エゴとは卵の殻のようなもの

osho の表現の素晴らしさを、少しだけおすそ分けします。

—————————————————————————-

エゴはひとつの副産物だ。あなたの成長の副産物だ。生の自然な歩みの副産物だ。それは必然だ。ほかに道はない。

エゴを伴わない進化はない。でもある時点で、エゴは落とせるようになる。そうしたらエゴを落とし、超越することだ。

エゴとは、ちょうど卵の殻のようなものだ。それは保護層として必要だ。ちょうど種子の殻のように、保護層として必要だ。

でもその保護は、危険なものとなる。その保護が過剰となり、いつまでも種子の発芽を許さないようであれば、それは妨げとなる。

種子は、土の中に溶け去るものだ。そうすれば内側の生が現れる。種子とは死ぬものだ。

人はみな種子として生まれる。エゴは外皮だ。子供を守っている。もし子供がエゴなしに生まれたら……「自分は存在する」という感覚なしで生まれたら、生き残れない。

自分を守ることも、戦うこともできないし、存在するに必要なことが何もできない。だからまず強力な中心が必要だ。

たとえそれが偽りであろうとも必要だ。でもある地点に至ったら、この補助は妨げとなる。それはあなたを外側から守っていたが、強くなりすぎると邪魔になる。

内なる存在の邪魔になって、あなたはもはや、広がったり、それを超えたり、発芽したりできなくなる。エゴは必要だが、いつかは超越しないといけない。

エゴを持って死んだら、それは種子のまま死んだということだ。自らに可能であった宿命を成就することなく、意識的に<存在>を成就することなく、死んだということだ。
—————————————————————————————-

ナンバーワンを期待する心

生まれてくる赤ちゃんは、一人の例外もなく、自分が親にとっての最大の関心事であることを期待しているのです。それは、もう激しく貪欲なはずなのです。

それが実現して、自分がナンバーワンであると感じて、プラスマイナスゼロなのです。つまり、親の関心が一番に自分に向かっているという実感を得てこそ、それが当然ということなのです。

もしも、親の心の中に、何やらその赤ちゃん以外に気になることが存在していたら、それはどんなものであれマイナス点がついてしまうということです。

したがって、親がプラスの点数をつけてもらえることはなく、ただただ零点かマイナス点になってしまうのです。親がその子のことよりも、関心があることとはどんなものが在り得るでしょうか?

たとえば、親自身の心身の具合のこととか、親自身の生に対する不安感だったり、とにかく大きく気になることがあれば、それが何であれその子をナンバーワンの座から引きずり下ろすことになるのです。

その子の兄弟が重篤な病に侵されていたりしたら、間違いなくその子はナンバーワンではなくなるでしょうし、親が何かの宗教にぞっこんになれば、それも同じような結果となってしまいます。

ナンバーワンの座を奪われたと感じた子供は、その悲しみやその惨めさをどうにかして穴埋めしないではいられません。そのために、何かゲームのようなものにはまり込むかもしれません。

あるいは、そのどうしようもない否定的な感情を、徹底的に感じないようにしてしまうかもしれません。つまり、感じるハートを閉ざしてしまうということです。

そうなったら、表面的にはあまり苦しさを感じなくて済むために、その子はなんとか毎日をやり繰りして生活することができるのですが、その代償は凄まじいものとなってしまうのです。

感じないようにして溜め込んでしまった感情のエネルギーは、いつか機会を見つけて本人の前へと現れようとするのです。それは、病気やけが、あるいは感情の爆発などといった形を取るかもしれません。

もしもあなたの人生がどうにもうまく行っているとは思えないなら、幼いころに自分が親にとってのナンバーワンだったかどうか、よくよく思い出すことです。

そして、ナンバーワンでいられなかった事実があるなら、その子の心を時間をかけて十分に癒して行くことが必要なのです。その子の癒しに連動して、あなたの人生に変容が起きてくるはずです。

生と死を超えて

私たちにとって最も確実なこととは、それはいずれは死ぬということですね。これほどの確実なことは他にはありません。生まれた瞬間にそのことは、もう決められてしまうのです。

明日の朝がやってくるということも、ほとんど確実ですが、それでも完全には確実ではありません。場合によっては、地球が巨大な隕石とぶつかって、吹っ飛んでしまうかもしれないからです。

あるいは、朝が来る前に太陽が爆発するかもしれません。その確率は限りなくゼロに近いかもしれませんが、ゼロではないはずです。

けれども、あなたがいずれは死ぬということは、100%完全に確定していることです。少し前に始まったあなたの生は、単独でやってきたわけではなく、死を携えてきたのですから。

死は生とは切っても切れないものです。それはコインの表と裏のような関係です。そして、今生きている誰もが一度もその死を経験していないにもかかわらず、恐れているのです。

どんなものかも知らないのに、なぜこれほどまでに死を恐れるのでしょうか?それは実は、生を恐れているからです。生を恐れているために、十分に生を堪能することができずにいるのです。

生をエンジョイできないままに、死んでしまうということ、これこそが本当の恐れなのです。生を十分に満喫した人は、きっと死を恐れることがなくなるはずなのです。

本当は死とは恐れるものではありません。それは深い安らぎであり、究極のくつろぎなのですから。あるいは、この生で疲れ果てたあなたの魂が、次の生への準備として十分に精気を養う大切な間なのです。

深く瞑想すれば、それは死と同じ安らぎを感じることができるのです。夢を見ることのない深い睡眠も、死と何も変わるものではありません。

瞑想を習慣化することで、死を恐れることから少しずつ解放されるし、また死を恐れなくなればなるほど、深い瞑想へと誘われることにもなるはずです。

そうして、いずれはあなたの本質である純粋な意識、気づきそのものこそが、生と死を超えた永遠のものであるということを知ることになるのですね。

起きることが起きる

クライアントさんと初めてセッションでお会いした時に、ああ、この人の場合はそう簡単ではないなあと感じることがあります。

それは、とても洗脳が深かったり、強いエゴが正しさで防衛していたり、思い込みが強烈だったりして、私の言葉がその人のハートに入っていかない感じがするからです。

そのことと、その人の苦悩の深さや社会生活の良し悪しなどが、必ずしも比例するわけではないのですが、私のエゴはじれったいと感じてしまうのです。

ところが、そんなクライアントさんがしばらく通ってきている間に、あれっと思う間もなく変容してしまうことがあるのです。そんなとき、私の見立ては何だったんだろうということになります。

とても嬉しい期待外れに遭遇して、起きるときには起きるものなんだと改めて思わされるのです。癒しというのは、本当に不思議なものですね。

そうしたことを何度も経験してきたせいか、あるいは何かほかの理由があるのかは分からないのですが、クライアントさんに対する思い入れみたいなものが薄れてきているようです。

こう言ってしまうと、なんだか冷たい奴になったと思われてしまうかもしれませんが、セッションを通して自分なりに作っていた期待そのものが、小さくなってしまったようなのです。

生きるうえでの何らかの不自由さを感じて、それを何とかしたいという一心でいらっしゃるクライアントさんの姿を目の前にすれば、誰だってその期待に応えたいと思うのが人情というものです。

けれども、そうした人情のレベルが次第に小さくなってきているということなのでしょうね。期待すればそれは裏切られるし、生とは期待通りには決してならないということに腹の底から気づかされたのだと思います。

起きることは起きるし、起きないことは起きないのです。期待はエゴの範疇であって、決して今この瞬間のものではありません。それは未来に対する欲求でしかないのですから。

生を解き明かすことは不可能です。私たちにできる最善の生き方とは、生と共に流れ、生が連れて行ってくれるところにただ従って行くことなのです。

自分のままではいけないという想い

幼い子供にとって、何が一番辛いことかといえば、それは大切な親の期待を裏切るようなことをしてしまうということです。その子が親に深く洗脳されていれば尚更です。

自分の言動がもとで、親が悲しんでしまう、親が心配する、親が落胆する、親が恥をかく、こうしたことのすべてが子供の心に突き刺さるのです。

それでなくても、幼い時期というのはまだ自分の存在にOKを出せていない状態なのですから、少しでも親が怪訝な顔をしたり、ため息などを吐くようならそれが痛く心に響いてしまうのです。

そして、やっぱり自分というのはダメなんだ、自分はどうしてダメなのだろう、自分のままではいけない、何とかして親を喜ばせたい、となるのです。

この自分のままではいけないという思い、これがその後のその子の人生を徹底的に破壊することになるのは自明のことです。

自分のままではいけないが強くなってくると、自分のままでいたいという無邪気さが完全に抑圧されてしまいます。そうなると、抑圧されたエネルギーは本人の意志とは裏腹に蓄積して、いつか決壊することになるのです。

それは、当然何等かの問題行動という形を取ることになるはずです。なぜなら、本人の理性では決してそんなことはしてはいけないと強く思っているのですから。

問題行動というのは、深く潜伏させられたエネルギーが無自覚のうちに行動となって出現するわけですから、本人にとっては勿論最大都合の悪いことなのです。

結局、その問題行動は、本人にやっぱり自分はダメなやつなのだという決定的な烙印を押させることになってしまうという、絵に描いた様な悪循環に陥るのです。

この強烈な悪循環を断ち切るためには、まず自分が親から強い洗脳を受けているということに気づいていく必要があるのです。

そのためにも、無条件に自分の心の中にある様々な声に耳を傾け、それを受け止めていくということを日々実践することです。

勿論時間はかかるかもしれませんが、いつか必ず洗脳されていたことに実感を持って気づくことになるはずです。そうなったら、後は自然にまったく違った見方で自分を見てあげられるようになっていくはずです。

今この瞬間にあなたの不在が在る

私たちは、マインドと自分を同化してしまっています。そのマインドの中身とは、無数の来ては去っていく思考の集まりに過ぎません。

思考そのものが今この瞬間にあなたのマインドの中に発生したとしても、その思考がターゲットとするものは必ず過去か未来であるということに気づいていますか?

あなたの思考は今この瞬間のことをターゲットにするということができないのです。もっと平たく言えば、あなたは今この瞬間のことを考えるということができないということです。

思考と今この瞬間が出会うことは決してありません。ということは、あなたは自分を思考だと思っているので、あなた自身が今ここにいることができないということになるのです。

誰でも希望を持って生きているのですが、その希望とは未来に向けての思考に違いありません。今はこうでも、きっといつかは何かが起きる。

人によっては明確な希望を持っている人もいるでしょうけれど、もっと曖昧にいずれ何かいいことが起きると期待する、という程度の希望の場合だってあるのです。

何度も言いますが、すべての希望は未来をターゲットとした思考です。そしてそれが欲求となるのです。欲求することが、苦悩を生み出すということを聞いたことがあるかもしれません。

それは実際事実なのですが、それは必ず自分の欲求通りに今がやってくるということがないからです。欲求が大きければそれだけ、落胆することも大きくなります。

仮に欲望が叶ったとしても、あなたはすぐに次なる欲求を満たそうとし始めるだけで、永続的な満足というものを得ることはできないのです。

だからと言って、苦行層のように欲求を無くすなどということを考えてしまったら、欲求を落とすことそれ自体が新しい欲求となるだけで、自体はさらに悪化してしまいます。

無欲になろうとすることは、ターゲットが変わっただけで、それ自体が欲求なのです。今この瞬間にただ在れば、その結果としてひとりでに希望は落ちて、真実の中へと入っていくことになるのでしょうね。

自分はいないという気づき

私たち人間は、苦しみを抱えています。自分の心の中に、苦悩を持っていない人はきっといないのです。勿論、そのことに気づいているかどうかは、また別の問題なのですが…。

いいや、自分は今とっても幸せだし、苦悩などまったくないと断言する人もいるでしょうね。それはそれでいいのですが、それでも残念ながら苦悩はあるのです。

なぜそんなことを断定することができるのかというと、私たちは通常自分がいないことに気づいていません。つまり、自分はいると思い込んでいるということです。

その思い込みが非常に強固なために、それは真実であるとして疑うことすらしなくなってしまったのです。社会の一員として立派に生きて行くためには、自分はいるということが必須だったからです。

自分がいるという思い込みを土台とした思考のビルを自我(エゴ)と呼びます。それは単なる思考なので、エゴは自分がいるということを決して疑って欲しくないために、闘いと防衛を自分に強いるのです。

そうすると、確かに自分がいるという感覚が強くなって、それはいつしか疑いようのないこととなるのです。それでも、本当は自分はいないので、生きることが不安でしんどいのです。

自分の人生が万事うまく行っていて、何も問題ないと感じている人はどうぞそのまま人生を楽しんで下さい。その他の苦しみに気づいている人に向かってのみ、このブログは書いているのですから。

生きる苦しみから解放される唯一の方法は、自分が本当にいるのかどうかを検証することです。そして、いつかはそれがでっち上げられたことに過ぎなかったと気づくときがやってきます。

そうやって、自分の空虚さに気づくことができた人だけが、自分の本当の姿に気づくチャンスを得ることになるのです。それは途方もない次元へとジャンプすることなのです。

最初にやるべきことは、自分がどこにいるのか実は皆目分からない、ということをそのまま認めることです。これは、誰かに言われたからとか、本にそう書いてあったからというのではなく、自分で検証することです。

その時、頼りになるのはあなたの素直さだけなのです。

理不尽さはエゴの餌

この世の中、どうにもこうにも理不尽なことがてんこ盛りにあると思いませんか?人には人の、他国には他国の事情というものがあるのは分かりますが、それにしても理不尽さは尽きることがありません。

その理由は、私たち自身がそれを探し求めているからです。といったら、とんでもないと反発されるでしょうね。理不尽さを必要としてる人など、どこにもいるはずがありませんから。

けれども、本当のところ私たちは、理不尽なことを常日頃から心の奥底では期待しているし、それを楽しみにもしているのです。

なぜかというと、理不尽さというものは自我(エゴ)にとっては、またとない美味しいご馳走だからです。エゴは理不尽さを見つけ出すと、活き活きとしてきます。

なぜあの人はあんな言い方をするのだろう?あの国はどうしていつもあれほど我が国に対して難癖ばかりつけてくるのだろう?そして、理不尽さを認識している自分とは、間違いなく「まとも」なのです。

理不尽なことをする人は正気ではないけれど、それを理不尽だと認めることができる自分はいたって正気だということです。つまりは、自分が正しいということを証明できるわけです。

さらにいえば、その理不尽さを何とかしようとすることで、エゴは闘い続けることができるというおまけつきなのですから、エゴはいつだって理不尽さを求めているのです。

私自身は、できるだけ思考を緩めるようにと瞑想をしてみたり、意識を内側へと向けたり、さまざまな取り組みをしているのですが、それはエゴにとっては甚だ不都合なわけです。

そのために、適当に理不尽な体験を引き寄せることで、私にまた闘いのリングへと向かわせようとしているのです。闘いのリングに上がってしまえば、もうそこは思考のルツボと化すのですから。

もしもあなたの身に理不尽さがやってきたとしたら、まずは心の中に起こる反応をあるがままに感じることです。それは、怒りだったり恐れだったり悲しみだったりするでしょう。

感情さえ感じることができたなら、実際の行動は文句を言うでも黙ったままでいるでもどちらでも構いません。そして、それを見ている自分を常に見つけることです。

そして、理不尽さはエゴの餌だということを意識することです。感情を味わった後は、思考が後を引かないように気を付けることも忘れないで下さいね。

このようにすることで、理不尽さに溺れずに済むようになっていくはずです。そして最終的には、常に思考が緩んだ状態になることで、理不尽さは壊滅することになるでしょう。

物語への興味は尽きない?

私たちは本当に物語が大好きなのですね。だから、テレビドラマから始まって、あらゆるジャンルの映画や歴史本なども含めて、物語に嵌り続けているのです。

勿論、そうした物語の決定版は自分自身の人生です。ただし、誰もが概ね人生を物語のようには扱っていないだけで、それが物語であることは間違いないのです。

なぜそれほどまで、誰もが物語を愛してやまないのか?それは、自我(エゴ)がそれを利用して自分の存在を明確化しようと目論んでいるからです。

自我というものは、何であれ目的がなければ成立しないのです。あるいは、その逆にどんな目的も自我なしには保つことはできなくなるのです。

つまり、自我は人生という物語の中にある目的によって生き延びようとしているということです。だから自我を自分の主人にしてしまった私たちが、物語に目がないのは当然の結果なのですね。

したがって、もしもあなたが人生には目的や目標があるべきと考えているのでしたら、それが変わらない限りはいつまでも輪廻転生し続けることになるでしょう。

なぜなら、物語には本質的には終わりはないからです。ある物語の目的が達成されたら、その後すぐに別の目的が考案されてしまうからです。物語に真の「完成」というものはありません。

一話限りの映画が大好評だったりすると、不思議に続編が製作されたりして、また人気を博すことがよくありますが、あんな感じで物語はいくらでも続くのです。

もしもあなたが、人生という物語をそろそろ本当に終わりにしたいと感じているのなら、肉体とともに生きている間に途中で終わりにするしかないのです。勿論、自殺のことを言っているのではありません。

人生という列車には終点はないので、途中下車するしかないということです。そして、途中下車が本気であるためには、その列車の中でこの後どんな面白そうなことがあるかなどという期待を手放す必要があるのです。

とは言うものの、誰かに強制されて物語への興味を無くすことなどできないのですから、あなたが人生という物語から垂直にジャンプするかどうかのすべてが、あなた次第なのです。

あなたが今の時点で、どれほど物語にご執心かどうかを見極めるには、自分の周りに起きている出来事についていつもあれこれ考えているかどうかを見ればいいのです。

昨日のブログで書いたように、内側に意識を向けることが増えてくれば、それだけ物語への興味が薄れてきた証拠だと思えばいいのです。

とにかく内側に意識を向けることですよ!

私自身が自分の中で日々やっていること、そしてセッションのときにクライアントさんに伝えていること、それはとにかく自分の内側に意識を向ける、ということなのです。

それを具体的な言葉で表現すれば、いろいろになるのですが…。たとえば、自分の気持ちを受け止める、心の声に耳を傾けてやはりそれをただ受け止める。

あるいは、自分のマインドの中に渦巻いている思考を見る、またはできるだけ意識的に生きる、瞑想的に生きるなど、これらは全部内側に意識を向けるということなのです。

会社に出勤途中、あなたが道を歩いているなら、歩いている自分を意識するのです。と同時に、太陽がジリジリ暑いなと思っていることを見るのです。

道端に咲いている名も知らぬ可愛らしい花を見つけたのなら、それを見ている自分を見るのです。遅刻しそうで困ったなと思っているなら、その思いをただ受け止めるのです。

受け止めるときの要点は、心の中のどんな声、どんな想いに対しても抜けなく全面的にということに尽きます。そして、肯定も否定もなく、判断もなく、味方にもならず敵対することもせずに…。

つまりそれは、無思考でということです。意識を向けるとは、思考を使わずにただ見るということなのです。あなたが道端の花を見ているときには、花を見る主体としてのあなたと、あなたに見られる客体としての花と、あと見るという行為があるのです。

つまり、主体と客体とその間を取り持つ行為の三つがそこに在るのです。これはごく当り前のことです。けれども、そこに主体を見るということを追加するのです。

それこそが意識的でいるということ、瞑想的であるということの本当の意味です。残念ながら、あなたの意識はほとんどが客体に向けられているだけなのです。

主体である自分に対しては、無意識であるとしかいいようがありません。このような時間をあと何万年過ごしたところで、決して自分の本質に気づくことにはならないのです。

あなた自身を思考を使わずにただ見ること、そのことによってのみあなたは本当のあなたへと変容を遂げることになるのですね。