受容は無条件

受容する、受け容れるという言葉について考察してみると、かなりそれ自体に自己矛盾を孕んだ言葉だなと思うのです。

どういうことかを少し書いてみたいと思います。例えば、この程度の出来なら受け容れられるけれど、それ以下の場合は受け容れられない、という使い方があります。

あるいは、Aは受け容れるけれど、Bは受け容れないという場合もあります。このように、受け容れる対象と受け容れない対象があるのは、どういうことでしょうか?

それは、受け容れるという言葉は使ってはいるのですが、本当は許すとか許可するといった意味で使っているように思うのです。

テストの結果が70点以上なら合格でそれ以下なら不合格のような感じですね。他の表現を使えば、70点以上なら我慢するけどそれ以下なら我慢できないとも言えます。

本来、受け容れるということは受け容れたり受け容れなかったりという選択がない状態の時にのみ使える言葉なのです。

だから受け容れられるとか受け容れられないなどの可能性の要素が入ると、受容の本来の意味から離れてしまうのです。

受け容れるとはそもそも無条件でなければなりません。そしてもっと深く突き詰めてみると、受容するとは他動詞ではなく、自動詞であるはずです。

つまり目的語を必要としないものです。それは受容している状態を指すからですね。つまり本人の意志とは無関係のところにあるものなのだということです。

もしもあなたが自分のことを受容するなら、それこそどんな自分であろうとも受容していることを意味するのです。このことを深く理解しておくことですね。