自由に生きるにかぎる 

父親の実家が千葉県にあって、東京の我が家からそれほど遠いということもなかったので、ちょっと長いお休みがあると家族で遊びに行っていたのです。

田舎ということもあって、広大な敷地の中で自由に遊ぶのがことのほか楽しかったのを覚えています。

今ではとても考えられないような危ない遊びをたくさんしましたね。例えば、空気銃を実際に弾を込めて撃ってみたり。

空気銃と言っても、人に当たったら大怪我するようなものですから、小学生の自分が扱うには危険過ぎました。

また、その家には50ccのカブと言われる原付二輪バイクがあって、最初は敷地内を走って遊んでいたのですが。

そのうちには飽きてきて、公道を走ってそのカブで買い物に行ったりしていました。小学5、6年の頃ですよ。

大人がたくさん周りにいたのに、私の両親も含めて誰も本気では注意しないのがびっくりです。

あるいは、父親の母校の校庭でクルマの運転の練習をさせてもらったこともありました。これも小学生の頃です。

父親が助手席に乗って、細心の注意を払って補助してくれていたのは勿論ですが、今ではあり得ないですね。

こういうことを思い出してみると、うちの親というのは私を甘々に育ててくれたのかなと。

なので、私自身も自分の子供たちが小さい時に、一切の制限をしたことがありません。なんでもやっていいよと。

大抵のことは大目に見ていたと思います。人間の心というのは、抑圧されたものはいつか必ず仕返しにやってくるものです。

だから、いつどんな時だってあなたの好きなことを自由に思い切りやってみることをお勧めしますね。

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認識の嘘を暴く

横に一本直線を描いてみると、その線の上と下が分たれたような印象を受けるのです。

あるいは、縦に直線を引いてみると、今度はその線の右側と左側に領域が分割されたように感じるわけです。

また、円を一つ描いてみると、その円の内側と外側という具合に面がはっきりと分かれます。

けれども、こうした感覚というのは単なる感覚であって、実際にはそうしたことは起きてないのは明らかですね。

この感覚があるおかげで、私たちはあらゆるモノの形というものを認識できるのです。

逆にもしもこの感覚がなくなったとしたら、何を見ていいのか分からない状態になってしまうはずです。

この二元の世界、分離の世界で生きるためには、こうした特別な能力が必要となるのです。

ただし、それはただあるがままをそのままに認識することができないとも言えるわけです。

非二元の立場に立つとは、こうした認識の嘘を暴いていくことをやっているだけなのですね。

自分が消えれば世界も消える 

人生というのは、生まれた時からずっと何が起こるか分からないし、誰も何も保証してはくれないのです。

確実なことは全くなくて、明日がどうなるのかを知っている人は一人もいないというのも事実です。

そんな中で、たった一つだけ絶対的に確実なことがあるのです。それは、必ずいつかは死を迎えるということ。

つまり、生まれた瞬間から、1日また1日と死に向かって進んでいっているということです。

それなのに、これまでいつだって死が訪れたのは自分以外の誰かにだったので、自分はまだ死なないのだと。

けれども、この死ぬことを忘れて生きるということができるのは、若い頃だけなのかもしれません。

私のように、残り時間の方が圧倒的に少なくなったと感じるようになれば、いつだって死は身近なものとして感じるようになるのです。

まだやり残したことがあるとか、もっともっと何かを楽しみたい、などがないので、そういう意味では死に対して抵抗する気持ちは少ないのかなと。

それに最近では、自分が死を迎えたとしたら、同時にこの世界も消えていくだろうと思えるので、それも気持ちが穏やかでいられる助けになっていますね。

「何もない」が一番自然

この世界を一言で表現すると、「何かがある」という世界だということが言えると思うのですね。何もなければ、世界は成立しないので。

だから私たちは、常に何かがあることが当たり前だと思い込んでいる状態で、毎日を暮らしているわけです。

この「何かがある」というのは、分離がベースになっていることに気づいているでしょうか?

あれとこれ、こちらと向こう、物と空間、内側と外側、私と世界、自分と他人、これらは全て分離が前提になっています。

こうした分離が消滅したとすると、そこには何が残ると思いますか?実は全てが消えて無くなってしまうのです。

プラスの電荷とマイナスの電荷がくっついて、電荷が消滅してしまうことをイメージするとわかりやすいかもしれません。

つまり、分離のない世界というのは、その世界そのものが消滅するということです。そして、それが最もシンプルで自然なのです。

けれども、それは時空すら消滅してしまうので、虚空という感じではありません。逆に満ち満ちていると言ってもいいのかも。

無限の可能性という言い方でもいいと思いますが、それは言ってみれば空想の世界でもあるのですね。

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そんなわけないだろう!

非二元の探求をするようになってからだと思うのですが、たまにやってくる不思議な感覚があるのです。

それは、「そんなわけないだろう!」というものです。一体何に対してそんな感覚になるのかというと。

これがとても面白いのですが、例えば個人というものがいるなんて、そんなわけないだろう、となったり。

あるいは、空や大地があるなんて、そんなわけないだろう、という具合にごく当たり前のことをハナから否定することになるのです。

非二元の探求もへったくれもないだろう!という感じになるのです。当たり前のことをもっともらしい言葉を使って表現してるだけだと。

この感覚は、これ以上うまく説明することができないのですが、ただ長くこれが続くことはこれまではありませんでした。

しばらくすると、何か変な感じだったなあというふうにして、終わってしまうのです。

そしてはっきりと言えるのですが、もしもこの感覚が消えなくなったとしたら、探求はもう不可能になってしまうでしょうね。

自分の中で当たり前過ぎることを探求するなんて、できるはずがないと感じるからです。

それぞれのタイミングでやってくる

この二元の世界が、リアルな世界に感じてしまう人は、きっと物凄く頑張って逆境に耐えてきた人なのではないかなと。

というのも、人はぼんやりと外界で起きることをあるがままに見ているだけなら、その中に入り込む前にこの世界を疑ってかかるからです。

これって一体なんなのだろうか?この皆目理解できない毎日というのは、どこからやってくるのだろう?と考えるからです。

そうやって見るからこそ、直接的にその物語の中に入り込んで訳がわからなくなってしまうことから逃れることができるのです。

そうは言っても、大半の人は年齢が増すごとにこの壮大な物語の中へと巻き込まれていってしまうのです。

それもまた悪いことではありません。時期が来て、もうそろそろ限界だとなった時に、ようやくこの世界を疑うようになるのです。

それはひとりでに、それぞれのタイミングでやってくるのです。そして長かった苦労の連続がどこからやってくるかを知ることになるのです。

起きることには元々どんな問題もなかったんだと気づいて、安心しようとする策略から解放されることになるのですね。

疑問がなくなる時、平安がやってくる


誰でも気づいていることだと思いますが、私たちは何かを知らない状態でいるよりも知っている状態の方が安心できるのです。

初めての場所に行く時には、地図などで下調べをしてから行った方が安心できますが、これは何にでも言えることですね。

つまり、知りたいという気持ち、知っておきたいという願望は、単なる知識欲というよりは根っこに安心したいという気持ちがあるということです。

何か分からないことを一生懸命勉強して、それを理解することができた時には喜びさえ感じるものです。

その一方で、分からないままでいることは、とても不安だし落ち着かない心持ちに置かれてしまうのです。

分かった時、理解できた時にはそれを征服できたような気持ちにもなれるかもしれません。

だから、どうしても知りたい、分かりたい、ということを切望してしまうのも理解はできるのです。

そのために、人によっては質問魔になってしまったり、常に疑問を抱え込んでいる状態になるわけです。

そしてその疑問が解決した時には、とても爽快な気分にもなれるのですが、ここに大きな落とし穴があるのです。

なぜなら、疑問が解決したとしてもその気分の良さはほんの一瞬のことであり、またすぐに次の疑問が頭をもたげてくるからです。

こうした疑問は、知りたい、分かりたい、がなくならない限り永遠に続くことになるのです。

そしてより本質的な疑問には、答えというものがありません。なぜなら、疑問は思考の範疇であり、答えはその思考の中にはないからです。

これに気づいた時、人はふと疑問を解決しようとすることをやめることになるのです。

もっと正確に表現するなら、疑問を持った自分というものが薄くなっていくのです。そして疑問は消えていくことになるのですね。

その時にようやく、真の平安、自由の中へ入っていくことができるのです。

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逆さまつ毛に悩まされる

小学生の頃、朝学校へ行く前に左目がどうにも痛くて、母親に目医者さんに連れて行ってもらったことがあったのです。

その時に初めて、「逆さまつ毛」という言葉を知ったのです。左の目尻のまつ毛が折れ曲がって目の中に入り込んでいたのです。

その時にそのお医者さんに言われた言葉が今でも印象に残っています。まつ毛の毛根が普通の場所にないのだと。

要するに、まつ毛の奇形のようなものですね。手術して毛根を切除してしまうこともできますが、どうしますか?と。

子供の自分も母親もちょっとびっくりして、そんな提案はなかったかのようにして足早に戻ってきたのを覚えています。

その性悪まつ毛が、生えては抜き生えては抜きを繰り返しているために、産毛のように細くなっていったのですね。

その細くなってしまったまつ毛が、いまだに目の中に入ってしまうために、それを忘れて生活していると、時としてやはり目にダメージがくるのです。

先日もそれで目医者さんに言って、2本ほどそのまつ毛を抜いてもらったのです。毛根の位置の異常なんて、聞いたことないですよね?

探求によって、この肉眼でものを見ていないということが分かっても、何か異常があればやはり目医者さんのお世話になることは変わりないのですね。

本当は何も知らない

私たちは、成長するとともに知らないことを知るようになり、分からないことを理解できるようになっていくのです。

そこに価値があると誰もが思っているわけです。自我というのは、知らないことを悪だと思っている節があるくらいです。

分からないということは能力不足だとして、何とかして分かるようになる必要があると信じてしまっています。

この俗世の中では、知識もそれなりには活躍する道具になり得るかもしれませんが、例えば自分の本質を知りたいと思って知識を使うことはできないのです。

そこはどんな知識も邪魔になるし、思考によって理解できるようなものでもないのです。だから、どれほど勉強したところでかえって遠ざかるのです。

本当は何も知らない、ということをある程度は感じていたのですが、非二元の探究を通してそのことがより明確になったのです。

何かを知ろうとしたり、分かろうとすることを完全に諦めて、それは不可能なことだと知ることこそが唯一の理解なのかもしれないですね。

非二元を想像することはできない

「赤という色」があります。この赤という色というのは、概念です。実際にあるのは、「赤」という色です。

でもアカという呼び名は概念です。だから、実際にあるのはあのアカという感覚ですね。皆さんも知っているアレです。

アレだけがリアルに現れているのですが、それだけではどんな物語も生まれることができません。

そこで、その色をまとったモノの存在と、そのモノを見ている何かの存在の二つを想像するのです。

そうすると、そこにあっという間に物語が生まれ出てくるわけです。これが私たちが知っている二元の世界なのです。

二元の世界はとても上手に言葉によって表すことができるのですが、想像した二つをなかったものとして見ると、それは言葉では説明することができないのです。

それを無理やり説明しようとすると、非二元という呼び名がついて、ただ現れだけがあるという言い方になるのです。

それを言葉で説明できないということは、想像することもできないということは覚えておいた方がいいかもしれないですね。 

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