コメントのあるある

このブログのコメントにしても、YouTube のコメントにしても、内容に興味がある人がそれを見にきて、自分の考えや思いを書く場としてあるわけです。

そもそも興味のないブログや動画を読んだり見たりすることは、ほとんどないはずなので、これは当然のことだろうなと。

分からないことなどを丁寧に質問してくる人とかは、好感が持てますし、なんとかしていい回答ができたらなと思ったりもします。

そんな中、非常に批判的な内容だったり、否定するようなコメントを書く人は、そのブログや動画の内容に思い入れが強い人なんだろうなと。

それと自分の意見を誰かに伝えたいという人も多いかもしれません。一番厄介なのは、自分の知識をひけらかしてくる人。

あるいは、そのような知識によって優位な立場になろうとする人。そういう人は、自分は覚醒に近いということを表現したいのかもしれません。

こういうタイプの人の自我は強力だし、その分、煩悩も強く残っている可能性が高いように感じてしまいますね。

自分はどこにもいない

私たちは、子供の頃のどこかで人体について勉強します。頭の中には脳があって、消化器系はこうなっていてという具合に。

自分の身体の中が空洞だと思っている人はほとんどいないはずですね。内臓やら筋肉やら骨などがみっちりと詰まっていると知っています。

ここでちょっと考えて見て欲しいことがあるのですが、そんな肉の塊のような身体の中に自分が潜んでいるとしたら、非常に変な感じがします。

脳みその中だろうが、内臓の中だろうが、人体のどこの部分だろうと自分がそこにかくまわれているとは到底思えないはず。

そのなのに、一方では自分はこの自分の身体の内側にいるという感じがどうしてもしてしまうわけです。

この自己矛盾をどうしたらいいのでしょう?多くの人は、このことを真剣には考えないようにしてスルーしているのです。

でも逃げずに向き合うとどうなるか?結果は明らかなのですが、身体の内側にいる感じがするだけで実際にはいないのだと。

ここまできてようやく、自分はどこにもいなかったということに気づくことになるのです。身体の中に限らずどこであろうと、一度も自分に出会ったことはないのですから。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

それはただの音でしかない

事務所にいると、毎日幾度となく緊急車両がけたたましいサイレンの音を発して通過していくのが聞こえてきます。

セッション中もそれなりにちょっとは邪魔になるし、YouTube動画を撮影している時には、一旦中断を余儀なくされてしまいます。

急を要する事態だろうから仕方がないことですが、それにしてもこの事務所のある界隈は色々なことが起きるのだなと。

サイレンと言ってもいくつか種類があって、パトカーなのか、救急車なのか、あるいは消防車なのかの区別はいまいち付けづらい。

サイレンが聞こえてくると、咄嗟にどの車両なんだろう?というように考える癖がついてしまっているのですね。

その車両はどこからどこへ向かっているのだろうか?とか、もしかしたら緊急手術のための輸血が必要な病院へと急いでいるのかなとか。

そこで「はた」と思い出すのです。本当はただ音という感覚が起きているだけだと。それなのに、この音は消防車だろうとか、どこかで火災があったのか?などを連続して考えてしまうのです。

そうやって、知らぬまに人生物語の中へと引き摺り込まれてしまうのです。直接の経験に留まるなら、それはただの音でしかないと気づくことになるのですね。

非二元の話はタブー?

この世界には、タブーと言われることが多々あります。タブーというのは、共通して知られていることだけど、それに触れてはいけないというものです。

例えば、フリーエネルギーを発明すると、オイルメジャーによって消されてしまうらしいという噂があります。

あるいは、比較的身近なことで言えば、私たちは死についてあれこれと話題にあげることを避けて生きていますが、あれもタブーの一つですね。

誰もが承知していることだけど、それをあからさまにしないでおこうという暗黙の約束みたいなものとも言えます。

それに触れると、いいことはないし、誰にとっても得になることがないと思われていることは、タブーとみなされるのです。

そういう意味では、非二元の話も場合によってはタブー視される場合があるように感じています。

「この世界には誰もいない」と言ったことを話すと、そんなことは言ってはいけないというニュアンスの反応をする人もいます。

きっと何か都合が悪い感じがするのでしょうね。そして、そういう反応をする人は、非二元に深いところで気づいているということです。

もしも非二元の話しを聞いて、タブーに触れているような嫌な感じがするとしたら、その人は非二元に気づいていないふりをして生きているということかもしれないですね。

非二元を別の切り口で表現すると

日頃お伝えしている非二元のことを別の切り口で見ると、次のような表現になったりもします。

普通は「私」が音を聞いている。でも実際には、音楽が流れている瞬間、「聞いている私」を探す暇がない。

映画に没入している時、主人公と観客の境界が薄れる。泣く場面では、「私は今、感情移入しています」とは普通考えない。気づけば、映画そのものになっている。

「私が呼吸している」と思っている。でも少し観察すると、奇妙なことに気づく。次の息を、誰が決めている?

寝ている間も呼吸は続く。つまり呼吸は、「私がしている行為」と言うより、世界が勝手に起こしている運動に近い。非二元は、人生全体がそうだったと気づく感じ。

波は「自分は独立した存在だ」と思うかもしれない。でも波をよく見ると、海から切り離された瞬間がない。生まれる前も消えた後も海。

波という「形」が一時的に見えているだけ。非二元では、「私」というものも、海面に立つ一瞬の模様に見える。

言語の癖として、「私が見る」、「私が考える」、「私が選ぶ」のように、言葉は全部、中心に「私」を置く構造になっている。

でも直接の経験を見ると、思考は勝手に現れ、感情も勝手に変化し、音も自然に聞こえ、景色もただ現れている。

「私」は文法の中心にはいるが、経験の中心には見つからない等々。このようにいくらでも非二元の事例を上げることができますね。参考になったらいいのですが。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

コントロールできるものなど一つもない

私たちの毎日は、決断と選択の繰り返しで推移しています。今日は、体調がいいから、スポーツクラブに行こうとか。

ガソリンが減ってきたので、途中でガソリンスタンドに寄ろうとか。今日のブログの題材は何にしようかな?

そうだ、アレを使おう等々。全部自分で考えて自分で決断してそれを実行に移していると言う感じがします。

けれども、本当にそうでしょうか?その決意はどうやって思いついたのでしょうか?その選択はどのようにやってきたのでしょうか?

その辺りをじっくり見つめてみると、ほとんどがどこかから心の中にやってきたものであることに気づくことができます。

加えて、あなたは次の思考を選ぶことができるでしょうか?やってくる感情を選択することができるでしょうか?

このように見ていくと、まったくもってこの自分がコントロールしているものなど一つもないと気づくことができます。

これがいつも言っているこの世界は全自動ということです。コントロールしようにも、する方法がないからです。

コントローラーとしての自分も発見できないし、コントロールできるような「何か」などないからです。あるのは、常に現象として現れているコレだけなのですから。

生の体験のままに

普段私たちは、「自分」と言う主体が体験をコントロールしていると感じているのですが、実際には正直に観察してみると、音や感覚などの「体験」がただ先に起きていると分かります。

そしてそのすぐ後に、「それは私の体験だ」というラベルが貼られていると言うことに気づくことができるのです。

この順番をいつも意識しておくことで、生の体験だけをそのままにしておくことができるようになるかもしれません。

これが直接の体験に留まるということです。体験者と体験対象というのは、いつも思考によって後付けされた物に過ぎないのです。

「私」と言う中心的な存在が実在しないのであれば、「私と他人」、「自分と世界」と言う分離もまた、思考が作り出した景色に過ぎないのだと。

「私はいない」と言う見方と「全ては私」と言う見方は、結局のところ「分離のない一つの現れ」と言う同じ真理を指しているのです。

これを思考で理解しただけでは、とても満足できるモノではありませんね。実感を伴うことでしか、自分のものにならないからです。

そのためには、日々の物語に呑み込まれないようにして、思考からの答えに惑わされないように心がけることが大切ですね。

現実とは?

結論から言うと、現実とは解釈や概念が乗る前の「起きていることそのもの」と言うことになります。

ただし、それは固定した「何か」ではなく、絶えず変化しているプロセスなのです。私たちが普通に思っている「現実」と言うのは、

外の世界があって、それを自分が見ている。それが現実であると。つまりは客観的に存在するものとして捉えています。

ところが、しつこく正直に観察を進めていくと、実際に直接わかるのは、色や形、音、身体の感覚、思考や感情だけだと気づくのです。

つまり、全ては体験としてしか現れていない。外の世界があるかどうかは別として、外の世界そのものにはまったくノータッチなのです。

普通の見方では、現実は「物」でできているとするのですが、観察が深まると現実は主体も客体も見つからず、現れだけがあるのだと。

これを非二元と呼ぼうが、他の呼び方で表現しようが構わないのです。ただ、あらゆる構造が消えた後に残るシンプルな現れのみがあるのですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

雲の形に失敗作はない

誰かの言葉で、「雲の形に失敗作はない」というのがあります。初めて聞いた時に、ああなるほどなと思ったのです。

もちろんその逆で成功作もありません。つまり、雲の形については成功/失敗というジャンルで見ていないということです。

同じようにして、夜空に散りばめられている星をみて、そこに優劣をつけることは普通はないはずです。

その星々がただそうあるように、そのままを見ているわけです。つまり自然界のものに対しては分別をつけずに観ることができるのです。

ところが、人工物と思われるものについては、例えばクルマや飛行機のような乗り物を対象にすると、そのフォルムに好き嫌いが起きてきたりします。

対象が人物であればなおさらです。かなり強い仕分けを行なってしまうはずですが、実は自然界であれ人工物であれ、全てが現れであること。

その非二元の立場に立った時には、あらゆるものを仕分けすることができなくなるのです。これは朗報ですね。

なぜなら、仕分けが少なくなればなるほど、自ずと苦しみから解放されていくことになるからですね。 

非二元がマイナーである理由

地上波のテレビ番組を観る代わりに、YouTubeの動画やNetflixの動画を観て過ごすことが殆どになったように思います。

とは言っても、YouTubeにしてもNetflixであれ、おすすめに上がってきたものを、ただ何となく観るだけで、何かの目的を持って観るわけではありません。

そんな中で、自分が非二元の動画を上げているせいなのかはわかりませんが、やはり似たような動画がおすすめに上がってくるのです。

先日は、昔本を読んだことのあるニサルガダッタ・マハラジの言葉を平易な表現で伝えている動画を観たのです。

それで驚いたのですが、丸々非二元のことを言ってると気付かされたのです。あるいは、今朝は老子の道徳経の解説動画を観たのです。

すると、その中の一部ですが非二元そのもののことを説明している部分があったのです。あれ、そういうことなの?

かつてマハラジの本を読んだ時には、非二元のことを言っているとは全く思わなかったし、老子にしても同じなのです。

それが、自分が非二元のことを伝えているというだけで、そこが目立ってきたということなのかなと。

非二元のことを知らずに、そうした偉人たちの話を聞いたとしても、その部分はスルーしてしまうということなのかもしれませんね。

なぜなら、非二元だけの説明だと日常の生活とかけ離れすぎていて、生きるヒントにならないように感じてしまうからかもしれないですね。

非二元の話が、世間でもう少し脚光を浴びてもいいのではないかと思っていたので、マイナーなままである理由が少し分かった気がしました。