見えない、聞こえない、話せないという三重苦を持っていたヘレンケラーが、モノには名前が付いているということに気づく感動的なシーンがありますね。
ずっと前に見た映画の1シーンが記憶に残っています。サリバン先生が苦心してそのことを教えているのですが、最初のうちは先生が何を言おうとしているのか分からずに、もどかしくて癇癪を起こしてしまうのです。
でもああそうかと分かった瞬間に、本人も先生も感動するという場面です。なぜサリバン先生がそれを必死で教えようとしたかといえば、それが分からなければ社会生活はおろか、人とのコミュニケーションができないからです。
私たちは、幼い頃から気づいた時には自分には〇〇という名前が付いていると知っています。それが当たり前のことであって、そのことに驚かないのです。
そしていつしか、その名前と自分とを同一視してしまうのです。つまり、自分には〇〇という名前がついている、というのではなく、自分は〇〇だと思うのです。
英語では、My name is 〇〇. というよりも、I am 〇〇. という方が一般的なのもそれと同じことなのです。
けれども自分は名前ではないので、瞑想していると名前がどこかに行ってしまいます。私は、あるとき瞑想とは関係なく、これまでの〇〇という自分の名前が自分から遠のいたと感じたときがありました。
もちろん対外的には、名前を呼ばれたらすぐに反応することはできますが、名前よりも本質の方に意識が向いているようになったのです。
クライアントさんの中には、もう〇〇(ご本人の名前)をやり続けるのが疲れた!と言われる方がたまにいらっしゃいます。
きっと幼い頃からずっと、周りから期待された役柄を演じてきたのでしょうね。ご本人の名前と役柄が一つになっていたのだと思うのです。
私は名前との同化がはずれるチャンスが来てるなと思うのですが、実際には同化を外すのは勇気のいることなので、なかなか思ったようにはいきません。
日頃から内側に意識を向けていると、自分は何者でもないという感覚が定着することで名前との同化がはずれてくるのです。それが自己の本質に気づくことに繋がるのですね。