それは誰かをいつも問うこと

私たちは、日ごろ気づかぬうちに自分という人物そのものになりきってしまっています。何の疑いもなく、自分が生まれて生きて、人生を進めていると感じるわけです。

言ってみれば、人生の主役を過去ずっと続けてきたし、これから先もそれが変わることはないと信じ切っています。それに異論を唱える人はいないはずです。

けれども、自分の本質に気づくと、そのことが単なる思考の中でのことだったと分かるようになるのです。それは、人物としての自分がなくなるということではなくて、それと同時に気づいている状態でいることができるのです。

それに気づいたとしても、毎日の生活が激変してしまうということでもないのです。人によっては、そのように見える場合もあるかもしれませんが、通常は何の違いもありません。

つまり、気づきの前と後ろでは人としての自分に変化はありません。さらに、一度気づいたからといって、自分の本質を忘れないということでもありません。

何か精神的に揺さぶられるようなことが起きれば、たちまちのうちに本質のことはどこかへすっ飛んでいってしまいます。ただし、冷静になれたときにはまた「ああ、そうだった」という場所に戻ってくることができます。

かつて、その気づきをなるべく忘れないようにするために、心の中でいくつかのことをやっていたことがあるのですが、その一つに、「それを○○しているのは誰か?」という質問をするのです。

つまり、自分が腹を立てているときなら、腹を立てているのは誰か?と自分に問うのです。嬉しいことがあったり、感動しているときなら、そういう気持ちになっているのは誰か?と問い合わせるのです。

そうすることで、なにものでもない本質としての自己の意識に戻ることができるのです。それは、観照する視点に戻るということでもあります。それが、「観る」ということです。

客観視することではなくて、内側から完全に密着している人物としての自分を観るということです。個人としての自分のことを常に距離ゼロの位置から抱きしめている状態になるのです。

そのとき、人としての自分の心の中に理由のない、奥深い安心感を見つけることができるはずです。そうやって、何の努力もいらずに癒しが起こるのです。

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