自分は身体だということと同じくらい、自分は意識だということを理解している人はとても多いだろうと思います。
なぜなら、自分のことを自分だと自覚しているのは、目に見えるような肉体ではなくて、逆に物質ではない心だと分かっているからです。
けれども、自分を意識だと思っている場合であっても、本当にはそれは単に思考だということに気づいている人は、もしかしたら少ないのかもしれません。
「ここに私が居る」という自覚そのものは、意識というよりも思考の産物です。したがって、「自分は身体だ」という想いも、もちろん思考であるわけです。
その思考が基となって、その上にあらゆる思考が作られて、今の自分、一人の人物としての自分というものを形作っているとも言えます。
自分は意識だというのは間違ってはいませんが、それは思考が停止したり、消えてしまっても意識自体としての自己は残るということを示している場合だけです。
意識の上で、思考が踊り続けていて、その基盤になるものが「私が居る」、「私は身体だ」というものだということです。
「私は今カーテンを見ている」というのは、事実ではなくてただの思考です。カーテンを見ている私は確かに居る、その想いは100%思考であり、真実ではありません。
だとしたら、カーテンを見ているのは誰なのか?それは、カーテンを見ている何者もいないということです。
思考はただの思考に過ぎません。「私は今バッハを聞いている」というのも、思考です。そこには、バッハを聞く誰もいないのです。
でも思考の中に作り上げられた自分像を自分だと固く信じてしまったがために、それが単なる思考に過ぎないとは思えないということになってしまったのです。
誰もカーテンを見ていないし、誰もバッハを聞いてもいない。見るという行為、聞くという行為がこの身体を通して起きているという表現が一番適切かもしれません。
思考の外に出たとき、そこにはいつもの私はいないということです。つまり、思考の外に出ていく誰も元々いないのです。
純粋な意識が、思考を見る代わりに、意識そのものに注意を向けるときに初めて、そこには今までの私はいないということに気づくのでしょう。
だから覚醒してこの自分が消滅しても大丈夫。そこには本質の自己が、目覚めたままの自己が在るだけです。肉体の消滅を伴う死の場合にも、同じことが言えるはずです。
そう理解できれば、死を殊更恐れるということは馬鹿げたことだと言えるし、この生をできるだけ満喫しようという気持ちにもなりますね。