行為と行動の違い

osho は行為と行動の違いをはっきり理解することが大切だと言っています。ぼんやり生活していると、その違いに気づかないままになってしまいます。

行動というのは、その全てが過去か未来からやってくるのです。それに対して行為はその瞬間からやってくるのです。

例えば、お腹が空いたから食事をするというのは行為です。一方、お腹が空いてなくても食事をしたり、空腹でも食事をしないのは行動です。

仕事が忙しくて夕食を摂らずに遅くまで残業したり、遅く帰宅してから食事をするなどは行動と言えますね。サラリーマンの頃は毎日がそんな感じでした。

1日の疲労感から眠くなった時に寝るのは行為ですが、眠気に逆らって遅くまで本を読んだりドラマを観たりするのは行動ですね。

あるいは職場で嫌なことがあり、それを引きずったまま帰宅してしまい、そのことを思い出して気分が悪くなるなら、それは行動です。

さらに明日のことを考えて憂鬱になるのも行動だし、明日のことなど気にすることなくシャワーを浴びて気持ちいいと感じているなら行為です。

もう分かったと思いますが、マインドが絡んでいることは全部行動と言ってもいいくらいです。だから過去と未来からやってくるわけです。

行為はノーマインドの状態で自然発生的に起きること。シンプルな人生を生きていればそれだけ行動が減り、行為が多くなるということですね。

知識と真理は次元が違う

幼い頃というのは誰であれ知らないことだらけでした。ただ知らないということに不安を感じることもありませんでした。

少し成長してくると、知らないということが実は不安を感じさせることに繋がることに気づくようになるのです。

過去の自分より、あるいは他人よりも知っているということで、安心を得ることができるのです。だから自我は知識が大好きなのです。

よく言えば知識欲とも言えますが、その本質は安心したいという防衛からやってくるものの方が大きいのではないかと思っています。

例えば、明日ある人と会って話しをする必要があるというときに、馴染みの人と会うのと初対面の人と会うのとでは、前者の方が安心なはずです。

それは相手のことを知っているからです。初対面の相手のことは知らないので、予想することが難しい分だけ不安になるわけです。

この知っているということが安心要素であり、あるいは有利に働くということから私たちにとっては知識が非常に大切なものと感じるのです。

けれども、その一方では本当に大切なもの、真理について知っていると思ったとしたらとても危うい状態になっていると理解しなければなりません。

なぜなら真理は自我にとっては決して理解することのできないものだからです。自我が消えた瞬間に真理が見えてくるとも言えるくらいだからです。

真理に目覚めるかどうかは別としても、知識を重宝し過ぎる生き方を一度見直して、不安があってもそのままでいるような生き方を試してみるといいかなと思いますね。