KYな人

最近はあまり使われなくなりつつある言葉かもしれませんが、KYな(空気読めない)人というのがありますね。その場の空気を読めずに、一人浮いてしまうような言動をとる人のことを指します。

元々その場の微妙な空気を読むというのは、日本人が得意としていることのようにも思えます。昔からある日本の文化は謙遜、控えめ、あるいは人を優先する態度など、そういった全体を見渡してその場に自分を合わすというニュアンスに長けている気がします。

集団行動を無難にこなすためには、この日本の文化というのはとても必要なことなのかもしれないですね。出る杭は打たれるというように、集団の中では目立つでもなく、さりとて目立たな過ぎるということでもなく、いわゆる平均的というのが好まれるのです。

したがって、集団の中では、KYは悪くするといじめの対象になるでしょうし、大人になると人格を疑われるというような事にも繋がるわけです。

自分の過去の言動を思い返してみると、結構KYな部分があるなという自覚があります。同年齢の友達と比べて、何となく自分のほうが幼いなという感覚が時々ありました。自分の中では、大人になるほど周りを意識して調和をさせる行動を取れるようになるというように把握していました。

場面場面、いろいろなことに気を回せる人はすごいなと思っていたことを覚えています。世間一般的にみても、KYな人はマイナスなイメージが強く、嫌われる傾向にあるという認識があると思います。

ですから、アイツはKYだけど、自分はKYではなくてよかった、と思って安心している人が圧倒的に多いのではないでしょうか?

しかし、実は注意深く観察していると、普通のKYな人と同じような言動をしている人でも、周りから好かれている人がいるということもあるのです。そういう人の場合には、もしかしたらKYだとは思われないのかもしれませんが。

本当は明らかにKYな言動を取る人なのに、好かれてしまうという場合、どう考えたらいいのでしょうか。嫌われて、敬遠されるはずのKYが、なぜ好かれるのでしょうか?

それは、その人に愛を感じるからです。同じ事をしても嫌われる人と好かれる人がいるというのは愛を感じるかどうかにかかっているということです。

先日、「神の使者」という本を書いたゲイリーさんという方のセミナーに参加する機会があったのですが、彼は「奇跡のコース」の赦しの教えを実践している人です。

物事にこだわらない、とても暖かな感じのする初老の男性なのですが、どうも言動のあちこちにKYなニュアンスを感じたのですが、それが逆にゆったりとすべてを赦すみたいな気持ちにさせられました。

赦しを深く実践している人というのは、ネガティブなKYではなく、ポジティブなKYになるのではないかと思います。それは、すべてを赦すという気持ちで生活しているために、物事にこだわりがなくなり、場の雰囲気を必要以上に壊さないようにするとか、人に合わせるなどをしなくなるからです。

愛をもって赦しを実践して、愛されるKYな人になりたいなと思います。

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