何もなさに死は通用しない

坂本龍一さんが亡くなったというニュースを目にしました。何年か前から癌と戦っておられるということは知っていましたが‥。

私とそれほど歳の差がないので、人ごとでは済まされない気持ちになります。癌の場合は、死の直前まである程度しっかりした状態で生活できるのですね。

ただニュースの中で、最期の方はあまりにも苦しいのでもう死なせてくれないか?と訴えられていたというようなことが書いてありました。

末期癌の苦痛は当然人によって違いがあるのでしょうけれど、何年も戦ってきてもうすでに先が分かっている状態で、苦しみ続けなければならないのは酷なことですね。

可能な限りの緩和ケアなどの処置ができていたのか、その辺はわかりません。ただもうそろそろ生き続けることに価値があるという石頭的発想はやめる必要があると思います。

九十四歳になって歩くこともできなくなって、何の楽しみもなくなってしまった母親が、早く死にたいと訴えてくるたびに、どうにもしてあげられないのが辛いです。

そんな時私はそんなこと言わないで、などと死を誤魔化すことなく、真正面からもうすぐだからねと言って慰めるようにしています。

実際人生というのはあっという間の出来事なのだと思うようになったのです。これが自分だと思い込んできた自分は、確かに死ぬ運命にあるのです。

けれども、その奥深くにある何もなさは死にようがないと分かります。死ぬようなものがないからです。ここの感覚をもっともっと強めていきたいと思います。

人間関係の希薄さ

今日、スポーツクラブの出入り口で、出て行こうとする私と外から急ぎ足で入ってこようとしている人と二人がちょうどすれ違ったのです。

そのすぐ後に、背後からその人から呼び止められたのです。40代くらいの奥様風の女性でした。その人が何かを言っているのですが、よく聞き取れず。

自分の名前を名乗っている感じがして、きっと何かで私のことを知っている人に違いないと思い、失礼にならないように一生懸命お顔を拝見したのです。

知り合いがほとんどいない私としては、クライアントさんの一人に違いないかもと思って見ると、何となく見たことがあるような気もしてきます。

次の瞬間、その人はマスクを外して私にそのお顔を見せてくださったのですが、やはりどうにも誰だかはっきりとは思い出すことができないのです。

すると、「木村さんですよね?」と言われたので、内心ホッとして「違います」とだけ。それでその人はすごく丁寧に人違いだったことを詫びた後、また急ぎ足で中へと消えていきました。

え、今の何だったんだろう?と思いながらも、相手が自分のことを知っているのだから、自分も相手のことを知っているはず。

そう思うだけで、本当に知っているような気がしてくるのですから不思議です。そんな体験ができて、なかなか面白かったのです。

あれほど互いに顔を見合っているのに、それでも間違えるっていうことは、他人のそら似というやつなのかもしれませんが…。

身近なところに、自分とそっくりな人がいるのかもしれないと思ったら、ちょっと嬉しいような気持ちになりましたね。

それにしても、外で誰かに声をかけられたら相手のことをクライアントさんとしか思えない人間関係の希薄さは、どうなんだろうと少し呆れ気味な本日でした。

内側優位で生きる

私たちは誰もが二つの世界を持っています。一つは、外側に拡がっているこの世界であり、もう一つは自分の内側の世界です。

この二つの世界をバランスよく生きることがとても大切なことです。どちらか一つだけでは、とても人生の味わいが薄いものになってしまうのです。

なぜなら人生では外側と内側の関係性が大事だからです。その両者がうまくコミュニケーションを取ることで、人生の彩りも鮮やかになるはずです。

多くの人が外側優位で生きているように私には見えます。周囲で起きていることに翻弄され、右往左往するのはまさに外側の事象に牛耳られている証拠です。

加えて外側優位の生き方では、無意識状態になってしまう可能性が高いのです。そして、いつまでも自分を深く知ることが難しいのです。

内側を見る習慣をつければ、自分のマインドがどういう状態でどのような働きをしているのかを知れるようになるはずです。

これまで外側には十分過ぎるほど注意を払ってきたので、極端に聞こえるかもしれませんが、できるだけ内側に意識を向けるようにしても大丈夫、社会で生きていくのに不便はないはずです。

そしてしばらく内側を見ることを続けていくと、次第にマインドを通り越してそのもっと奥にある静寂、あるいは何もなさ、全体性へと気づいていくこともできるはずです。

そうなったら、外側とともに生きる自分の自我は、自分の表層でしかないという感覚になっていくように思います。

何が起きても内側の中心深くでは、その静寂さが乱されることがないと知ることは、とても大きな助けになるでしょうね。私自身もまだまだですが…。

愛の対象は「存在」

野球の大谷選手のことが来年度の多くの教科書に載るらしいという情報を小耳に挟みました。それにしても凄い人気ですね。

すぐに私がイメージしたのは、C国の教科書にその国のトップのことがズラ〜っと掲載されているということ。何かそれとダブってしまったのです。

流石にそれと比べるのは申し訳ないとは思うのですが、「大谷愛」のような言葉を聞くと、大丈夫かな?と思ってしまうのです。

というのも、スポーツ選手の人気って結果が出ている時はいいのですが、少しでも結果が出なくなってしまうと、急激に萎んでしまうからです。

そしてもうダメだなと思われたら最後、どれほど人気があったとしても誰も鼻も引っ掛けない状態になってしまうのです。

そんなご都合主義に「愛」という言葉が張り付いていると、子供はもしかしたらそういうものを愛だと誤解してしまうかもしれません。

あるいは、子供自身が成績で結果が出ているときには賞賛されて、結果が出なくなると無視されるという惨めな姿を連想してしまうかもしれません。

愛の対象は能力でも姿形でもなく、「存在」なんだということを子供達に理解してもらえるような教育が必要だと思いますね。