不可能に気づく

最近、分別しないこと、仕分けをしないように心がけるということを実践しつつあるのですが、そこで注意すべきことがあるなと。

それは、分別しないことと、分別することを善悪のように仕分けしていると気づく必要があるということです。

分別しない生き方を目指すのであれば、そうでない生き方を否定してしまうという仕分けが起きているのです。

このことを一般的なことに広げてみると、何らかの目的を持って生きることは、すでにその目的とそうでないものとを分別しているということです。

ところが、それなら無目的で生きるという方を選ぶのであれば、それが善として仕分けしてしまっているということです。

もう薄々分かったと思いますが、どんなことであれこうしようああしようと思った瞬間に、そこに仕分けが発生してしまうのです。

ここで気づけることは、分別をしようがしまいが、どちらにしてもそういう現れが起きているだけだということです。

何も選ばないということを実践するなら、何も選ばないことを選んでいるということになるのです。どこまで行っても、自分が選んでいるということ、分別するということは不可能だと気づく以外にはないのですね。

4つのことを実践する

最近、自分で心掛けていることがいくつかあるのですが、それは非二元に関連したこととか、それ以外でもあるのです。

例えば、全ては現象として現れている、それを体験と呼んでもいいし、単にコレと言ってもいいのです。淡々と現象に気づいているようにする。

あるいは、全ては全自動で起きている、ということに意識を向けておく。単なる現れなのですから、それをコントロールすることができないのは当然です。

そして、放っておくということ。グルグル思考や感情などに巻き込まれないように、身体を動かし頭は放っておくのです。

最後に、分別をやめるということ。思考は何から何までふたつに分けてしまうのです。そして、都合のいい方を求めて、都合の悪い方を排除しようとする。

これが、苦しみとなることを忘れずにいると言うことです。上記の四つの事柄は、それぞれが互いに関連していることですね。

これらを同時に忘れずにいるということは、至難の業かもしれませんが、負荷にならない程度に実践していけたらなと思っています。

自我はどう生まれるのか?

「自我がどう生まれるのか」は、哲学・仏教・神経科学・心理学で少しずつ説明が違うようですね。でも共通しているのは、

「固定した“自我”が最初からある」というより、経験を整理する過程で“自分”という感覚が形成される、という見方。

たとえば赤ちゃんは、生まれた直後には、自分、外界、他人、時間、物体、を大人ほど明確に分けていないと考えられています。

そこから、この感覚は自分の身体、この声は母親、この動きは自分がやった、これは昨日と同じ世界、という区別を学習していくのです。

脳は膨大な情報を整理しないと生きていけないので、「この経験群をひとつの主体にまとめよう」という統合モデルを作るわけです。

それが「私」という感覚の核になっていくということです。神経科学的には、記憶、身体感覚、視覚、言語、予測、社会的役割、などが統合されるのです。

そして「連続した自己物語」が生成されると考えられているのです。つまり自我は、「脳内に存在する単一の司令塔」というより、統合された物語に近いのです。

仏教や非二元では、ここからさらに踏み込んで、「私がいる」という感覚自体が、後付けの認識ではないかと探求するのです。

例えば、音が聞こえる、思考が起こる、感情が起こる、行動が起こる、その後で、私が聞いた、私が考えた、私が決めた、という説明が付与されているのではないか、という見方。

自我は「機能」としては存在する、しかし「独立した実体」としては見つからないという方向に進んでいくわけですね。

AIは手に追えなくなりつつある

毎日話題に上がらない日がなくなってきた最近のAIですが、今のところそのほとんどがLLMという手法によるモノです。

超巨大なデータベースを学ばせて、そこに大量のパラメータを用いるのですが、その数は数十億〜数兆規模になっているらしいです。

このように我々がイメージしているよりも、根っこの原理はシンプルなのですが、ここで空恐ろしいことが起きつつあるのです。

それは、AIに問題を解かせたときに、内部でどのような動きを経て回答を出したのかが、当事者である開発者にも把握できなくなって来ているということ。

しかも、近い将来にはAI自身がより強力なAIを開発するようになってくるはずなので、そうなったらもう人間はお手上げです。

地球上の誰もその内部の動きを把握することができなくなってしまうのです。これは大変なことですね。

そうなる前に、世界中の知恵を総動員してでも、安全対策を考えていかなければならないのです。これは、陳腐な国境を超えて人類が力を合わせる必要があるということですね。

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「以上!」で終わらせる

昨日のブログでは、分別というのはこの世界を二つに分断してしまうということについてお話ししました。

分断することで、片方は好ましくて、もう片方は受け入れ難い。そうなると、必ず人は好ましい方にのみ執着をするようになるのです。

そしてもう片方に対しては都合の悪いこととして拒絶しようとする。これが、苦しみの根源であるということです。

ただ、二つに分けることをやめればいいと分かったとしても、そう簡単なことではありません。なぜなら、思考は分断することでしか働かないからです。

思考の申し子である言葉もまったく同じなのです。それならどうすればいいのか?仕分けはどうしても起きるのです。

そこはとりあえず仕方のないこととして置いて、実際に問題となるのはその仕分けを土台として、思考によってそれを強化してしまうことなのです。

あの人に失礼なことを言われた、これは都合の悪い側へと分断されてしまいます。つまり嫌なことを言われていないとの分断を引き起こすわけです。

けれども、その後に自分が悪かったのか?とか、なぜその人はそういう態度を取ったのか?などの思考を展開していくのです。

このような後に続く思考が、分断を強烈なものへと変えていくので、それを「以上!」の一言で打ち切るようにする。

あのクルマに強引に割り込まれた、以上!これで、仕分けを断ち切ることができるのです。これはとても大事な練習になると思いますね。

「分別」をどう見るか?

皆さんは、「分別」という言葉を聞いてどのようなことをイメージするでしょうか?一般的には、物事の善悪、道理を見分ける力と見るはずです。

例えば、分別のある人=常識的で判断がしっかりしている人だし、逆に分別のない人=軽率で無思慮の人だと。

つまりは、分別とは冷静に判断する知性や常識のことを指すわけです。ところが、仏教的な意味では違ってくるのです。

仏教では「分別」はむしろ注意すべきものとして扱われるのです。それは、対象を分けて捉える心の働きなのだと。

例としては、善悪、良い悪い、好き嫌い、自分と他人。つまりこれは世界を切り分けて理解しようとする思考なんだと。

なぜそれが問題になるのかというと、本来一つの現実をバラバラに見てしまうことで、執着を生むことになるからです。

理想に近い自分は素晴らしくて、現在の自分はまだダメだとして、自分のあるがままを断罪してしまうのです。

これが苦しみの原因であることは明らかですね。非二元でも、思考による二元化する前の現れだけがあると気づいているので、分別はあり得ないのですね。

一つひとつ疑ってかかる

疑い深いよりも信じる力が強い人の方がいいに決まっているというのが、この世界の常識になっていますね。

でもそれって本当でしょうか?疑い深いというと、悪いイメージがあるのは知っていますが、もしも疑う力がなければそれで終わりです。

どんなことにも気づくことはできないはずです。疑うことで、真実なのか幻想なのかの判断ができるのですから。

自分の勝手な妄想なのか、それとも真実なのかは疑うことなくしては決して見抜くことができないのです。

だから私は、自分のことも外側の世界のことも徹底的に疑って、事実を突き止めようとしてきたわけです。

それがあったからこそ、少しずつではあったけれどようやく何が本当で何がでっち上げなのかに気づくことができたのです。

それはもう執念のようでもありますね。ただそこはとても楽しい世界なのですね。どんな苦痛もないのです。

だから続けて来れているし、今後もまだ真理への探求は続くのだろうなと思っています。いつかは疑う必要がなくなるのでしょうけれど。 

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放っておくとは、何もしないこと

私たち人間にとって、「何もしない」ということほど難しいことはありません。ところが、本当にはそのことに気づいていないのです。

特に多忙でいつも動き回っている人などは、何もしない時間が取れたらどれほどいいだろうと思っていたりします。

けれども、いざそんな暇な時間がやってきてしまったら、今度はこの時間をどう過ごそうかと思うようになるのです。

つまり、とにかく何かをしていなければいられないのが人間なのですね。それを別の言葉で表現するなら、何かを握りしめているということ。

より具体的に言うなら、いつも正しい考えをしなければいけないとか、感情は抑圧したほうがいいとか、義務と責任を果たすべき等々。

そうやって絶えず何らかの操作をしようとしてしまうのです。執着を手放しましょうというのも、手放すという行為をするのです。

それに対して、放っておくというのは文字通りそのままにしておく。脇に置いて、何もせずにおくということ。

もしもこれが本当にできるようになるなら、私たちはより自然体でいられるようになるのです。そして問題も自ずと消えていくことになるのですね。

時間の感覚をなくす訓練

かつて瞑想をしていた時のことですが、ごくたまに「同期が取れた」と感じることがあったのです。

それは、もっと分かりやすく表現すると、世界の変化あるいは全て(時間)の流れの一部として自分が存在しているという感覚です。

ということは、普段の生活の中では、自分はこの世界の流れとは独立した存在として生きていると感じているわけです。

それが、自分の独自性が消えて全体と一つに融合したような感覚になれたということなのかもしれません。

瞑想をしなくなって、そういった感覚にはならなくなってしまったのですが、瞑想をしなくてもそれに近い感覚になれる方法があるようです。

それは、身体をできる限り動かないように訓練するのです。そうすると、それまで感じていた時間の流れという錯覚が消えるのです。

そのことによって、自分だと思っていたものが、コレ(現れ)の一部として、その中に融合する感じになるのです。

でも一定の訓練が必要になることは間違いないでしょうね。

存在する、しないのどちらでもない

私たちの誰もが外の世界があると信じています。そしてその対極としての内の世界、つまりは内面(心)もあると信じています。

外側の世界がなくて、心だけがあるというのも変だろうし、内面がなくて外の世界だけがあるというのも変だと感じるわけです。

私がかつて目指していた覚醒するというのは、内面の主としての自我が崩壊して、外の世界だけになるというイメージだったと思います。

けれども、今はそんなアンバランスなことにはならないはずと感じるようになりました。また、その逆も然り。

外側の世界がなくて、内面(心)だけが存在するというのは、もっとあり得ないと感じます。そんなことは想像もできないのです。

そもそも、内側というのは外側があるという信じ込みから作られたモノだと理解できたので、そんなことには決してなりようがないのです。

つまり、一番納得できるのは、外と内が同時にない世界、つまりは非二元が最も自然なのですね。

普通の感覚では、自分が死んだ後もこの世界はそのままに残るものだと考えているのですが、そうではないはず。

私たちは、今でも生きているわけでも死んでいるわけでもないからです。存在するか存在しないかを越える必要があるのかもしれません。

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