間違いを認める

このオフィスのある武蔵野市が発行している市報というものがあるのですが、その中の記事に学校などの校庭の放射線量の測定結果というものが出ていました。

その数字についてのコメントが出鱈目過ぎると思って、親切心満載で市役所に電話をしてみました。すると、その記事の担当者は決して間違いを認めようとしないのです。

その人の頭が悪いということではなく、とにかく間違った表現をしたことを認めないという態度に終始するのです。

かといって、私の言っていることを理解できないということではないのも勿論分かるのです。その中途半端な状態のまま、最後まで彼は自分の立場を守り抜きました。

彼にとって一番大切なことは保身なんだなということが分かりました。しかし、理性ある大人として、それは客観視したら逆に恥ずかしいことに感じるのではないだろうかと。

最終的には、彼はあなたがそう言うなら今後は今回のような表現を使わないようにする、そう言ったのです。それでは、何だか私が無理やりそう言わせたような、こちらが悪人のように感じさせられてしまいました。

こうした役所の人の態度というものは、本当に潔くないというのか、日頃政治家の同じような態度に辟易させられていたものの、実際に遭遇してしまうと何とも馬鹿馬鹿しい思いがしてしまいます。

ただ間違いを認めるということがそんなに怖いことなのでしょうか。世の中には、絶対に自分の非を認めようとしない人も沢山います。

あの人が謝ったところを一度も見たことがない、などというのは日常的に耳にすることができるくらいですから。それくらい、人は間違いを認めると自分が消えてしまうくらいに思い込んでいるのかもしれません。

だれにでも間違いはあるし、それはいいことでも悪いことでもなく、ただ間違ってしまったというだけのこと。問題はそのことを認めないというただその一点にあるというのに。

人の振り見て我が振り直すというように、間違いだと思ったらすぐにそれを認めてしまうことが結局自分の人生を悠々としたものにすることになるということを忘れないことですね。