損をしたくない その3

損をしたくないと思っている自分にとって、本当に損をしてしまうときというのは愛を与えられてない時なのだということがようやくはっきりと分かってきました。

損をしたくないという気持ちと愛とはちょうど真逆なのだということです。つまり、損をしたくないと思って、その気持ちに従って行動すればするほど、損をしてしまうということです。

自分のプライベートな時間を他人の都合で潰されるのは損だと思って、相手の気持ちよりも自分の時間を守ることを優先してしまうことが、結果としては時間を損することになるのです。

おつりが足りない場合に、このままでは損だと思って文句を言いにいって相手と押し問答になることが一番損をすることだということです。

損というのは物質的なことを想定しがちですが、実は内面的なものなのです。自分の気持ちが怒りで荒れてしまったり、損をしたと憤慨したりすることが本当の損なのだと気付くことです。

もしも、物質的な損を被ったとしても心が晴れやかであったとしたら、それは決して損をしたことにはなりません。

以前、セッションの予約の時間になっても一向にクライアントさんが来なくて、15分待ってからお聞きしていたケータイ番号に電話をしたら、面倒臭そうな声で今日は残業が入ったので行かれないと言われたことがありました。

セッションに備えて部屋を掃除したり、気持ちを中立に保つために瞑想したりして準備万端整えてクライアントさんを待っていた自分が情けなくなりました。

そしてとても損をしたという思いに怒りが湧いてきたことがありました。しかし、よくよく考えてみると別に何も損をしてはいないのです。

期待を裏切られたということで損をしたと思い込んだだけなのですが、損をさせられてしまったと怒りの中で思ってしまったことそれ自体が損だったのです。

今また同じようなことがもしも起きたとしても、自分は以前ほどは動揺しないで済むと思っています。自分の心さえ穏やかでいられたら、もうそれは何の損も発生しはしないと分かったからです。

愛を与える

ほんの少しでも与えた愛は必ず返してもらえます。それは勿論返してもらえるということを期待して与えることはできません。

愛には期待という概念がないからです。単に、後でやっぱり返してもらえてるということを実感できるのです。そしてその逆もまたしかり。

自分ではどうにかこうにか、気持ちをやり繰りして愛を与えているつもりになっていたとしても、結果がはかばかしくない場合があります。

愛を与えられていたかどうかは、いやと言うほどはっきり結果となって出てしまいます。そこは絶対にごまかすことができません。

さきほど、テレビでイルカのセラピーの番組をやっていました。生まれつき右半身が動かないで育った子供が、イルカに触れて急に右手右足を動かすことができるようになったという実話です。

イルカに限らず、動物は人間ほどのエゴを抱えていないために、より純粋な愛を与えることができるのでしょうね。

最近では犬や猫もお年寄りや心を病んだ方々の癒しの目的で一役買っているのをよく目にするようになりました。

愛を与えることが難しいと思えるときというのは、よく自分の心を見つめてみると昨日のブログの内容とも関係しますが、損をしたくないという気持ちが邪魔をしているように思います。

与えると減るので損をするという根強い感覚を我々は持ってしまっているようです。しかし、与えると減るのは、愛を伴っていない場合に限るのです。

愛を伴って与える場合には、必ず与え返されるのです。この法則を一度でも実感してみると、次からは比較的楽に与えることができるようになるはずです。

損をしたくない その2

昨日のつづきです。

人と関わることで何かと損をしてしまうと感じている人は、自分を守ろうとするあまりに自ら自己犠牲を強いてしまうということでした。

そうしたことに思い当たる人は、是非とも嫌われる恐れに立ち向かって自己表現をする訓練をする必要があるというお話しをしました。

そして今日は、損をするという感覚は一体どこからくるのかについて見て行きたいと思います。私たちは、昨日のブログの例のような場面以外にも、いくらでも損をしたと感じる体験がありますね。

一つは人と自分を比較することから発生します。いわゆる不平等さの感覚というものです。対等であると思っているのに、そこに平等ではないと感じたときに損をした感覚が生まれます。

おやつを兄弟みんなで分けるなどのときに、喧嘩がつきものなのもこの不平等だという感覚から来るものですね。

また、当然のこととして受け取ることを期待していたのに、それが叶わなかった場合にも損をしたと感じるものです。兄弟喧嘩の例もこの場合にも、どちらも期待との不一致がそこにあるわけです。

つまり、損をするという感覚は、期待したとおりに受け取ることができなかった場合に発生するということが言えるのです。

ですから元々期待してない場合には、損をするという体験をすることができないのです。そしてもう一つ、手に入れる、受け取る、という状況ではない場合にも損をするということはあり得ません。

こうして見てくると、与える側に立っている人は何があろうと損をしたという感覚になることはないということが分かります。

結局、損をしたくないという思いは、受け取る側にいる人の意識から発生するということが分かります。一生損をしたくないと思うのでしたら、与えることに専念することだということです。

与えるとは勿論物質的なことだけではなく、そこには愛を伴っている必要があります。その時に限り、人は損をするということから完全に開放されることができるのです。

損をしたくない

お店で買い物をしてお釣りをもらったときに、正規の額より多ければちょっと嬉しい気持ちになるか、気になって返しに行くかもしれません。

でも、そのお釣りが足りないと気付いたら、とても損をしたようないやな気分にさせられますね。これは誰であろうと例外はないのではないでしょうか。

その時にきちんと足りなかった旨を店員さんに申し出る事ができる人と、なかなか言えない人といるのです。言えない人は損をした悔しさに翻弄されることになってしまいます。

誰だって損をしたいと思っている人などいないわけですが、額が少なければまあいいやと思える可能性もありますが、実際にはこれは額の大小の問題ではないのかもしれません。

損をしてしまったというこの感覚自体を嫌っているのです。お金に関してだけではありません。人間関係において、様々な場面で損をしたと感じることが発生します。

例えば、大皿でパスタを頼む形式のお店に行って、みんなで各自順番に自分のお皿にパスタを取っては食べるという場合、他人のことを考えるあまり遠慮がちになってしまう人がいます。

そうかと思うと、その逆に人のことをあまり気にせずに食べたいだけ自分のお皿に取ることが普通にできる人もいますね。

前者の場合、誰にも強制されたわけでもないのに、何となく遠慮してしまい食べたいだけ食べれないということが起きてしまうかもしれません。

そんなとき、その人は心のどこかで平気で好きなだけ取れる人を羨ましいと思うのか、怒りを感じてしまうのかのどちらかになります。

結局、そのような人は人と一緒にいると何かと損をしてしまうと感じるようになって、人間関係を疎ましく感じるようにもなってしまうのです。こんなことだったら、一人で食べに行くか、最初から一人ずつのお皿でオーダーしたほうがよっぽどいいと思ってしまうわけです。

ここでは気付く必要のあることが二つあります。一つは、損をしたと感じたときになぜしっかりと自己表現することができないのかということです。

あるいは、もともと損をしないように不必要な遠慮をしないということがなぜできないかということです。それは、嫌われたくない、見捨てられたくたいという自己防衛の働きによるものです。

このような自覚のある人に必要なことは、少しずつ嫌われる恐怖を感じながらも自己表現をしていく訓練をすることです。

そうやって、自ら自己犠牲を強いてしまう人間関係のパターンを少しずつ改善していく必要があるのです。そうすれば、人と一緒にいることが辛くなくなるのです。

そしてもう一つ、気付く必要があるのは、損をするという感覚はどのようにして発生するのかという点です。

つづく

火のないところに煙は立たぬ

よく芸能人や有名人の人たちが、全く身に覚えのないことを記事にされたと言って憤慨しているシーンを見ることがあります。

一般人は週刊誌や芸能ニュースなどの情報を聞くと、丸ごと信じないにしても全くの出鱈目だとも思わずにいることが多いのではないでしょうか。

それは、「火のないところに煙は立たぬ」、つまりそうした噂のようなものが起こるには何らかの理由があるはずだと思うわけです。

そこに、ほんの少しでも事実として何かが見つかると、やっぱりね、ということになるのです。そしてまた次の記事を読んで同じように疑いの目で見るという習慣ができあがります。

また逆に、ある人に降りかかったネガティブな噂が、実は根も葉もないウソだったと分かったとしても、何となくその人に対するネガティブな感覚が残ってしまうものです。

その残った感覚というのは、実は見聞きした情報を元に自分が勝手に作り上げた相手に対する否定的なイメージなのです。そして、それは相手には罪があると思いたいという意識に他なりません。

この傾向は誰にでもあるものです。だからこそ、いいニュースよりも否定的な内容のものに世間の関心が集まるのです。

私たちは、こうして人を罪人にしたくて仕方のない心の部分を持ってしまっています。それは勿論自分には罪はないということを証明するためなのです。

言葉を変えて言うと、罪深い自分というものを隠そうと躍起になっているということです。それはとりもなおさず、自分に対する大きな罪悪感を持っている証拠なのです。

罪悪感を手放していけば、相手の中に罪を見ようとする力が小さくなっていくはずです。そして、最終的に人も自分も何の罪もないという地点に到達できるはずです。

そんな自分の心を想像してみて下さい。この上なく清清しい何とも言えないすばらしい気持ちになれるのでしょうね。

フットワーク

サラリーマンを辞めて今の仕事をするようになってからというもの、ほとんど出かけるということがなくなりました。

それは自分のセラピールームが自分の仕事場ですから、当然と言えば当然なのですが、それにしても外出そのものもとても少ないのが現状です。

そろそろ丸9年今の仕事をしていて、出張セッションのような形態で仕事をしたことは数えるほどしかありません。そのほとんども、依頼されて講義をするような形態でした。

出張での個人セッションとなると、もうほんの2,3回しかないと記憶しています。これは明らかに、自分自身が出かけることを好まないということの結果だと思っています。

確かに自分のセラピールームでセッションをするのが自分にとっては一番やりやすいのですが、しかしあまりにも来ていただくことを前提とした仕事のスタイルに偏りすぎているという思いは以前からありました。

マザー・テレサの言葉にこういうのがあります。

『お月様に貧しい人がいたら、私たちはそこに行かなければなりません。』

この貧しさというのは、勿論物質的なものだけではなく、すべてにおいて困窮している人のことを指すのでしょうね。

こうした言葉を聴くと、フットワークの軽さはある意味愛の象徴でもあるように感じてしまいます。誰かに愛をもたらそうとしたら、その人にできるだけ密接にかかわることが必要です。

物理的にここに来れない人たちのために自分が出向いて行くことは当然のことなのですが、まだそれができてないのが今の自分です。

来年以降は、少しずつ今の重いフットワークをなるべく軽快なものに変えていけるといいなと思っています。それには、呼ばれるのを待つのではなく自ら出向くという意識改革が必要ですね。

子供からのサイン

子供というのは、その家族の中にある目には見えないような家族間の心の問題を、様々な形で体現して見せてくれるものです。

その中でも誰もがよく知っている一番オーソドックスなものは、「おねしょ」ですね。おねしょは、寝ている間にしてしまうものですので、本人は全く意識できません。

しかし、それが逆に本人にも気付いていない潜在意識の中に抑圧されてしまってある、家族の間の人間関係の問題を表すことになるのです。

最も多いのは、おねしょをしてしまう子供本人と親、特に母親との心のつながりが、子供の側からすると満足のいくものではないと感じている場合です。

母親が忙しすぎたり、何か気になることを抱えていたりと、母親の気持ちが自分の方に真っ直ぐに向いていないと子供が感じると、そこに大きな不満が起きるのです。

母親の方としては、一生懸命毎日を送っていてこれといった問題はないと思っているのですが、そのことがまた子供にとっては自分の不満に気付いてくれないという感覚を生んでしまいます。

そうなると、何とかして母親の注意を自分に向けようとします。ただ、子供はこのことを表面意識で感じていない場合には、そのことに対する自己表現をしないために、仕方なく寝ている間のおねしょという形で訴えるという手法をとることになるのです。

親の心に余裕がある場合には、このことに気付くこともありますが、大抵の場合にはいつになったらおねしょが治るのだろうという不安の方に目が行ってしまい、子供の気持ちに気付いてあげられないのです。

場合によっては、両親の関係がうまくいってないなどの時にも、おねしょが起きることがあります。それは、子供から親に向けた身を挺したサインだと考えることができますね。

そして、子供からのサインはおねしょだけではなく、不登校という形をとってみたり、子供の人間関係の悪化という現れ方をするような場合もあるのです。

いずれにしても、子供は家族の問題をその言動によって親に知らせる役目をしっかり果たしているのだということを、冷静に見てあげる必要があるのです。

許さない理由

私たちの毎日の暮らしの中で、許しを実践するチャンスがない日はありません。出かけて忙しく動き回っている時でも、じっと部屋に篭っている日でも、例外なく許しを実践することができます。

許しこそが癒しの本質だし、真の幸せへのポスポートであることは明白になっているというのに、実践しても実践してもやっぱり思ったようにこれで完璧というようには許すことができないのはなぜでしょうか?

許すということを意図し続けながら心の中で人との関係を見つめていると、自分の本当の気持ちを曖昧にしてごまかすことができなくなってきます。

もっと簡単に言えば、許そうとしたときに何らかの抵抗が心の中に沸き起こるのを感じることができるのですが、そこにこそ自分の隠していた本心があるということです。

こうした隠された本音というのは、許そうとしない限りなかなか感じることはできないのです。そうやって沸き起こってきたものをしっかり味わっていると、ははあ、なるほどなと納得することがあります。

そこには大抵の場合、恐れが潜んでいます。その恐れから防衛しようとしている自分を発見できるのです。そして、その防衛のための方法が多岐に渡っているということも見えてきます。

その一つひとつを自分が相手を許そうとしたときに、代わるがわる出てきてくれるのです。それはもう面白いように様々なレパートリーを持っています。

つまり、許さない理由とは恐怖から自分を防衛し続けたいからなのです。潔く許してしまうと、自分を防衛できないと思い込んでいます。

ですから、どちらを選択するかといえば、考えるまでもなく結果は明らかなのです。かたや防衛して自分を安全に保つ、そしてもう一方は相手を許さず罪深いと断定すること。

この二つを天秤にかけるなんて、それこそナンセンスなわけです。だから生きてる理由は許すためだと理性でいくら分かったところで、許しの方を選択することが難しいと感じるのは当然なのですね。

何度繰り返しても許せないのは決して責められることではありません。私は許そうとする意欲さえあればいい、それだけでもいずれは必ず許しのエキスパートになれるはずです。

その時を楽しみにして、毎回許しの実践を心躍らせながら続けていこうと思います。

狂気の心

人は時として普通の常識では考えられないような言動をすることがあります。そういう人がもしも自分の近くにいるとしたら、それは最大級の癒しのチャンスなのです。

その人がある意味気違いじみた言動を取るときには、その人は自分にその人を祝福する機会を差し伸べてくれているのです。祝福とはただ愛を送ることを意味します。

私たちは大抵の場合、言葉と言葉で通じ合い、言葉を介して分かり合おうとしますね。でももっと深く分かり合おうとしたら、そこには言葉を必要としないだろうということを知っています。

相手が言葉を理解しない動物だったとしても、互いに心が通い合うことによって本当の意味での意志の疎通ができるものですね。

その人が必要とするものというのは、自分にとっても必要なものなのです。自分がその人に対して差し出せる祝福を自分自身が必要としているということです。

自分がその祝福を得る方法は、祝福を相手に与えることをおいて他にはありません。これこそが愛の法則であって、それに例外は無いのです。

自分が何かを否定してしまうと、自分自身それを欠くことになるのです。それは、その何かが不足しているからではなくて、だれか他の人のなかにあるのを否定してしまったために、自分自身のなかにあるのに気づくことができなくなってしまうのです。

自分が相手にどう応ずるかはことごとく、自分を何であると思うかによって決定されるし、自分がなりたいと思うもの、まさにそれが自分だと思い込むのです。

ということは、自分がなりたいと思うこと、それがその都度自分がどう応じるかを決定するに違いないのです。

味方という存在

みなさんには何人くらいの味方と言える人たちがいるでしょうか?味方というのは敵の反対ですが、だからといって、敵じゃない人は味方かというとそうでもありませんね。言ってみれば自分のことを理解してくれる人ということかもしれません。

たとえば、子供のころに友達とけんかして悔しい思いをしたときに、親がその気持ちを分かって、自分をかばってくれたら味方だと実感するはずです。

自分のことを親身になって心配してくれて、大切だと思ってくれるからこその助言をしてくれる人も味方と言えると思います。

しかし、実際には相手がどんなに自分のことを深く愛してくれてるとしても、相手が自分の気持ちを少しも理解してくれてないと思えば、もう味方とは思えなくなってしまうのも事実です。

つまり、相手が自分の味方かどうかというのは、相手が自分のことをどう思っているかということには関わらず、自分が決める主観的なものだということが分かります。

ですから、自分が誰からも受け入れてはもらえないと思ってしまったとしたら、その人にとっては決して味方と思える人は現れないことになってしまいます。

味方が一人もいないという心の状態とはどんなものかと想像すれば、それは一口にいってただ孤独であるということになってしまいます。

味方が誰もいないと思っている人は、もしかしたら本当の意味で味方がどんなものなのか実感を持ってないかもしれません。

それは何らかの理由により、自分の方から人を拒絶してしまった結果であるからです。自分には味方がいないと思うのは、実は自分こそ自分自身の味方ではないという思いが心の奥にあるからなのです。

それは自分に対する拒絶感、罪悪感によるものです。自分が自分を認めることができたら、必ず周りに一人や二人は自分の味方だなと思える人が現れるはずです。

本当の味方は人数の問題ではありません。たとえ一人でも真の味方だと思える人がいれば、心は安らかでいられるし、それでその人は孤独から解放されて心は救われるのです。

あなたの味方は誰でしょうか?一度じっくりと思いを巡らして見ることをお勧めします。