにしています。青汁は家人より勧められてですが、ヨーグルトは自発的に食べるようにしています。

幼いころは、ひどい偏食で卵焼きとヨーグルトしか食べないというのがあって、年齢を重ねてきた末に、またそこへ戻ったような感じかもしれません。

朝食の後、大抵は30分以上瞑想の時間にしていますが、どういうわけか個人的には夜の瞑想ほどは深く入れない感じがします。サラリーマン時代の、「朝は忙(せわ)しない」というのが、どこかに残っているのかもしれません。

今朝は、その毎日の瞑想後にこのブログを書いています。普段は夜中寝る前に書くのですが、昨夜はどうしたわけかネットが繋がらずに、アップすることができませんでした。

こうして朝書いた経験が今までに一度もないので、ちょっと不思議な感覚です。朝は常にぼーっとしているという習慣があるからかもしれません。

思い返せば、子供や学生の頃、そして会社員の頃を通して、ずっと常に朝というのは気分が塞ぎがちになる時間帯だったなあと感じます。

慌ただしいというのか、何かに急き立てられている感じがして、休日を除いて本当に嫌いな時間でしたね。それが、今ではこうしてゆったりと落ち着いた時間を過ごせるようになったのは、ありがたいことです。

私の場合は、45歳で会社員を辞めたときに、もう人生をリタイアした気分になっていて、一応今でも仕事をしてはいるのですが、半分くらいは余生を送っている気がしています。

自分はのんびり生きることしか、所詮できない人間なんだなあとつくづく思わされます。子供のころから、達成感が欠落していましたので、頑張っても内的なご褒美がやってこないのでした。

今では、そのおかげでなるべく過去にも未来にも意識を向けずに、今日を生きることができるようになってきています。その代り、ものすごく刺激の少ない人生になっていますので、お勧めはできませんが…。

腰痛のために先週控えていた水泳を今日からまた再開しようと思っています。これから、プールとサウナで至福の時間を過ごしてきま~す!

真実は体験できない

精神的な探求、あるいは真の自己探求とは、他のどんな探求とも根本的に異なるものです。なぜなら、それ以外の探求とは何らかの体験をすることだからです。

私たちは、この世界に生れ落ちてからずっと体験をし続けています。人生とは、体験し続けることであると言ってもいいかもしれませんね。けれども、自己探求とはいかなる体験もそこにはありません。

なぜなら、自己探求とはその体験するものを探求することだからです。したがって、瞑想は体験ではないということです。瞑想を体験するということは不可能なことなのです。

それなのに、自分が瞑想しているときには、身体がずっしりと異常なくらいに重くなってみたり、逆にどこか重力が軽くなったかのような感覚になったりと、それこそ様々な体験がやってきます。

そうした体験をしている限りは、それを真の瞑想と呼ぶことはできません。とても気持ちがよかったり、ごく静かで深みのある静寂を感じることもあるのです。

が、それもすべてはそうした体験をしているだけなので、それは瞑想ではないのですね。残念ですが、私という体験者はどこまでも執拗に存続するのです。

私の本質は純粋な意識であり、その意識に浮かんでくるものこそが体験なのです。意識が一時的に纏うもの、それが体験なのです。

そして本当の自己探求とは、その意識そのものを探求することなので、そこには体験というものはないのです。体験が無くなったときにこそ、時間も空間も消え失せるのです。

真実を体験することはできないのです。真の至福は体験ではありません。真の静寂も体験することができません。真実とはそれそのものだからです。

「生」にお任せ

生まれたときからずっと、あなたはあなたの人生の主役の座にいます。正確には、そう思い込んでいるだけだということを、何度もこのブログでお伝えしてきました。

あなたがあなたの人生を生きているのではなくて、あなたの中で「生」があなたを通して体験しているのです。それなら、あなたは何をしているのでしょうか?

本当は、あなたは何もしていません。ただただ自分が生きてここにいるという思考、思い込みを続けているだけなのです。あなたにできることは、ただそれだけなのです。

あなたという思考には、どんな力もありません。それなのに、自分の人生は自分の意志で切り開いていくべきと信じて奮闘しているのです。

当然、あなた固有の意志などというものと、「生」が起こす現象とが一致することなどありません。時には、あなたの意志通りに物事が起きることもあるかもしれませんが、それは一時の偶然に過ぎません。

次には、必ずあなたの希望は「生」によって裏切られることになるのです。だからこそ、私たちは常に苦悩と身近でいることになってしまうのです。

あなたがこうしたい、こうなりたい、こうであるべき、などを強く思っていればいるほど、いずれは「生」によってその傲慢な主人ぶりの鼻っ柱を折られることになるのです。

「生」はあなたという思考がどんなことを画策していようと、そんなことには一ミリも影響されることなく、ただ一瞬一瞬現象が創造される中に在るのです。

「生」のこの壮大な神秘を思考で解き明かすことなど、まったくの不可能なことです。私たちに唯一できることと言えば、その神秘にただ圧倒されつつ、それに明け渡していればいいのです。

「生」と闘えば、必ず負けることになるからです。闘うのを今すぐやめて、少しゆっくりしませんか?あなたが何をどう頑張ろうと、「生」は永遠の創造を続けるだけなのですから。

あなたには、どんな義務も責任も役割もあるはずもありません。あなたに与えられる手柄もなければ、どんな罪もあるわけではないのです。すべては、「生」次第なのですから。

それなら、あなたは「生」のお手並みをただ驚異の眼差しで見ていればいいのです。深刻になることもないし、もっと気楽にいればいいのですね。

反応と感応の違い

みなさんもご存じのとおり、コンピューターというのは非常に高速に様々な処理ができてとても便利なものですが、所詮はあるデータを入力してあげると、それに見合った一定の出力を出す単なる装置なのです。

最近のロボット型のコンピューターはもっと賢くて、同じ質問をしても次々と違う答えを返してくれて飽きない、ということもあるかもしれませんが、それでも厳密に言えば入力と出力の関係は完全に予想できるのです。

つまり、結果は100%予め決定しているということです。そこが私たち人間とは違うところだと考えられますね。なぜなら、今日あなたのことが好きと言われても、明日は嫌いと言われる可能性があるからです。

もっと言えば、人間のマインドの中には好きであると同時に嫌いであるという状態があり得るし、ほとんどの人のマインドは間違いなくその両方の要素をいつも抱えているのです。

少し話しがそれましたが、私は先日自分自身もまったくコンピューターのように一定の反応をしているに過ぎないのだということに気づいたことがありました。

ある人とある会話をしていて、この話しは以前にもしたことがあって、そのときと全く同じ反応を今回もしてしまったと気づかされたのでした。言葉も全くだったと思うのです。

このように、私たちの反応の仕方というものは、かなり予想がついてしまうものなのです。この話しをあいつに伝えたら、きっとこのように反応するに違いない、などと言ってバカにすることもあるくらいですから。

なぜそうなるのかというと、私たちの反応のほとんどは過去の蓄積がベースになっているからなのです。自分では意識していなくても、それまでのあらゆる経験や知識、あるいは考え方などを総動員して反応しているのです。

だから、1年前の反応と全く同じ反応をしたとしても、それほど驚くことではないのです。このように、反応が過去からやってくるとするなら、その人は過去に捉われて生きていると思って間違いありません。

それに対して、過去を一切使わずに、今この瞬間に応答が創造される場合、それを感応と呼ぶのです。だから感応はまったく予想することができません。

日々を感応しつつ流れていくなら、その人は生に逆らってはいません。闘うこともなく、生に明け渡しているとも言えるのです。

あなたの反応は、文字通りの反応ですか、それとも感応でしょうか?常日頃から、その違いに注意して自分を観察してみるといいと思います。

人を3派に分類する

血液型によって人を分類する占いのような方法は、世界的なものではなくてどうも日本などのほんの一握りの国で行われているだけのようですね。

血液型でも4つの種類があるので、人を3つの傾向に分類する方法があるとしても、結構大雑把だと思われるかもしれませんが、それでも以下のような分類が確かにあると思われます。

それは、肉体派、ハート派、マインド派の3つの傾向に分類する方法です。勿論、3つのうちのたった一つの要素だけの人はいないわけで、その3つの要素を持つ比率の違いが重要だということです。

なぜこんなことを言うかというと、私がブログでいつも瞑想がいいと書いている割には、クライアントさんの多くが、それほど瞑想を実践していないということがあるからです。

実は、瞑想を好むのはマインド派の人の場合ではないかと感じるのです。理屈好きでいつも思考によって知性的に生きていたい人は、その対極としての瞑想が適しているのでしょう。

また、ハート派の人たちと言うのは、常に感じやすい状態であって、理屈よりも感性を大切にするタイプなのです。彼らにとっては、瞑想よりも祈りが合っているかもしれません。

仏教では祈りのようなものがないのは、ブッダがマインド派だったからだし、キリスト教に祈りがあるのはイエス・キリストがハート派だったからなのです。

ハート派の人たちは、その感覚を研ぎ澄ませば、鳥や木々などともハート同士でコミュニケーションができるようになるのかもしれませんし、実際に動物と会話ができるセラピストもいますね。

そして、もう一つのタイプである肉体派の人たちは、既存のどの宗教にも興味を示さない代わりに、肉体を使いきることで素晴らしい境地へと行けるのです。

彼らはあまりじっとしていることを好まないかもしれませんが、肉体に没頭することでエゴが落ちる経験をすることができる人たちなのだと思うのです。

この3つのタイプのうち、自分がどのタイプに属するのかは、自分である程度判断するしかないでしょうね。そして、タイプが判明した段階で、それぞれ自分に適した方法を利用すればいいということです。

自己改善よりも自己受容

人は誰でも自分について、どこかしら不満を抱いているものです。それが、外面的なものであろうと、内面的なものであろうとです。

セッションで、自分の性格を直したいと訴えてくる方は結構多いのです。あるいは、今抱えている不自由さを少しでも直して、生活全般を改善したいと思っているのです。

そうした欲求がなければ、誰もセッションを受けになど来ないはずですね。ところが、この自分を何とかして改善したいという思いは、まさしくエゴのものだと言えるのです。

エゴとは、決して満足することのないマインドの性質なのです。いつも何等かの不満を抱えて、今日よりも明日、明日よりも明後日に何か変化があるかもしれないと期待しているのです。

つまり、エゴの「自分を改善したい」という欲望があるからこそ、このセラピストとしての仕事が成立するということになるのです。その意味で、エゴは私にとって必要なのです。

私は、エゴの欲求を用いて、クライアントさんの癒しをヘルプするのです。そうしたエゴの意欲をうまく利用することで、クライアントさんは癒しを継続してくれるからです。

けれども、どこかの時点で、自分を癒して改善していこうという思いこそが、エゴの中心的な欲望に違いないのだということをお知らせしなければならないのです。

この世界で唯一不要なものがエゴだからです。エゴを用いて癒しを進めている間はいいのですが、それはいずれは収束させていかなければならない運命にあるのです。

それがいつになるのかは、クライアントさんごとに違ってくるのでしょう。それは私が判断するようなものではなく、自動的にそのような流れがやってくるのです。

癒しの本質は、自己改善ではなくて、自己受容なのだということに気づくことなのです。それに気づいて、自分を徹底的に受け止めることができるようになれば、あなたは自分を観照することができるようになるのです。

それこそが真の癒しであり、真実に気づくことこそがあなたに与えられたこの生での役割なのです。