赦しについて その3

赦すとは、無防備になることであり、赦さないとは傷を負ったと思っている心を防衛し続けたいということだという説明を昨日のブログでしました。

今まで生きてきた中で、これは絶対に赦せないとか、もうあれはどうでもいいや、と思えることなど、いろいろあると思います。自分の場合には、幸運にもあの時のあの人の言動は赦せないというものが記憶の限りではないのです。

それじゃあ、完全に赦しが終わってしまっているのかと言えばそうでもありません。例えば、ほんの些細なことでイラっときたり、相手に何か言ってやりたい気持ちになることは時々あります。

こういうのも、実はその瞬間相手を赦してはいないのではないかと思っています。ただ、多くの場合、赦す赦さないと言った場合にそのターゲットとなる事象は過去に起きたことですね。

過去のことを思い出して、ふざけるな!と攻撃的な気持ちがよみがえってきたりするわけです。どうして、あの時にもっとこんなふうに言い返すことができなかったのか、自分を悔やんだりするのですね。

つまり、赦せないよ、として生きている人は、過去に生きているということを理解する必要があるのです。過去に捉われている、過去をひっぱってる、と言ってもいいかもしれません。これが、防衛したがっているエゴの作戦なのです。

現在自分を守らねばならないような事態がさほどないとき、エゴは守るためのネタを過去に探しにいくのです。いつまでも、いやなことが頭から離れないという経験をしたことはないですか?これはまさにこのことが起きているのです。

あなたは赦せない、赦したくないと思っている過去の事象がどのくらいありますか?沢山あればあるほど、エゴの策略に乗せられてしまってるということが言えますね。それは過去の内容がどんなことであっても例外ではありません。

過去から逃げてるうちは、過去に生きているのと全く同じことです。過去を意識してしまってるわけですから。一旦過去を振り返り、逃げずに真正面から見つめることができたら、後はもう切り捨てましょう。過去などないとして。

つまり、赦すということは過去を手放すということです。エゴの自分は過去が大好きですから、それに対抗するために、まず赦したい気持ちを満々にしましょう。これは決意するだけで可能です。そして、赦したい気持ちになったら、あとはそれを自分の心の中の愛の部分に差し出せばいいのです。

赦しについて その2

昨日のブログでは、結局赦すことによって、自分の心が開放されて穏やかな状態になることができるということを説明しました。赦すことは幸せへのパスポートだということでした。

ただし、赦しと一口に言っても注意しないといけないことがあるので、それについて説明してみたいと思います。

一般的に赦しと言った場合、それはエゴの赦しのことを意味しているのです。それはどういうことかというと、相手には確かに罪があるということを認めておいて、従って罰を受けるに値するのだけれど、その上で自分の寛大な心で赦すというものです。

実はこれは防衛の一種なのです。寛大な心で罪を赦すことで自分の価値を高めようとするエゴの作戦なのです。こういう防衛は自覚としては、本当に赦したということになってしまうため、非常に面倒なことになってしまいます。

真の赦しであれば、もう何のわだかまりも残っていないのですが、エゴの赦しの場合には、防衛することが目的であるため、何かの理由でそのことが防衛の意味をなさなくなった場合に、やっぱり赦すわけにはいかないというのが浮上するのです。

もっとひどいエゴの赦しもあります。例えば、取引の代償として赦すということをする場合です。損害賠償を請求して、それを取得したことによって赦すなどですね。こういった赦しは絶対に幸せへのパスポートにはなりません。やはりエゴの防衛であるだけです。

実はエゴというのは、怖れや怒りなどの感情をベースにして自分を守ろうとする意識のかたまりですので、そこには愛がないのです。ですから、実質的にはエゴは真に赦すということができないのです。騙されてはいけません。

このことを充分に理解しておく必要があります。エゴは自分をヒーローのままでいさせるために、つまり防衛をし続けることで自分を存続させようとする、まさにそのためだけに相手に罪深いと思えるようなことを投影としてさせるのです。

ですから、エゴは決して赦すことはしません。本当に赦してしまったら、もう防衛する必要がなくなってしまうからです。赦さないという状態を維持することによって、傷つけられたとする自分を守ることができるのですから。

本当の赦しは、そこに愛が必ず関わっています。相手の言動には元々罪などないとして赦すということです。罪があるように思えるようなことでも、それは結局自分の心の奥にある抑圧されたものを投影したものだということです。

そのことを思い出すことによって、エゴが撤退して愛が残ることになり、自然と赦しが行われることになるのです。

赦しについて

昨日の続きです。イエス様の言葉である、「弟を赦してあげなさい」と言った場合のこの赦すとは、本当はどんな意味があるのでしょうか?そこのところを少し考えていきたいと思います。

怒りが消えて、お父さんのように弟が戻ってきたことをただただ喜ぶ状態になったら、それはもう赦していると言えると思います。しかし、そうはできない心の反応が兄の内面に出現したということです。その理由も昨日説明しました。

もしも兄が弟を赦すとすると、兄の心の中で抑圧されていた、我慢していい息子を演じてきた自分というものを守ることができなくなってしまうのです。つまり、赦さないとは、自分の中にある鬱憤を守るための心の作戦だったわけです。

結局、赦さないというのは一つの防衛の形であるわけです。なぜなら、赦さないという心には必ず相手への怒りがあり、怒りは典型的な自己防衛の一つの形だからです。抑圧による自分の心の傷、痛みを守るために、相手を罪深いとして罰しようととするのです。

これが赦さないという心の状態であると言えると思います。ここで、断じて赦しがたいという状況をちょっとイメージしてみましょう。例えば、暴漢に家族が襲われて命を落としたとしたら、どうでしょうか?少なくともその犯人に死んでお詫びをしてもらわないと赦す気にはならないかも知れません。

その場合、犯人にどんなに反省した態度を示してもらっても、そう簡単に気が収まるはずもありませんね。それは、自分の心の傷が深いうちはそれを守らねばならないと感じるためです。だから赦せないし、赦す気にもならないのです。

結局相手の態度がどうであれ、自分の傷を負った内面を守らねばならないと感じてる限りにおいては、赦すことはできないのです。もし、赦すとしたら、自分の傷が癒えるか、自分のことを被害者ではないと理解することができた時です。

傷が癒えるのを待っていたらいつになるか分かりません。その時までずっと相手を憎んで絶対赦すもんかという人生を送らねばならないのです。これは客観的にみて地獄の生活かもしれません。

しかし、自分を被害者ではないと理解することで、大切な人を失った痛手は残っていたとしても、犯人を赦すことができるのです。自分が被害者でなければ、相手は加害者ではなくなるからですね。

どうやったら自分は被害者ではないと思えるか?それは何度もこのブログで説明してきた投影のメカニズムを思い出すのです。理由はともかくとして、潜在意識の中の何かを投影した結果として、上記したような事件が起こったと認めることです。

こうすることで、傷ついたことを犯人のせいにすることができなくなり、結局犯人には罪がないと認めることになって、相手を赦す心の状態になることができるのです。それが、心の平安を得ることに繋がるのです。

放蕩息子の例で言えば、兄が自分の抑圧した心を投影した結果として、弟の自由奔放さを発生させたのだと兄本人が理解することができれば、弟には罪はないと分かるのです。かえって、自分の本心を見つけさせてくれたとして弟に感謝したくなるかもしれません。

そして、父親と同じように勝手ばかりしてきた弟を赦すことができたら、兄の心はとても晴れやかなものに変わることでしょうね。だから、赦しは幸せへのパスポートだと言ってもいいのです。

放蕩(ほうとう)息子

以前、「自分を映す魔法の鏡」というコラムを書いたことがありました。この内容は簡単に言ってしまえば、ブログでも書いた投影について少し回りくどい表現を使って説明したものでした。そのコラムの中で、聖書に出てくる「放蕩(ほうとう)息子」という物語を引用したのですが、今日はそのことについて更にその先の話をしようと思います。

そのコラムを読んで下さった聖書に詳しいクライアントさんに、その話の中身が若干違うよと言って笑われたことがあるのですが、それはともかくとして、大切なのはそのエピソードから何を学ぶかということですね。

その物語は父と兄と弟の3人家族のお話なのですが、兄は父親の仕事をよく手伝って悪い遊びもせずに、一生懸命親孝行する評判の息子なのですが、一方弟の方はあまり親の手伝いをするでもなく、ある日とうとう勝手に家を飛び出して出て行ってしまいました。

何年かの月日が流れた後、ある日弟が家に帰ってきたときに、父親は自分の息子が無事帰ってきてくれたことを喜んで、弟を迎え入れようとしたのですが、兄は身勝手に家を飛び出していった弟に腹を立てていて、家に入れようとさえしませんでした。

それを知ったイエス様が兄に向かって、「お父さんのように弟さんを赦してあげなさい」と言って聞かせたという教えなのです。

兄にとっての弟の存在というのは、兄の心の中に抑圧されている「本当は父の手伝いばかりやるのではなくて、自由に遊びたいんだ」という気持ちの投影だったわけです。
その本心を抑えていい息子を演じているために、自由奔放な弟を赦すことができなかったわけです。

私のセッションにその兄がクライアントさんとしていらしたとしたら、上で書いたような本心があることに気づいてもらうように仕向けるでしょうね。赦せなかったという反応を否定することはしません。人の反応には全部理由があるからです。

我慢している本音があることが分かったら、その抑圧を解いてあげて、父親にとってのいい息子という立場をなるべく手放して、自分を楽しませてあげることを覚えることですと伝えるでしょうね。

多分、その時のセッションはそういった内容にいくつか肉付けをして終わると思います。そして、セッションによってその兄はかなり気持ちが楽にはなるはずです。自分はそんなにいい息子でばかりいなくたっていいんだということが分かるからです。そして、好きな事を父に気兼ねせずにできるようになることで、毎日が楽しい方向へと向かうでしょう。

しかし、セッションで学んだことを活用して、やりたい事を楽しむことができるようになったとしても、兄の人生がそれで本当に幸せになるかというとそうでもありません。心の中に抑圧していることは他にも沢山あるはずだからです。

勿論時間と労力をかけて丹念に少しずつ、沢山ある抑圧を見つけては解放していく作業を続けていって徐々に幸せに近づいていくことは可能です。ただ、この方法はエンドレスになる可能性があります。心の中にある闇の部分は感情も含めてきりがないからです。

イエス様が「弟を赦してあげなさい」と言ったのは、このことを知ってのことなのかどうか、分かりませんが、心の抑圧に目を向けるだけではなく、この赦していくということに着目することで癒しのスピードアップが期待できるとしたらやらない手はないですよね。

つづく

数の役目 その2

昨日は、数えられないものにこそ、真の価値があるというお話をしました。今日はその数えられないものについて、もう少し深く見てみることにします。

数を使って数えることができないということは、数の概念を超越していると考えることもできますね。例えば、全体とか全て、と言う概念はその一つであるといえます。全ての自然数といった場合、1,2,3…と無限に続く自然数の集合を指すわけです。

無限個の自然数を数えることは不可能ですから、これは確実に数の概念を超越していると言えます。これに対して、間違いやすいものとして、唯一とか唯一無二と言う表現があります。この場合には、二つ目がないよと強調しているだけで、一つと数えることができますので、これは数を超越してるとは言えません。

そういう意味からすると、世の中にたった一つしかないから価値があるという言い方は真実ではないということになりますね。どんなに希少であろうとも、数えられるのですから、真に価値があるということにはなりません。

しかし、現実の私たちは、この希少価値というものに翻弄されていることに気づいています。例えば一番というものにも価値があると感じていますし、あなたはこの世の中にたった一人しかいないのだから、価値があるのですと言ってみたりしています。

こういったことも数のトリックに騙されているということになりますね。逆に数が多いことに価値を置く場合もあります。ある物事を選択する際に、多数決というのをよく使いますね。これなどはその典型的な例ではないでしょうか?これも数えられるわけですから、真の価値はありません。

話を全体とか全てに戻します。この世のすべて、一切合財と言った場合には、ありとあらゆるものが含まれます。含まれないものは一つもないというのが、全体という意味です。この概念を私たちが知っている言葉で置き換えるとすると、それは神ということになるのではないかと思います。

神という言葉の響きは、なかなか微妙なものがあります。私自身、何となく宗教的な色合いを持った言葉のように感じていますので、普段あまり使わない単語かもしれません。それを承知で敢えて使いますが、神は全体なので、数えるというレベルを完全に超越しています。

命とか愛といった想念も数える対象ではありませんので、神と同様に真に価値のあるものだと言えると思います。私たちの意識を向ける対象を、できるだけ数えられるものから、数えられないものに変えていくことができたら、人生が全く変わったものになっていくのではないでしょうか。

そうやって数がその役目を終える時、私たちは本当の幸せというものを手に入れることができるのかもしれません。

数の役目

相当に大昔から、人は数というのを使って生活していたのでしょうね。数があるおかげで、今の文明が発達したわけですから、数というのはとても大切なものと言ってもいいでしょう。

数がなければ、人類は月に行くこともできなかったし、クルマも飛行機もコンピューターも作れませんでした。数という概念を見出したおかげで、人類は他の動物と一線を画す生き物になれたのだと思います。

私たちは数を使って比較する癖が付いてしまっています。大小、高低、早い遅い、重い軽い、寒暖、長短、明暗、濃淡、厚い薄い、深い浅い、太い細い、多い少ない、こういった比較は、数がなければアバウトな表現しかできませんが、数があるおかげで明確に表現できるわけですね。

しかし、数は人類を幸せにすることはできたでしょうか?明確に比較することで私たちはかえって苦悩することを覚えてしまいました。あの人より、私の方がウエストが1cm太いとか、友達は90点だったのに、私は85点だったとか。本質的にはどうでもいいような差異が、数で表現されるとはっきりするために、そこに大きな意味を見出してしまうのです。

以前、こういう質問をされたことがあります。

「線路を電車が暴走していて止めることができない。もう少し先に行くと線路が二股に分かれていて、一方の線路上に一人、もう一方の線路上に五人、人が縛り付けられている。今のポイントの状態では、放っておくと五人の方に電車が行ってしまう。あなただけがポイントを切り替えることができるとしたら、どうしますか?」

つまり、五人が死ぬことになるのか、一人が死ぬことになるのか、自分の判断で決めることができるという状態なわけです。電車が二股を通過する前にポイントを切り替えれば、五人の命を救えるが、一人の命を犠牲にすることになるわけです。

この質問をされて、何の躊躇もなく答えを出せる人は少ないのではないでしょうか?きっとどうしていいか困ってしまうわけです。全くいじわるな質問だと思います。しかし、もし、百人と一人だったらどうでしょうか?千人と一人だったら?

そうすると、きっと一人を犠牲にするほうを選びやすくなると思います。しかし、それはなぜなんでしょうか?ここに数のトリックがあるのです。本来、私たちは人一人の命は地球より重いと知っています。真に価値のあるものは、それを足し算していくことなどできないと分かっているのです。

でも普段私たちは人数を数えることができるので、その論理でもって命の価値も足し算ができると勘違いしてしまうのです。だから、一人の命よりも、5人、百人、千人の命のほうが大切だと錯覚を起こしてしまうのです。

いやな話ですが、実際に一人を殺した殺人者よりも、五人を殺した殺人者の方が罪が重いのですから、国をあげて命の足し算ができると勘違いしてしまっているとも言えるのです。

数では表現できないものがあるのだということを忘れないことです。そして、本当に価値のあるものほど、数では表せないということを覚えておく必要があると思います。だから、そういったものは比較することすら意味を成さないのですね。

真に価値のあるもの、本当に大切なもの、そういったものは数を使って数えたり、足したり引いたりすることは不可能だということです。だとすると、普段我々が数を使って表現できるものは、すべて本質的には価値のない無意味なものだと気づく必要があると思いませんか?

無防備になる その3

無防備になるということが、どれだけ人生を幸せなものにするのに大切な事なのか昨日のブログで分かっていただけたかと思います。今日は、もう一つ、無防備になることの代表的なものである、「言い分を手放す」についてお話させていただきます。

言い分というのは、程度の差を考慮しなければ、文句、愚痴、言い訳、などと同じものなのです。それでは、言うべきことをきちっと言うという場合、それは言い分になるのかどうか、ここを考える必要があります。

簡単に言ってしまうと、言うべきことをきちっと言う場合に、防衛しようとする気持ちの部分が含まれているかどうかで、それが言い分になるかならないかが決まります。例えば、先生に答えを要求された時に、自分が分かっている答えをしっかり発言するのは言い分ではないはずです。

一方、答えが間違っていた時に、さっきの説明を聞いていたら分かるはずなのに、と先生に叱れたとき、説明が分かり辛かったので、と言ったとしたらこれは言い分になりますね。これは言っても言わなくても、自分が答えを間違ったという事実は変わらないからです。ここには防衛の匂いがすると思います。

この5月から日本でも裁判員制度が始まりますね。法廷で無防備な人を見ることはなかなか難しいのでしょうね。なぜなら、裁判というのは、国が定めた規則にのっとって、互いの言い分を言い合う場であるからです。

ここで無防備になって、言い分を言わないということは、被告で言えば、自分を弁護する言葉をいっさい言わずにおくということですから、相当に無理がありますね。また、原告で言えば、言い分を言わないということは、訴えを退けるということになってしまいます。

もしも、被告として自分がしたことをすべて認めているという場合には、無防備になって判決を待つという人も中にはいるかもしれません。そのような場合には、誰よりもその人の心は平安に保たれているはずです。

最後に、無防備な人は攻撃などしないですよね。攻撃してしまったら、無防備が云々というレベルではなくなってしまいます。だから、どんな理由があるにせよ、攻撃を正当化することは絶対にできないということです。

無防備でいられる人は、相手を攻撃しないし、否定もしない。何の言い分も持たず、裁くこともしないし、結果として相手に攻撃させないので相手を加害者にすることもありません。 いつもお伝えしている、本当の幸せである永続的な心の平安は無防備でいることに違いないのではないかと思います。

無防備になる その2

他にも無防備になる方法はいくらでもあります。例えば、自分が苦手なことを逃げずにやるなどです。あがり症で人前で話しをするのが怖いという人は、人前で失敗を怖れていて極度の緊張をしてしまうため、余計にうまく話しができなくなってしまうのです。

この失敗を怖れるというのは、自分への評価が下がることを怖れているのであって、つまり自分を防衛しようとしているということです。無防備になるとは、失敗してもいいやと腹を据えるということです。

そうすると、結果として緊張が解けて失敗することが減ってくることになり、平常心で人前でお話しができるように少しずつなっていくのです。

出来る限り無防備になって生きることのメリットは計り知れません。無防備でいられる人はカリカリせずに穏やかな心でいられます。無防備でいられる人は、不安な気持ちの虜になったりせずに、この瞬間をただ楽しむことができます。

無防備でいられる人は、未来のことを思い憂うことをしません。自分の心を予期不安から離していることができるからです。結果として、リスク回避に今日生きるエネルギーを費やすことをしなくなります。

無防備でいられる人は、攻撃されることがなくなってきます。攻撃されないと分かれば誰だって無防備になれるよと思いますよね。つまり、攻撃されないという原因に対して、無防備になるという結果がついてくると通常考えているのです。

しかし、これが実は逆なのです。無防備でいるという原因に対して、攻撃を受けないという結果がついてくるのです。なぜそんなことが言えるのか、説明をしたいと思います。

説明するに当たって、二つの言葉を使います。一つは、エゴ、もう一つは投影です。
エゴというのは、日本語では自我のことです。でも自我というと、我々が教育を受けてきた先入観が入りやすくなってしまうので、エゴという言葉の方を用いることにします。

エゴは自分を守る役目をしている心の部分です。幼少の頃に、心の成長と共に自分の身は自分で守ろうという小さな意識が芽生えます。これがエゴの誕生だと思えばいいです。生まれたばかりのエゴはまだ充分には自分を守ることはできませんが、心の成長に伴って、エゴの部分も大人になっていきます。

その結果、精神的な自立によって一国一城の主にまで成長していくわけです。それを支えてくれるのがエゴですね。エゴは頼もしい味方と思えるかもしれません。立派な自分を作っていくためには欠かせないものですから。

自分を守るために生まれたエゴは、成長するに従い、エゴの防衛システムなるものを構築していくのです。相手に責められてもナニクソと反撃したり、逆に相手をぎゃふんと言わせるだけの力を身につけたり、こうしたものは全部エゴの防衛システムのおかげなのです。

しかし、エゴの立場になって考えてみると、自分を守るのが目的で生きているわけですから、もしも守る必要がなくなってしまったら、自分の存在理由が消滅してしまうのです。これは、かなり困った事態だと類推できませんか?

その時エゴはどうすると思いますか?投影を使うのです。エゴは自分の身を守らねばならないような現実を投影として作り出すという作戦をとるのです。つまり、防衛し続けるために攻撃を受けるという事態を引き起こすのです。

だから、無防備になる、つまりエゴの防衛システムを使わないようにしてしまえば、エゴも投影することができなくなり、攻撃されるという事態がなくなっていくというわけです。エゴのやってきたことは、ウルトラマンを活躍させ続けるために、裏で手を回して毎週怖そうな怪獣を送りこませているようなことなのです。

ウルトラマンのあの英雄的姿も、怪獣が一匹もいなくなってしまったら、もう見ることもできなくなってしまうのです。こういうのを本末転倒というのですね。だから、攻撃されたくないのであれば、無防備を心がけることです。

無防備になる

昨年あたりから、自分の一つのテーマとして、この無防備になるというのがあります。平たく言えば、自分を守らない、自分をなるべく守ろうとしない、ということです。これはまさしく、幸せになるための絶対条件と言ってもいいものです。

人は自立して、一国一城の主として、日々頑張っているわけですが、無防備になるということは、このお城を守ることをやめよう!ということなのです。せっかく建てた立派なお城を誰かに明け渡してしまおうということです。

そう言われても、なかなか納得できないことだと感じるのは当然かもしれません。なぜ、無防備がそれほど大切なことなのか、少しじっくり説明して行こうと思います。

セッションの時に、よく出てくる話として、いい人でいることを止めて下さい、というのがあります。それは、いい人を演じているので、その演技を止めて下さいという意味なのです。簡単に言ってしまえば、いい人の仮面をかぶっているのを脱ぎ捨てて下さいということです。

いい人としての仮面、あるいは鎧は他人からの評価をなるべく良くするための作戦ですね。つまり、悪い評価をされないための防衛策であるわけです。そういう意味で、いい人を止めるということは、防衛しない、つまり無防備になるということを意味します。

心の中で本音はこうなんだけど、防衛のためにいい人でいようとすると、本音とは違う言動をしなければならなくなったりするわけです。これが、その人の心を蝕んでいくのです。繰り返せばそれだけ、自己犠牲を蓄積していってしまうことになります。

具体的には、いつも必要以上にニコニコしていたり、「ノー」と断ることがなかなかできなくて、結局イエスマンになってしまうといったことですね。このいい人でいることによって防衛しようとする作戦は、実に様々な弊害をもたらすことになります。

すぐに想像がつくのは、人間関係が億劫になってしまうでしょうね。本音で語り合えないわけですから。寂しいから人といたいんだけど、ずっと一緒だとすごく疲れてしまうなどはこれが理由かもしれません。

大好きな彼とデートは楽しいのだけれど、どういうわけか、帰宅するとぐったりしてしまうということを経験している人は意外と多いものです。特に、付き合いだした頃というのは、自分のいい部分ばかりを見せようと防衛してしまうため、疲れてしまうのです。

セラピーのとき、人を優先するのではなくて、自分の気持ちをしっかり見つめて、それを無視せずに自己表現して下さい、と多くのクライアントさんに訴えてきました。時として、それって、単なる自己中心なワガママな奴になってしまうような気がするんですけど、といわれます。

しかし、自己中な生き方なのではなくて、自分の本音を隠さないで率直に表現することでできるだけ、無防備になって下さいという意味だったのです。自己中心とは、自分の考えを無理に押し付けて相手を否定することであって、それは無防備になることではなく、その逆の防衛することになるのです。

つづく

使うと増えるもの

我々が暮らしているこの物質世界においては、使えば使っただけ減るというのが常識となっています。バッテリーにしても、トイレットペーパーにしても、ガソリン、シャーペンの芯、消しゴム、何でもそうです。

使っても使っても一見減りそうにないものでも、長い間には少しずつ減少していくものです。私が今叩いているキーボードだって、何年もの間私の指で押され続けているのに変化してないように見えますが、よく見ると若干表面が摺れて減ってきているのが分かります。

しかし、使ったら使っただけ増えていくものがあるのです。それは勿論今挙げたような物質ではありません。それは一体どんなものだと思いますか?しばし、自分の胸の中で想像してみて下さい。

トンチ問題のようにも思えますが、実は心に関連したもの、気持ちとか思いとか、思考など、そういったものは使うほどに増えるものなのです。例えば、ある事柄を心配し出したら、それが益々心の中で広がっていって、その心配が胸いっぱいに膨れてしまったという経験はないですか?

これは、心配するという心のモードを繰り返し使うことで、その心配が何倍にも増えていってしまうということを意味しています。私たちは人生の中で、エゴを使いたいだけ使って生きてきてしまったおかげで、馬鹿でかい立派なエゴが作り上げられてしまいました。まさにマイナスのスパイラルですね。

逆にプラスのスパイラルがあってもいいですよね。それがあるんです。愛を育むという言葉がありますね。あれは、愛を繰り返し使うことによって、自分の中の愛が増えて大きくなっていくということを指しているのです。であれば、愛を使わない手はないでしょう。

自分の心の中を愛で満たすことができたら、どんなにすばらしいことでしょう。そのやり方はたった一つしかありません。愛を使うことを続けていくことです。愛を使うとは愛を与えると言い換えてもいいです。もしくは、もっとシンプルに愛するということです。

愛するターゲットは何でも構いません。パートナーでも家族でも、友人でも、動植物でも、この地球でも、ただ愛を与えることさえ続ければいいのです。ただしエゴを使いすぎて、それが増殖してしまっていると、愛を使うのが難しく感じるかもしれませんね。でもめげずに、身近なところから愛を使っていきましょう。