身体との同化がはずれると…

かつてoshoがアメリカのオレゴンに広大な土地を買って、そこにアシュラムを作っていたことがありました。

その時に、アメリカ政府からのひどい嫌がらせで、繰り返し放射性物質が入った食べ物を食べさせれたことがあったらしいのです。

その後インドに戻ってから、その後遺症か何かで歯や歯茎に問題が起こり治療をすることになったそうです。

治療をしようとするoshoの弟子である歯医者さんに対して、oshoは麻酔をする必要はないと言ったそうです。

実際に麻酔なしで治療を受けたoshoは、その痛みを感じながら面白がっていたということです。

このことは彼がいかに我慢強いかということを表しているわけではなくて、肉体との同化が完全に消えていることを証明しているのです。

身体の具合がいい時もあれば、病気などで具合が悪い時もありますが、身体と同化してしまっている私たちにとっては、身体の具合の良し悪しが大問題に感じるのです。

たまに具合がいい時には、同化が外れてそれを見ていることもできるのですが、具合が悪い時には、すぐそれに引きずられてしまいますね。

もしも完全に身体との同化が外れてしまうなら、身体的な苦痛を怖がることもなくなるのだろうなと思うのです。

無のねじれが現象を起こす

無について説明することは、それだけで要点を逃しているような気持ちになるのですが、それは言葉で説明することのできないものだからですね。

それでも敢えて表現すると、無というのは現象界に住んでいる私たちからすると空虚だと感じるのですが、本当は無で満ち満ちているとも言えるのです。

あらゆる現象は無からやってくる。それは例えば、電気的には何もない状態のところから、プラスイオンとマイナスイオンに分離することで、電荷が起きるのに似ています。

そして分離してしまったプラスとマイナスイオンは、再び無の状態に戻ろうとして互いに引き合うのです。

この引き合って電気的にゼロの状態に戻るまでのことを、事象とか現象と呼んでいるわけです。

そういう意味からすれば、私たちのこの世界という現象界も同様にして、無が何らかのねじれ、あるいは歪みによって起きてくるものと捉えることができます。

そしてそのねじれが解消されようとしてあらゆる現象が起きているということです。つまりは、そのねじれの解消が終わってしまえば、全ては元の無に帰するわけですね。

その間の儚い夢のようなものこそが、この現象界で起きている全てであるとするなら、もっと肩の力を抜いてかりそめの人生を楽しんでもいいのかなと思うのです。

自我の愛を見透かす

自我というのは、愛という名のもとにそれとは似ても似つかないものも全部ひっくるめて包んでしまうのです。

包んでしまえば、名ばかりの愛の正体を見ずに過ごすことができて、好都合だからですね。

一体なにを包んでしまうのか?その一つは執着です。相手にそばにいて欲しい、いつでも手の届くところにあって欲しいと願うこと。

そして誰にも相手を奪われたりしないこと。自分だけの存在でいるように強く願うこと。こうしたことの全てが執着なのです。

あるいは、相手に期待すること。これも愛と勘違いしているものの一つです。この世界では期待するということはいいことのように考えられています。

けれども、純粋な愛は相手にどんなことも期待することがありませんが、自我はそんなものは愛ではないと思い込んでいます。

愛があるからこそ、相手にこうなって欲しい、ああなって欲しいと願うのであって、期待とはそういうものだと。

この認識はなかなかしぶといので、気づきにくいのかもしれませんが、〜欲しいと願っているのですから、与えるだけの愛とは根本的に異なるのは明白です。

あなたがこれが愛だと信じて疑わないものの中で、いま挙げた執着とか期待というのは愛とは何の関係もないということにしっかり気づくことです。

そうすれば、愛の対象だと信じていた人に対して、嫉妬したり怒りを感じたりして苦しむことなどなくなるはずですね。

自我は過去と未来にいる

短期記憶がほぼ機能しなくなってしまった高齢の母親を見ていると、いろいろなことに気付かされます。

短期記憶が正常に機能しないということは、毎日の日常の経験をほとんど忘れてしまうということです。

今日食事をしたことも、デイサービスに行くことも、誰かと会ったことも、みんな忘れてしまうのです。

けれども、自我として生きていくことはできるのですね。なぜなら、自我は元々今現在にはいられないからです。

自我の生きる場所は、過去か未来だからです。短期記憶はなくても長期の記憶は不鮮明ながらあるのです。

だから、例えば私が子供の頃に家族みんなで潮干狩りに出掛けて、思いの外たくさんアサリが取れたことなどを覚えているのです。

そんな60年近く過去の出来事を覚えていて、1分前のことは忘れてしまうのですから、少し理不尽な感じがしますね。

思い出に浸ったり、未来に思いを馳せると表現すれば、悪いことではない感じがしますが、過去をクヨクヨ思い返したり未来を不安に思うのとそれ程違いはないのです。

こうしたことは自我の得意技なのです。逆にもしも過去を落とし未来を持ち込まないでいられるなら、自我を使わずにいることになるのですね。 

元々は自由しかない

私たちは誰もが自由を求めて生きています。自由というのは、何の束縛もない状態を言うのですが、それが難しいのです。

本来は、この世界には自由しかないはずなのですが、それがそうは思えないのはどうしてなのか?

それはあなたという自我がいるからなのです。自我こそがあなたの自由を奪っている張本人なのです。

それは自我の生き方が原因なのですが、自我がそれを変えることはほとんどあり得ないと思って間違いないでしょう。

例えば、何にも従事していない状態であっても構わないと思えるか?あるいは誰にも必要とされなくても構わないと感じられるのか?

この世界はあなたの自我なしでうまくやっていけるということ。自我などなくても続いていくということ。

そうしたことをしっかり認めることができるなら、自我は衰退していくことになり、元々あった自由を見出すことになるのでしょうね。

目覚めるということ

昨日に引き続き、今日も以下のoshoの言葉に耳を傾けてみましょう。

『内面的な成長というのは実は成長などではない。この言葉には語弊がある。内面的な成長とは、一つの顕現のこと。

ずっと隠されていた何かが現わされる。ずっとそこに在ったもの、それにあなたが気づく。あなたはそれを取り逃がしていたわけではない。ただたんに忘れていただけ・・』

一般的に内面的な成長というと、自我の成長のことを意味するのです。そんなものは、成長などではないと言っているのです。

真の成長というのは、成長という言葉のニュアンスとはちょっとかけ離れている事だと言うのです。

それは自分の本質に気づくということに尽きるのです。なかったものが作られるのではなく、元々そうであったことに気づくということ。

oshoは、そのことを忘れていたものを思い出すというような表現を用いて、私たちに語りかけているのですね。

夢から目が覚めて、その夢を見ていたこの自分が本当の自分だったと気づくのにとても近い感じがします。

ただし、大きな違いが一つあるのですが、それはこの現実という夢から目覚めたとしても、夢が終わらずに続いていくということですね。

自己観照する

osho の以下の言葉を味わってみましょう。

『あなた方は希望製造メカニズム。そしてこの希望製造メカニズムこそエゴにほかならない!では、どうしたらいい?

実のところ、どうこうすることは何もない。ただあなたがたにはもっと明晰な眼が必要だ。唯一必要とされるのはあなた自身を新鮮な眼で見ること。』

ものすごく大切なメッセージが込められているのですが、それは“実のところ、どうこうすることは何もない“の部分です。

なぜなら私たちは、常日頃から何とかしなければと思うことをやめられないでいるからです。要するに私の言葉で言えば、改善病ですね。

その意味では、セッションでやっている心の癒しも同じなのです。セラピストが言うのも何ですが、癒すことで少しでも病んだ心を正常に戻そうとするわけです。

そのことを否定するつもりは全くありませんが、本質的なレベルで考えるなら、それも改善病の一つであるとも言えるのですね。

病んだ部分を修復しようとする代わりに、自分自身を新鮮な眼で見ることこそが本当に必要なことだと言っているのです。

それこそが意識的であるということ。自分の本質である純粋な意識によって自己観照するなら、改善ではなく真実に目覚めることになるということですね。

夢と潜在意識

眠っている間に見る夢の内容によって、自分の潜在意識の中にどういったものが溜まり込んでいるのかが分かりますね。

私は以前、分析心理学という名の夢を分析して潜在意識を解放していくというセッションを受けていたことがあります。

催眠療法などの心理療法と目的は同じなのですが、少しずつ着実に匍匐前進するかのように進めていく療法なのです。

セラピストによると、週一のペースで何年も続ける必要があるとのことでしたので、途中でやめてしまいました。

もしもあなたが完全に自分らしく、またごく自然体で悠々と生きていたなら、夢は見なくなるはずなのです。

というのも、夢というのは無理したり我慢したり抑圧した結果、溜め込んだエネルギーが解放して欲しくて見るものだからです。

私の個人的な意見としては、夢を分析するだけよりは直接的に過去を思い出して、そこに溜め込まれたさまざまな感情を味わう方が格段に癒しの進み方が早いのです。

いく通りもある療法の何を用いようと構わないのですが、どれも目指すことはたった一つ、潜在意識の解放なのです。

究極的には、覚醒してしまえば潜在意識は解放されますし、そうなったらもう二度と夢を見ることもなくなるということですね。

ゲーム感覚

もう20年以上前のことですが、あるセミナーに参加して戻ってきた友人が、やたら明るく人生はゲームのようなものと言っているのを聞いて、ピンと来なかったのです。

というよりも、何だかちょっと不真面目な感じがして気分を害したようになったのを覚えています。

あれって一体何に反応していたのかなと思い返してみると、きっとあの頃の自分は今よりもずっと物事を真面目に捉えて生きていたのだなと思うのです。

正しくあろう、正しく生きているという自負を持ってもいたのかもしれません。だから、ゲームとは何だ、けしからんとなったのでしょう。

今なら何事においてもゲーム感覚というのが大切だと理解できるのです。それは決して人生を軽んじているわけではありません。

ゲーム感覚というのは、深刻にならないという感じですね。深刻さは恐れからやってくるものなので、波動が低い感じがします。

ゲーム感覚というのは、それよりも楽しむことを重視しているという感じなので、恐れよりも愛が多く含まれている感じがします。

いつかは必ず終わるゲームであるなら、正しさよりもできるだけ瞬間瞬間それを楽しむことの方を大切にしたいものですね。

マインドは興味深い

日々クライアントさんとのセッションを通して、人間のマインドの仕組みについて深い学びをさせてもらっています。

学びというのは知識を増やすというよりも、深い理解を得るということの方が大きいと思っています。

最近は、年老いた母親からもマインドのカラクリを教えてもらう機会が増えてきています。先日のブログでも少し触れましたが、それはもうなかなか興味深いものです。

昨夜の母親の訴えは、毎日通っているデイサービスの施設で、自分一人だけお弁当がなくて食べられない、という悲しい物語でした。

その施設では毎日日替わりでお弁当が出るのですが、どうも各自でお弁当を持ってきていると思っているらしく、自分はお弁当を作ってもらっていないと。

だから毎日お昼ご飯を食べられずにいるということでした。完全な妄想の世界の話しではあるのですが、本人はそれが事実だと思い込んでいるので、その気持ちを思うと辛いものがありますね。

母親のマインドを分析すると、元々ある潜在意識の中の不安を使って、夢の中でその不安のネタとなる物語を作り出すわけです。

そして、うたた寝から目覚めた時に記憶のない現実よりもその夢の内容が事実だと思い込んで、本気で困るという事態を引き起こすのですね。

30分ほど母親の話しを聞く中で、半分は共感につとめ、残りの半分は母親の理性を使って自らの矛盾に気づくように促すのです。

そしてようやく理性の方が優勢になったところで、安心して寝てもらうのですが、毎日気づかせてもらえることに感謝ですね。