心を強くしたいって?

幼い頃というのは、当然のことながら大人のようにはできないし、自我が未熟なので周りから助けてもらう必要があるのです。

そんなときに、周囲にいる大人たちが気持ちに余裕がなかったりすると、子供の目線にまで下がって、寄り添ってくれるようなゆとりが作れないのです。

そうなると、子供は大人たちと比べて、自分はこんなこともできない、自分は心が弱い、自分は情けない子なんだと思い込んでしまうのです。

大人のようにはできなくて当然なのに、そのことを教えてもらう代わりに否定的な目で見られてしまうので、必ず自己否定を作り出してしまうのです。

その結果、ちっちゃくて惨めで、情けない自分のままではダメだとして、いきなり偽物の自立を装って、強い自分になろうと頑張るのです。

そうなったら、無邪気さや脆さやナイーブさといった、大切な感性を否定してしまうようになるのです。

無理矢理大人のような自立の自分を作って、周囲にいる大人に混じって負けじと頑張るようになるはずです。

大人になっても弱い自分を認めることができずに、心を強くしたいという思いが消えないのですね。

癒しというのは、心を強くすることとは全く違います。強い弱いではないと気づいて、そのままの自分を受け入れるようになること、それが癒しなのです。

いくら強くなっても戦っている限り、あなたの人生は戦場と同じなので、もうすでに平和なところにいる人には負けているのです。

弱々しい依存を否定して自立の道を歩んできた自覚があるなら、一刻も早く戦いから足を洗って、どんな自分も丸ごと受容する練習をすることです。

最後のイベントに向けて

生には二つの大きなイベントがあるのですが、その一つが誕生であり、もう一つが死ぬということです。

その二つに挟まれた形で私たちの日々の人生があるわけです。一つ目のイベントの方は、ほとんどの人が記憶もないし、そもそもそこでは何もすることができません。

ただ勝手に誕生することになったのですから。けれども、残されたもう一つのイベントに関しては、私たちはいろいろな準備をすることができます。

私は最近思うのですが、日々の人生にもしもなんらかの目的があるとしたら、その準備を着々と進めていくことなのではないかと。

つまり、人生の中に目的があるのではなく、死をどのように迎えることができるかということのために、日々生きるのだろうと考えることができるのです。

なぜそんなことを思うのかというと、この人生物語の中で何を達成したところで、死が全てを消し去ってしまうことが確定しているからです。

完全に消滅してしまうことのために、どれほど骨を折ったところでそれが無駄骨になることは避けられません。

だったら、最後のイベントへの準備をすることに費やすことの方が、理に適っていると思うのです。

最後のイベントに向けてやるべきことは、意識的であることを忘れずにいられるようにすることです。

最大限の意識を持って、死に望むことができるなら、死ねるのは自我と肉体だけであり、私たちの本質はただ在り続けるという様子を見ていられるのでしょうね。

自己表現がカギ

自己表現が苦手というクライアントさんがとても多いのです。この傾向は仕事を始めた20年前から少しも変わっていません。

というよりも、自己表現がうまく出来ないことが原因となって、病んでしまうことが多いということですね。

黙っていることもイエスマンであることも、表面上は特に問題にはならないので、本人は殊更変えようとも思っていない場合が多いのかもしれません。

けれども、自己表現をせずに長く暮らしていれば、必ず自己犠牲が溜まってきて心を病んでしまうのです。このことをしっかりと理解することです。

独りでいる分には構わないのですが、人間は集団で生きるように出来ているので、自己表現に問題があると、対等な関係を築くことが難しくなってしまうのです。

口数が少ないとか、物静かということは何の問題もないのですが、「ノー」が言えないことが大問題なのです。

自己表現を抑える理由はたった一つ、自己防衛のためなのです。嫌われたくない、否定されたくない、見捨てられたくないなど、他人の気持ちを気にし過ぎが原因なのです。

自分ではどうしようもないと理解することも大切です。その場合は、勇気を持ってセラピストの助けを借りることを考えてみることをお勧めします。 

個人である限り満足はない

私たちの共通の課題は、どうにかして幸せになるというところにあるのです。幸せとは満たされた心の状態を指すのです。

これがどれほど原理的に不可能なことかを理解したら、人生を生きる感覚や生き方が変わってしまうのです。

まずはっきりさせなければならないのは、満たされることと一時的な安心を得ることは、全く違うことだと気づくこと。

自我(個人という自覚)として生きている限り、そこにはどうしても防衛が付きまとうのです。

なぜなら、自我は不安と恐怖と孤独をベースに生きているからです。そこから脱出して安心を手に入れたいのです。

それを幸せになることと混同してしまっているのです。人生で自我が手に入れた安心はほんの束の間の一時的なものでしかないのです。

またすぐに不安や孤独がやってきて、その繰り返しなのです。社会でどれほど高い評価を得ても、素晴らしい業績を残したとしても、あなたが自我であるなら満たされることはありません。

問題は人生をどう生きたかということではなく、自分の本質に気づくかどうかの一点にかかっているということです。

あなたが戦い(防衛)から軸足を外して、無防備へと進んでいくにつれ、自我のエネルギーが小さくなっていくのです。

そして自我のせいで気づけなかった自らの愛に目覚めることができたなら、理由のない至福に満たされることになるのです。

あなたは日々何を目指して生きているのか、もう一度じっくりと見つめてみるといいと思いますね。

疑問も質問も答えもない

小さい頃には何か疑問なことがあれば、すぐに親に聞く子供でした。初めのうちは純粋に聞いていたものが、親に聞いてもあまり納得する答えをもらえないと分かってからは、あまり期待しないで聞いていたのです。

だから質問魔と言うほどではないにせよ、「なんで?」というのが口癖のようになっていたと思います。

大人になってもそうした部分はあまり変わらずにあって、分からなかったり、納得がいかないことは、それを問い正す傾向が高いのです。

ところがセラピストになってからは、質問をされる側の立場になったせいなのか、日頃疑問に思うことがあってもそれを解消しようとすることが減りました。

さらには、真実に近づきたいという思いが強くなってからは、より一層疑問がなくなってきた感じがします。

というより疑問がやってきたとしても、それをそのままにしておく習慣がついたのですね。なぜなら疑問は思考であって、それを解決したいのも思考だと理解できたからです。

真実はどんな疑問も質問も全く受け付けません。それが思考からくるものである限り、真実からはどんな答えも期待できません。

思考で理解できるようなどんな答えもないからです。飼い犬に、飼い主さんが仕事に出かける理由を説明できないのと同じようなものですね。

真実には疑問も質問もないし、同様にして答えというものもないのです。これが無の境地かもしれません。

瞑想は自己消失の恐れをもたらす

一般的には、瞑想が苦手だという人は案外多いのかもしれませんが、瞑想の得手不得手というのはないのです。

なぜなら瞑想は何もしないことだからです。何かをすると言う場合に限って、得意不得意というのがあるのですから。

何もしないことが不得意という変な日本語は、何かしていないではいられないマインドの状態であるということですね。

マインドが常に活動し続けていなければ、何か危機的な状態に陥ってしまうという恐れがあるということです。

その恐れとは何だと思いますか?それは、自分が消えて無くなってしまうかもしれないという恐怖なのです。

私自身、未だに瞑想の中へと入っていくときに、若干の緊張がマインドのどこかに起きるのを感じます。

それと呼吸が不自然な感じになるのです。どちらも一旦瞑想状態になってしまえば消えてしまうのですが、毎度お決まりのようにスタートしたときにやってきます。

そうしたマインドの反応を見ているだけでも、立派な瞑想になるということが分かってからは、なんとも思わなくなりました。

瞑想のコツがあるとするなら、無念無想を目指すのではなく、ただ内側に意識を向け続けることですね。

「組織」も苦手

つい先日のブログで、「族」が苦手だということを書きました。俺たちは特別なんだ!というのが透けて見えるからです。

そこから派生して、もう一つ書きたいことがあったので、今日はそれについて書いていこうと思います。

「族」は組織を作りますね。暴走族だって、カシラがいてその下にきっと◯◯の役割といった係りができるのです。

つまり人が集まって団体として機能させようとすれば、必ず組織というものが出来上がるわけです。

そこで大抵は組織そのものと組織の組員(人間)との間で、妙なことが起きてくるのです。

それは、人間のために組織が作られたはずなのに、組織の方が人間よりも大切になってきてしまうのです。

たとえば、信者のためにこそある教会が、教会を守るために信者が大変なボランティア活動を続けたりするのです。

家族の一人ひとりが大切なはずなのに、家族という団体を守ろうとして苦労を重ねてしまうということです。家系を守るとか、お墓を守るというのも同じです。

組織を守りだすと、間違いなく腐敗が始まるのです。そうなったら、その組織は人にとって有害なものに成り果ててしまいます。

人の役に立てようとして組織が作られるのは問題ないのですが、一度組織を守ろうとする動きが出て来たら、すぐにでも解体できるような仕組みがあると良いのにと思いますね。

思考の中にいることに気づく

私たちはともすると、思考の中でもみくしゃになって生きているということを忘れてしまうのです。

朝起きてから夜眠りにつくまでのほとんどが思考まみれ。果ては眠っている間であっても、思考は夢という形となって現れる始末。

まさに思考思考思考。とどまることを知らずに、思考の中で溺れてしまっているかのようなものです。

ちょうど魚が海の存在を知らないように。魚は周りが海だらけなので、海が分からないのです。

だから気づくことです。これもあれも思考の働きによるものだと。思考が惨めさを作り、罪を作り、価値を作り、非喜劇を作るのです。

もしもあなたの人生に問題があるなら、それは思考による判断がそのように思わせているのです。

私たちは、救いも思考の中に見出そうとしてしまうのですが、思考の中に真の救いはありません。なぜならそれは思考だから。

真の救いは、その逆に思考のないところにあるのです。たとえばあなたが自分のことを罪深いと感じて苦しいのなら、あなたがどれほど頑張ったところで救いはありません。

救いは、罪深さというのは思考の中にだけあるものだと気づくこと。思考の世界から一瞬であろうと抜け出せたなら、そこには何もないと分かるのです。

これを知ったなら、私たちの誰もが初めから救われているのだと気づくことができますね。

「族」を好まない理由

家の族と書いて家族と読むのですが、改めてこの「族」という言葉が自分はあまり好きではないと気づきました。

親族とか一族、あるいは貴族や豪族なんてのもありますが、ずっと族という漢字を見ていると、今この瞬間完全にゲシュタルト崩壊が起きています。

現代においては、ただ族というと暴走族を連想してしまうかもしれません。なぜ「族」という言葉が苦手なのか、少し考えてみました。

すると、俺たちは特別なんだぞ!というようなニュアンスが浮かんできました。これって、異教を徹底的に否定する宗教争いにも共通するものです。

この特別さが大事というのは、自我の特徴なのですね。自我は特別さが何よりも大好物なのです。

自分一人でも特別さが欲しいのですが、それが難しいと知ると、誰かと結託してみんなで「俺たち特別」を作り出すのです。

自分は特別だし、自分の家族も特別。自分の血族や自分が属している組織も特別になってしまうのですね。

それに比べて、ただ身近な人をゆる〜く応援するというのは、余裕があって良いなと思います。

本当にあなたの中に「私」はいる?

人生において最大でありかつ唯一の秘密は、「私」はいないということです。あまりのことに、多くの人は全く受け入れようとはしないものです。

人生とはこの私がいて成り立っているものなのですから。私がさまざまな経験をして、場合によっては成長していずれは死んでいくものだと信じているのです。

だからその中心人物である私がいないなんてことは、もしもそれが真実だとしたら、これ以上衝撃的なことは他にないでしょうね。

誰にとっても私が大事なはずなのに、自分以外の誰かのことばかりを気にして生きている人が沢山います。

そうやって外側のことにばかり気を取られていたら、最大の神秘である私はいないということに、気づくはずもありません。

というよりも、気づきたくないがために、ずっと外側ばかりを観ているのだとも言えるかもしれません。

どれほど外側を見続けたとしても、真実を見出すことは不可能なのです。科学というのは、外側の世界の観察に頼っているものなので、真理を極めることはできません。

一度でも内側の広大無辺の世界を見たなら、人は変わってしまうでしょうね。生きる基盤であった私の存在が揺らぎだすからです。

私がいたら、私が邪魔をするので真実は見ることができなくなってしまうのです。私がいない時、あなたはこの宇宙と、全存在と一体になるのでしょうね。