私たちは、誰でも問題を見つけてしまったら、それを何とかして取り除こうとします。例えば、こうして文章を書いていても、書き間違いや表現の不備などを発見したら、それを修正しますね。
それは勿論、何も悪いことはないですし、必要なことです。逆に、その間違いを見て見ぬフリをしてしまったら、間違いを訂正せずにいることになってしまいます。
けれども、単に訂正するのではなくて、間違いを排除しよう、根絶しようとしてしまうと、どんなことになってしまうでしょうか?
それは、元々不可能なことなのに、それに挑めば挑むほど心が強迫的になってしまうはずです。私たちは、気づかぬうちにこうした文字通り間違いを繰り返しているのです。
自分という一人の人物の問題を見つけては、それを見て見ぬフリをするか、あるいは排除しようと頑張ってしまうということです。
例えば、怒りや憎しみを抱く心を問題視することから始まって、それを見て見ぬフリをして抑圧してしまうかもしれませんし、あるいは排除しようとして怒りを我慢したりするのです。
場合によっては、厳しい修行の道を選ぶ人もいるかもしれません。もうすでに、それを問題だと認識するところからして、間違っていると言わざるをえませんね。
心の癒しを始める多くの人たちが、間違ってイメージしてしまうのもこのことです。つまり、感情を開放しようとする根っこに、不要なものを排除してクリーンな心になろうとする間違った思い込みを持ってしまうのです。
いわゆるネガティブな感情それ自体には、何の問題もありません。唯一の問題とは、それを問題視して、何とかして見ないようにするか、排除しようとすることなのです。
どんなものであれ、それ自体には何の問題もないのだということに、しっかりと気づくことです。その上で、問題とはそれを見ないようにしてしまったという一点だったと理解することです。
このことに気づくとき、あらゆるからくりが見えてきます。問題とは、自分の生き方、それは自分が作り出した正しさというルールによって、作り出されていたものだったということです。