受け身の存在として在る

誰でも一度や二度、人生とは一体何のためにあるのだろう?と考えたことがあるのではないでしょうか?

特に若い頃というのは、自分の人生が今後どうなっていくのか不安だったり、やりたいことが見つからずにあれこれと迷ったりすることがあるはず。

年齢に関わらず自分の人生の目的が分からないという人もいて、それを知りたいという目的でセッションに来られる人もいます。

かく言う私も、ずっと自分は何がしたいのかが分からずに生きてきました。だから確たる目的を持って生きている人が羨ましかったです。

けれども、人生に目的があるとすると、つまり何かを達成するために人生を使うとすると、人生を手段として捉えてしまうことに気づいたのです。

それがどうもしっくりこないというか、腑に落ちない気がして。その後ようやく、人生というのはそれ自身が手段でもあり目的でもあるということに気づいたのです。

自我(思考)というのは、どうしても目的志向になってしまうため、手段と目的が一つであることが分からないのです。

自分がいてそこに人生があるのではなく、自分自身も生の一部であることを知ればいいのです。そのためにはoshoの言葉に耳を澄まして、あるがままでいることですね。

ただそこにいなさい、受け身の存在として
自分をひらいて
耳を澄ましながら
ただ見ている
何も考えることなく–