by gangaji
昨日の続きです。
思考は、それが及ぶ範囲、及ぼす影響ともに、素晴らしいものでも恐ろしいものでもあります。けれどそれは単なる思考にすぎず、あなたの本質を表現する力はない、ということを認める意思があなたにはありますか?
このことを検証してみる気がありますか?もしそうなら、ほんの一瞬、考えるのを止めてごらんなさい。
思考を押さえ込むのではなくて、頭に浮かんだ思考を膨らませ続けるのを拒絶し、思考の上に思考を重ねていくのを止めるのです。
偉大な思考でも取るに足りない思考でも、それを膨らませるのを止めて、それは単に思考にすぎないということに気づいてください。
思考には何ができるでしょうか?思考は体験を定義することができます。経験を区別・分類することができます。経験を生むこともできます。
けれども思考と経験は同一ではありません。思考には始まりがあり、展開があり、終わりがあります。絶対の真実には、始まりも、展開も、終わりもありません。
それは現れたり消えたりもしません。それはいつでもここにあるのです。思考を嫌っているのではありません。そんなことをして何になるでしょう?
思考は存在します。思考は創造性や理解の素晴らしい表現たり得ます。思考を思考であると認めることは、思考が好きだということでも嫌いだということでもありません。
けれども、思考すなわち現実である、という思い込みの鎖から解放されるとき、あなたには、あなたという存在を直接体験する自由が与えられます。
あなたが誰であるか、それは思考によって捉えることはできません。理性は、その源を捉えることはできません。なぜなら理性とはその源の一面にすぎず、全体ではないからです。
その源はあなたです。そして源であるあなたには、あなた自身を源として発見することができるのです。