すべては自分自身

もうかれこれ30年も前になるでしょうか。その頃読んだある本の中に、次のようなことが書いてあったことを覚えています。それは、

 『完全に遮音された防音室の中で、オーディオ装置から大音響でベートーベンの第五交響曲「運命」が流れているとします。あなたはその部屋の中で、一人その曲を聴いて悦に入っています。その後、音楽はそのままにしてあなたはその部屋の外に出てドアを完全に閉めてしまいます。音は完全に遮断されて、部屋からは全く漏れてきません。当たり前ですが、もうあなたには今まで聞こえていたあの音楽を聴くことはできません。さて、この状態で、部屋の中ではまだあの壮厳なベートーベンの曲が鳴り響いているでしょうか?』

 というものでした。自分がその部屋の中にいようがいまいが、スピーカーから音が出ている限り、ベートーベンの第五は鳴り響いていると思ってしまうのが普通かもしれません。しかし、事実はそうではないのです。はっきりと断言できますが、部屋の中にはあなたがいない限り、ベートーベンの曲は存在しないのです。なぜでしょうか?

 確かにスピーカーが振動し、それによって部屋の中の空気も振動しつづけていますが、それはただそれだけのことなのです。あなたの鼓膜がその部屋の空気によって更に振動し、その信号が音として検知されない限り、部屋の中には空気の振動が起きているに過ぎないということです。つまり、あなたの感覚を通して創造されたあなた自身の反応の中にだけしか、あの壮大な第五交響曲は存在しないのです。

 もっと単純なことで考えてみましょう。仮にあなたの目の前に一つコップがあるとします。あなたはそのコップを見た瞬間にその形や色合いを気に入ったかもしれません。以前から欲しいなと思っていたティーカップに似ているかもしれません。ここでもやはり、あなたという存在がそのコップを認識しない限り、その素敵なコップは存在しないのです。そこにコップが存在するという事実と、あなたがそのコップを認識していいなと感じることとは全く別のことなのです。コップへの価値はあなたの反応として創造されたものなのです。

もっと厳密に言えば、目の前に何かの物体があるという事実とあなたがそれをコップだと単に認識することにも違いがあります。あなたは生まれてから今までの経験の蓄積のもとにその物体をコップだと認識しているのです。以前、あるテレビのドキュメンタリー番組で、交通事故によって脳の一部を損傷してしまった患者さんの物に対する認識についての実験がありました。その人は、目の前にあるコップをいくら見つめても、それが何かということを認識できないでいました。実際に手に触れて、その形や感触を感じることからしかそれがコップであると認識できなくなってしまったというのです。つまり、その人は、過去の多くの視覚情報の蓄積からその物体をコップであると認識するための記憶やその記憶に関連した脳の一部を損傷したということです。

 このように、私達の外側で起きている物理的な現象、あるいは単純に物体が存在するという事実と、私達自身の中で創造している反応とは、はっきりと別のものなのです。しかし、私達は普段その両者を一つのものとして捉えて生活しているのではないでしょうか?そこに、大きな落とし穴があると思います。

 自分の外側の対象物が人間である場合でも同じなのです。例えば、あなたの会社の同僚や上司、あるいは学校の友達に、あなたに対する悪口を言われたとします。あなたは、その人について苦々しい思いをするかもしれないし、悲しい気持ちになるかもしれません。ひどい事を言われたと怒りの感情が湧き起こるかもしれないし、寂しい思いにうちのめされるかもしれません。しかし、ここでもやはりひどい事を言われたという客観的な事実はないのです。

 ここでは二つのことに気づく必要があります。一つは、今まで見てきたように全てはあなたの中で起きた反応であるということです。悪意に満ちた言葉や、その言葉によってあなたが傷ついたと感じることは全てがあなたの心の中で創造した反応に過ぎません。相手のどんな言葉でも、あなたがそれを言葉として認識したということは、それはその瞬間にあなたが作り出した反応なのです。このことにはっきりと気がついていれば、実はもう一つのことに気づく必要はありません。

 しかし敢えてもう一つのことについてお話しすると、あなたに対して悪口を言った相手の言動もその人が作り出した反応でしかなく、あなた自身とは全く別のものであるということです。あなたという存在は、ただあなたとして存在しているだけなのです。あなたについてのすべての言葉は、その言葉を発したその人の反応でしかなく、それはその人の中にしか存在しないものです。

 このように考えてくると、あなたが感じるすべてのことはあなた自身が創造した反応であるということです。すべては自分自身が作り出したものだったということです。すべてはあなたがどういう反応を起こすかということにかかっているということです。あなたの外側にはいいことも悪いことも何もないということです。あなたが誰かに対してネガティブな感情を持っているとしたら、それはあなたが作り出したあなた自身の反応そのものでしかないということです。

 このことはよく考えてみると、とてもすばらしいことであると気がつきます。なぜなら、あなたが仮にどんなに辛い状態であろうとも、それはあなた自身が作り出している反応であるわけですから、その反応を止めてしまえばあなたはそこから抜け出すことができると言えるからです。そういう反応をしてしまう自分というのは、生まれてから今に至るまでに経験した膨大な記憶の蓄積がもとになっています。ある物体を見て、コップであると認識するメカニズムと全く同じです。では自分が幸せに生きていくために、そのネガティブな反応が邪魔だとしたら、どうしたらいいでしょうか?

 ここに一つの罠があります。それはネガティブな反応をどうにかしたいと感じるあなたそのものがあなたの中の反応そのものであると考えることができるからです。この罠から抜け出すために一つの例を出しましょう。誰でも一度やニ度は、我を忘れて何かに没頭したという経験を持っていると思います。その時のことを思い出してみてください。きっと時間の経過に対する感覚が普段とは違っていたでしょうし、苦しい事、辛い気持ちなどのネガティブな感情から開放されていたような感覚があったのではないでしょうか?あるいは、その時にはそういったことにも気がつかないでいたはずです。つまり、これが過去の蓄積である自分の反応から開放されるということに近いのです。さまざまな書物に書かれている、「今現在を生きる」とはまさにこういうことではないでしょうか?

 過去の蓄積の反応の中にのみいるのではなく、今この瞬間の中にいることができればあなたの心はいつも穏やかで静かでいられるはずです。すべては自分自身の過去からの反応であることに気づいて、そんな自分をもう一人の自分が静かに見つめていられるとき、ただあるがままの自分をゆっくり見つめている時、本当の癒しがやってくるような気がします。