自分に意識を向け続ける

人生で何か辛いことがあったりした時に、毎日を忙しくすることで乗り切ろうとする人がいますね。

それは理にかなっています。忙殺されれば、嫌なことを思い出すことも減るし、何よりも思考の活動が緩むからです。

何かに熱中して我を忘れた状態では、思考は過去や未来へと飛ばなくなるのです。だから何かを忘れたい時には都合がいいのです。

ただし、夢中になるというのは、決して意識的であることと同じではありません。どちらかといえば、無意識状態であると言った方がいいのです。

お腹が空いたワンちゃんが、脇目も振らずに餌に食らいつく様を思い出せば、そこに意識がないのは明白です。

人間もそれと全く同じこと。何かに一心不乱に取り組んでいると、気持ちの良いものです。

それは思考の活動が低下してくれるからです。けれども、意識はどうかというと、大体は無意識状態なのです。

思考を落としても無意識になってしまうなら、動物や幼児と同じになってしまうのです。それでも、日頃から思考過多の人にとっては良いのかもしれませんが。

最も大切なこととは、思考があろうがなかろうが、意識的であるということなのです。

そして意識的であるとは、自分自身の存在に意識が向いているということです。そうなると、自動的に思考は静かになってしまうはずですね。

自分本位の勧め

ちょうど二十年前にこの仕事を始めてから、すぐに気がついたことなのですが、まるで奴隷のように生きている人が沢山いるんだなということ。

自己表現もろくにせず、誰かの言いなりになって、自分を優先することができずに、我慢ばかりして生きている人。

セッションでいつも言っていたことは、とにかく自分本位に生きるようになって下さいということでした。

もちろん今でもそれは変わりません。自分本位というのは、自分を尊重するということです。自分を尊重するからこそ、他人のことも尊重できるのです。

奴隷のようにして生きているのは、他人を尊重しているのとは大違いです。不安や恐怖から逃れたくて、人の言いなりになっているに過ぎないのです。

自分と他人は対等だと分かるからこそ、人を尊重することができるのです。もしも奴隷のように他人からコントロールされているなら、いずれはあなたが今度はコントローラーになってしまうのです。

世の中の人が、みんな自分本位に生きるようになったなら、きっと戦争も無くなってしまうだろうし、多くの争い事や病気なども激減するでしょうね。

なぜなら誰もが無理せずに気持ちよく、正直に生きるようになるからです。こんな簡単なことなのに、人類はそれがまだできてないのですね。

そのままにしておく

子供の頃は、父親の実家によく遊びに行きました。東京からそれほど遠くもなく、それでいて自然がいっぱいある環境が気に入っていました。

とにかく途方もなく広い土地の中には、小川が流れていたりして、夏になるとそこに無数のホタルがやってきて、ものすごく綺麗だったのです。

小学生くらいだった自分は、美しい光を点滅させるホタルをどうしても捕獲したくて、確か一匹か二匹くらいを生捕にして、マッチ箱の中に入れて家に持ち帰ったことがありました。

ところが、そのホタルは家に着いた時にはもうすでに息絶えてしまっていて、本当に可哀想なことをしました。

一般的な虫取りもそうですが、なぜ子供達は自然の中で生きている生物をすぐに自分のものにしようと手を出してしまうのか?

どうして綺麗なものをそのままにそっとしておくという考えがないのか?特に男子にそうした傾向が強いように思いますね。

女子の場合には、たとえば野山に咲いている草花を摘んで帰って、部屋の花瓶に生けて飾るなどがあるかもしれません。

自我の所有欲を満たそうとする行為なのか、あるいは探究心からの行為なのかは分かりませんが。

大人になった今は、ただただそのままにしておいて、手を出さないというのが最も気持ちがいいように感じています。

虫はそこで飛んでいたいのだろうし、花はそこに咲いていたいのだと思うようになったのですね。自然は手付かずだから美しいのだと思います。

瞑想は集中ではない

瞑想は集中することだと思っている人が多いですが、そうではありません。というのも、一般的に集中とは一点集中のことを意味するからです。

理想的な瞑想とは、思考が停止して、かつ意識的であることです。そして意識的であるということは、全方位に対してなのです。

一点集中の場合は、その集中しているターゲットに関しては非常に強く意識を向けていられるのですが、それ以外については無意識になってしまうのです。

だからこそ、一点集中は瞑想とは言えないのです。全方位への集中というと、何やら難しい感じがしてしまうかもしれませんね。

けれども、例えて言えばそれほど難しいことではないと分かるはずです。それは、耳に入ってくる全方位からの音を漏らさずにすべて聞こうとするイメージです。 

どこか一点からやってくる音だけに注意を向けるのが一点集中であり、瞑想はあらゆる音に分け隔てなく聞き耳を立てるというニュアンスです。

瞑想は集中ではないとは言いましたが、集中力のある人の方が瞑想には向いているということも、最後には言っておかなければなりません。

それは一点だろうが、全方位だろうが、じっと聞き耳を立てるということでは同じことだからです。

最後に、思考が邪魔をしてしまうので瞑想がうまくできないと思っているなら、その思考を眺める練習をすると良いと思います。

思考の中身に興味を持つのではなく、ただその思考を眺め続けるという感じです。そうすると、思考は自然に緩んでくるはずですので、是非実践してみて下さい。   

あなたがあなたであるだけでいい

あなたはあなたであるためにいるのであって、ただあなたであれば良いのであって、他の誰かになるためにいるのではありません。

このことが深くあなたの内面に浸透するようになるまで、人生が辛いと感じてしまうかもしれません。

ことは単純なのです。何も複雑なことはないし、ただあなたがあなたであるだけで良いのです。

ところが、何も知らない無から生まれたあなたは、親の正しさの中に何とかして順応しようとしてしまうかもしれません。

親が自分の正しさを押し付ける人でなければ問題ないのですが、正しさであなたをコントロールするような人であると、あなたは自分のままではいけないのだと勘違いしてしまうのです。

さあ、そうなると大変です。こういう人にならねばとか、自分の理想はこうなのだと作り上げてしまうと、人生は地獄になるのです。

絶対にそんな誰かのような人にはなれないので、不可能に挑戦しては負けを見るという人生が繰り返されるのです。

これが一番愚かしい生き方なのです。心当たりがあるという場合には、是非ともただありのままの自分でいいのだということに気づくにはどうしたら良いのかを真剣に考えることです。

自分ひとりでは難しいのであれば、専門家の力を借りるという選択肢もあることを覚えておいて下さいね。

家のエネルギー

皆さんは家のエネルギーというのを意識したことがありますか?実は、家庭にはその家に特有のエネルギーがあり、それで満たされているのです。

そのエネルギーがどこから来るかは明らかで、お父さんやお母さんと言った自分が生まれる前にその家で過ごしてきた人々のものなのです。

そのエネルギーの中で生まれた子供たちは、知らず知らずのうちにその家のエネルギーをもらってしまうのです。

特に敏感な気質を持って生まれた子供は、そのエネルギーを爆吸いしてしまって、気がついたらそれに乗っ取られてしまうくらいに強い影響を受けてしまいます。

それは親の教育とか、しつけなどの明示的に与えられるものではないので、気づかない場合も多分にあるでしょうね。

そのエネルギーが気持ちの良い清々しいものであれば良いのですが、反対に子供を恐れさせたり、抑圧させてしまうようなものであれば、その子の人生の後々にまで悪影響を与えることになるのです。

こうしたエネルギーは先祖伝来のもので、要するに世代を超えてエネルギーが伝播してきたものなのです。

それが、生きづらさを抱え込むようにするエネルギーであれば、その正体をしっかりと暴き出して、あなたのマインドから出してあげることです。

その影響が小さくなればそれだけ、生きることが軽やかに感じるようになるはずです。

マインドの背景を観る

自分のマインドをジーッと見つめていると、マインドがどんな状態であろうとも常に変わらぬ部分があることに気づきます。

それはマインドそのものではなくて、言ってみればマインドの背景のようなもの。あまりにも大きすぎて変化もしないので、本当に気づきにくいのです。

それに対してはどんなイメージも湧かないほど無色透明なので、これまでの人生のどの場面でも常にそれはあったはずなのに、気づけなかったのです。

それこそが自分の本質である意識なのですね。その上に無数の思考によって活動するマインドが乗っかっている感じ。

あまりにも思考の活動が忙しいので、そのバックにある背景を忘れてしまうのですね。けれども、心(マインド)の速度が緩やかになった時、その隙間から背景が見えるようになるのです。

それは音楽を聴きながら、音と音の狭間にある無音を感じるのに似ています。高校生の頃に、Led Zeppelin を聞いていて、爆音の曲の途中で無音が入る時があったのです。

その時、そのコントラストが心地よくて、あらゆる音の背景には無音(静寂)が常にあるんだなあと思ったことがありました。

いつでもどこでも、ほんの少しの時間があったなら、思考と思考の間に自分の本質を見つける練習をしてみることです。

そうして気がついた時には、もしかしたら瞑想が自分の不断の友達になっているかもしれませんね。

楽しむ術を知る

生きている限り、私たちは本当にさまざまなことに遭遇するし、それは胸踊る素晴らしいことから、到底許容できないような辛いことまでピンキリなのです。

このことは、癒しを進めていくと多少は変化していくものです。たとえば、あまりにも理不尽なことばかり起きていた場合は、それが少なくなるはずです。

とはいうものの、自分にとって都合の良いことばかりが起きてくるようには、決してならないのです。

どれほど心の癒しを進めたところで、災害に遭う時には遭うものです。それを避ける手段などありません。

ではどうしたら良いのかというと、何が起きようがそれがどれほど自分にとって都合の悪いことであろうが、それを楽しむ方法を知っていれば良いのです。

その一つは、自分を楽しむという方法です。私たちは一般的に自分の身に起きていることを楽しむことをします。

もちろんそれは自分にとって嬉しいことだったり、都合の良いことは誰だって楽しむことになるのです。

けれども、それだと起きていること自体に左右されてしまうので、起きていることではなく、それを体験している自分自体を楽しむのです。

これだったら、いつどんなことが身に降りかかってこようが、その中心にいる自分を楽しむのですから、究極の楽しみ方を身につけたことになりますね。

ちょうど、ロールプレイングゲームの中の主人公が、あれこれ経験をしてゴールに近づくその全てを楽しむ実際のプレーヤーと同じです。

この方法をリアルタイムでできるようになったら、その時には生きている間中ずっと楽しむことができるようになるでしょうね。

自己イメージの虚偽性を見抜く

私たちが、「これが自分だ」と思っているものの一番根っこの土台の部分にあるのが、幼い頃に作られた自己イメージなのです。

成長するにつれて、その自己イメージという土台の上に、背の高い建造物である大人の自分をコツコツと作り上げていくわけです。

毎日のあらゆる経験を通して、さらにそれらを元にして自分独自の生き方などを重ねることで、益々成長するのです。

けれども、どれほど紆余曲折があったとしても、大元である幼い頃に作られた自己イメージを土台にしていることに違いはありません。

そのくらい自己イメージの存在は後々のあなたの人生に多大な影響を与え続けるのです。

それほど決定的に大事なものなのに、それがどのようにして作られるのかを深く理解したなら、きっと驚くだけでなく、何を信じれば良いのか分からなくなってしまっても不思議ではありません。

実は自己イメージというのは、外側にどんな人がいて、その人たちがあなたにどのように接していたかということで作られるのです。

その真ん中にあなたがいたのではなく、全く何もないところにまるでハリボテでも作り上げるように、外側から少しずつ足されていくのです。

ちょうど雪だるまを作る時のことを思い出すと良いかもしれません。優しく優しくゆっくりと丁寧に、雪を足していくと形の良い雪だるまができますね。

逆に、面倒臭そうに雑に雪をパンパン付け足していくようなら、形のいい雪だるまはできずに、逆に歪んだ形のものになってしまうでしょう。

自己イメージもそれと同じように、丹精込めて接して貰えば丸みのある自己イメージが出来上がるし、その逆も真なのです。

どんな自己イメージであろうと、それが作られる前は「無」だったと言いましたが、それこそが本当のあなたなのです。

自己イメージを自分だと思い込んでしまったために、なんでもない自分のことを忘れてしまったのです。

だから人生で本当に必要なこととは、どんな自己イメージであれそれが偽物でしかないということを見抜くことなのですね。

マインドを見ている限りマインドはなくならない

私の仕事は、いわゆる心理療法士(心理セラピスト)と呼ばれる類のものです。古くは、フロイトの精神分析から始まり、時代とともに多くの枝分かれをして今に至っています。

私自身は、アカデミックな勉強をしてきていないので、正確なことは知らないのですが、ただ人のマインドを扱うということにおいて、すべてのセラピーが共通していると思っています。

この仕事を始めてしばらく経った時に、とても大きな壁にぶち当たったことがありました。

それは、どれほどセラピーを繰り返したところで、マインドはマインドのままだということに気づいてしまったからです。

とても深く病んでしまったマインドを、少しずつ正常なマインドに戻していくお手伝いができればいいという思いで始めたのでした。

ところが、あるときマインド(自我)は存在しないということに気づいてしまったために、セラピー(癒し)はどこまで行っても自我の癒しなのだと分かったのです。

その時点での自分の興味は、当然マインド(自我)から離れて、真の自己に目覚めることとなってしまったので、セラピーを続ける意味を見出せなくなってしまったのです。

もちろん今では、自我の癒しはそれなりに必要だという思いが芽生えたので、セラピストをこうして続けているわけです。

ただし、抑圧された過去の感情や思いを解放して、マインドの歪みを正して行ったところで、決して自我が自分だという思い違いは消えません。

私がかつて受けていた分析心理学というのは、夢を分析することでマインドの歪みを正していくものでしたが、それで夢がなくなることはないのです。

真実に気づくためには、その夢を見ているものを見続けること。それに気づいていることなのです。

万が一私の自我の代わりに、私の本質が顔を出して目覚めたとしたら、きっとセッションが全く違ったものとなるはずです。

どんな種類のセラピーとも異なるものとなるでしょうね。そういう日が来るのかどうかは、皆目分かりませんが…。