昔確か中国の方の金持ちが、わざと水虫にかかり、その痒みを癒すことで快感を得るという道楽をやっていたと聞いたことがあります。
真偽のほどは定かではないのですが、私はこの話しを聞いたときにもしかしたら自分も大金持ちだったらそういったことを考えるかもしれないと思いました。
残念ながらお金がそれほどない庶民は、お金を得るという刺激が欲しくて毎日頑張って仕事をするのです。勿論生活のためという題目はあるものの、月に一度の快感を得るためでもあるのです。
お金持ちはそうしたお金を得ることでの刺激がなくなってきてしまうために、何か他の刺激を求めるようになるのです。
現代のようにさまざまな楽しみがなかった昔の中国だからこその逸話なのかもしれません。中世のヨーロッパにおける何不自由ない裕福な貴族たちの生活ぶりも同じようなものだったはずです。
このように、私たちは常に刺激を求めて生きているのです。今のこの日本ではお金持ちも貧乏人でもそこそこいろいろな刺激を享受できる環境になっていますので、あまり奇抜な道楽というものは必要ないかもしれません。
しかし誰もが何らかの刺激を求めていることは確かなのです。それはなぜかというと、何かを我慢しているからに違いありません。
人は何か辛いことがあれば、そのことを忘れようとしてそれ以上に刺激の強いものを求めてしまうという習性があるのです。
それがいわゆる依存症というものです。つまり誰もが刺激依存症の中で生活しているのです。万人に共通のその辛いこととは、実は自分は個人であってみんなと分離しているという孤独感なのです。
それはとてもまともには見ることのできない心の奥に抑圧された大きな恐怖であるとも言えるのです。それを紛らすために刺激を求めているのです。
したがって幸せを求めていると思い込んでいるだけで、実は刺激を求めているのです。幸せとは永続的な心の平安ですから、刺激とはまったく無縁なところにあるのです。
だからこそ、本当の幸福感を得るには、自分はみんなと一つなんだということを思い出すことでしか実現しないということです。
心の平安を第一に目指しているかどうかを一度ゆっくりと見つめてみることはとても大切なことだと思います。もしもそうならOKですし、どうも刺激を求めてしまっていると思えるのでしたら、その目的も合わせて考えてみる必要があると思います。