理解を邪魔する力

数年前に思い立って本を書いたことがありました。いまでもアマゾンから購入する事が出来ます。

流行りもののような内容ではないので、内容が古くなってしまうような事はないので、継続して初回のクライアントさんにはお勧めしています。

というのもそうそう頻繁にセッションに来ていただくのは難しいので、次のセッションまでに読んで頂くことで癒しへの意識を保って欲しいというのがあるからです。

セッションルームにも何冊か置いてあるので、実際にセッション終了後に購入される方もいらっしゃいます。

そんなクライアントさんが次のセッションに来られた時には、読んだ感想などをお聴きするようにしています。

またセッションの中でのやり取りを通して、本の理解度がおよそ透けて見えて来るのですね。本を全ページ真剣に読んだとしても、なかなか深い理解にまでは至らないのです。

それは理解力の問題ではなく、理解を邪魔しようとするマインドの部分があるという事なのです。生き方や考え方を変えられては困るという強い力が働くのです。

全ての人にとって、癒しが期待通りにとんとん拍子に進んでくれないのも、同じ理由なのです。これまでの自分が消えていく恐怖が邪魔をするのです。

こうしたことをしっかり理解すれば、何度も繰り返し読むことで少しずつですが、確実に理解は深まっていくことも納得出来るはずですね。

1、2度読んだくらいで満足することなく、本の内容を誰かに説明できるようになるくらいまで、読み続けることをお勧めします。

腑に落ちるまでの深い理解、それこそが気づきをもたらしてくれるのであり、それが直接的に癒しを進めてくれるのですから。

人生は実験の繰り返し

私たちは物事が期待どおりにうまく行くことを願っている一方で、失敗したらどうしようという不安や恐れも持っています。

成功するときもあれば、失敗することもあるのは当然のことですが、これは考え方や物事の捉え方が変わると、失敗はないという事が分かるのです。

どういうことかと言うと、何かをなす時には常に実験をしていると見るのです。実験というのは、どんな結果が得られるのかというのがその目的なのです。

つまり実験の結果がどうであれ、結果が得られればその実験の目的は達成されるので、それをもって成功したということです。

この場合に失敗があるとするなら、この実験で判明したことを次の実験に活かすことをしなかった時だけなのです。

例えばある仕事をやってみて、自分には合わないということが判明した時に、失敗だったと捉えるのではなく、やってみるという実験の結果、合わないという結果を手に入れることが出来たのですから、それは成功なのです。

やらなくても結果が分かるようなことはともかく、やってみなければ分からない事はやって結果が出れば、それは貴重な結果を入手できたという成功体験なのです。

人生は実験の繰り返しだと理解すれば、結果がどう出ようとそれに過度の期待をしなくなるのです。そうなるとなおのこと、結果を悔やむということが小さくなるはずですね。

覚醒した意識は思考を寄せ付けない

あなたは普段思考に乗っ取られています。まずはそのことにしっかりと気づくことが大切です。

そしてあなたの心がいつも何かに駆り立てられていたり、理由のない不安に弄ばれているなら、それは思考のせいなのです。

あなたの本性は思考とは何の関係もないのですが、思考に飲み込まれているために、本性を思い出すことができないでいるのです。

思考が全くやってこない状態になったなら、それはそれはとてつもなくスッキリとクリアな状態になれるのです。

とは言っても、思考そのものが悪いということではなく、思考に飲み込まれてしまっていることが問題なのです。

不安や恐怖や孤独感などに苦しんでいるとしたら、思考があなたにそれを投げてくるからです。

もしもあなたが少しずつ意識的であるようになれたら、その分だけ思考は少なくなって行き、思考をただ見ていることができるようになるのです。

意識的な状態では、思考と自己は切り離されているということに気づくことができるはずなのです。

しっかりと覚醒した意識でいられるなら、思考は自動的にやってこれなくなってしまいます。

思考は止めようとしても止まりません。意識を持って見る側になり、それを極めていった先に勝手に思考が入ってこない状態になるということですね。

今だけが実在

私たちが生きているのは、いつも今この瞬間ですね。誰も過去や未来を生きることはできません。

それなのに、皮肉なことに自我というのは過去と未来がその思考のターゲットなのです。自我だけが、過去と未来に思考を飛ばし続けるのです。

ということは、自我というのはこの生を生きたことがないということです。厳密に言えば、自我は生を知らないのです。

自我が落ちている時だけ、私たちは今この瞬間にいることができるのです。その時には、この生を堪能できるのです。

その状態では、どんな欲望も期待もないだろうし、どんな不満もありません。それらは全部過去と未来によって生まれるものだから。

今だけが実在であって、そこであらゆることが起きては消えていくのです。今が全ての現象が起きる背景なのです。

それは時間などではありません。時間とは過去や未来に思考を飛ばすことからイメージする架空の概念に過ぎません。

言い古された言葉に「今を生きる」というのがありますが、正確には今という背景の中で連続的に現象が起きている状態を生と呼ぶのです。

潜在意識の成り立ち

使い古された言葉ですが、潜在意識という言葉がありますね。催眠療法によって潜在意識に働きかけるなどと表現したりします。

要するに、潜在意識とはマインドの大部分を占める自覚できない領域のことを指すのです。無意識と呼ぶこともあります。

なぜそんな闇の部分が勝手に出来上がってしまったのか、不思議ではないですか?そんなものがあるばっかりに、癒しに手こずる羽目になったのですから。

私なりの説明ですが、自我の成長段階の最も初期の頃に、一つのまとまった人格を形成するために以下のようなことをするのです。

自我というのは自分一人では成り立たないのです。あくまでも外側からの働きかけによって、自分とはこういうものだというイメージを作り出すのです。

そのイメージを固定化していくためには、外部からやってくる情報のうち、それまでに作ったイメージに近いものは取り込み、違うものは排除するということをするのです。

そうしなければ、いつまで経ってもたくさんの人格が集まった、まとまりのない変な人物になってしまうからです。

その取り込みと排除の仕組みを働かせるために、マインドの表面と内側の間に特別な間仕切りを作ったのです。

その間仕切りは、情報を取り入れる時にはスルーできて、排除する時には鉄壁の障壁となって跳ね返すのです。

そうやって内側を守ることで、人格を固定化して行くことができたのですね。それともう一つその間仕切りの役割があるのですが。

ある程度の年齢になってくると、都合の悪い感情や思考をその間仕切りの中に押し込み、表へ出て来なくさせるのです。

それこそが皆さんもよく知っている抑圧の仕組みです。間仕切りの中は、自覚することができないので、とても都合がいいわけです。

そうやって大人になる頃には、マインド全体の90%くらいを占める無自覚領域が出来てしまうということですね。

自分のことは自分が一番よく知っているなんて豪語する人もいますが、そんなことはないということを理解しておいた方が良さそうですね。

物事は通り抜けていく

私は昔から風のようにして生きられたらいいなあという願望がありました。なぜだろうと考えてみて、少しその理由が分かりました。

たとえば、風には目に見えないという特徴がありますね。人知れず在るのですが、時には人に優しく、またある時には厳しい接し方をするときもあり。

また風はどこか特定の場所に居座ることができません。どこからともなくやってきて、またどこかへと当てもなく過ぎ去っていくのがいいのです。

まるで風来坊のよう。その執着のなさがとても気持ちいいのです。何かにしがみつこうとせず、所有しようともしない。

特別な自分というものを持たずにあって、その大きさや形すらいつも変化し続けているのです。

風を人のように見立てることに無理があるとしたら、逆に自分に起こるあらゆる事象をまるで風のように自分の中を通り抜けさせたいと思うのです。

何がやってきてもそれを所有しようとせずに、そしてそれが去っていくならそれはそれでいいのです。

爽やかな春の微風も好きだけれど、それもすぐに消えていってしまうからいいのです。突風は目に埃が入るけれど、いずれは過ぎ去っていくのです。

何であろうと、起きることがあなたの中を通り過ぎていくのを見守っていればいいだけなのですね。

根っこを掴め

もしもあなたが物事の表層ばかりを見て生きているなら、起きることにいちいち翻弄されてしまう人生になるのは確実です。

たとえば、私たちは日々様々な問題を抱えながら生活しているのです。何の問題もないという人はいないはずです。

そうした問題の一つひとつを個別に解決しようと頑張るとしたら、それはきっと徒労に終わってしまうでしょう。

自分の身に降りかかる問題は基本的に深いところで何らかの関連があると気づく人は、問題の奥に潜むものを見ようとするはずです。

問題の根っこは一体何なのか?その問題を作り出しているのは何か?こうした捉え方ができると、一気にまとめて人生が変化し出すのです。

どんな問題であれ、それを作り出し、それを問題として認知し、それにどうにかして対処しようとしているのは、自分のマインドなのだと気づくこと。

あなたのマインドがなければ、どんな問題もありません。マインドがあっても、不活性の状態であれば、問題はうっすらしたものへと変化するはずです。

さらには、あなたのマインドが問題を必要としている理由は何なのか?そこにはいろいろな理由を見出すことができるはずです。

戦うための敵として問題が必要だったり、問題行動を起こす必要があってその問題を引き寄せる等々。

物事の根っこを掴む習慣をつけると、生は思いのほかシンプルだったと気づくようになるはずですね。

原動力を見極める

人生の中で人間は様々なことをします。人から褒められるようなことから、眉をひそめられるようなことまで。

私は懲罰的な考えが嫌いなので、基本的に悪意がないのであれば何をしてもいいと思っています。その結果誰かに迷惑がかかっても、ある程度は仕方ないと判断します。

道徳とか倫理と言った、人はこうあるべきという教えにはあまり興味を持つことが出来ないのです。

要するに何をしてもいいし、何もしなくてもいいというシンプルな生き方が好みなのです。きっと小学校の先生になったら、父兄からバッシングされてしまうかも知れません。

ただし私にも一つだけこだわることがあって、それは何をするにもその原動力をしっかりと見極めることが大切だということです。

ざっくり言えば、原動力とは愛か恐怖です。どちらか一方だけということは少なくて、大抵は両者が混じっているケースが多いものです。

愛が原動力の場合は、それをしたいからするというシンプルさがあるのですが、恐怖が原動力の場合は、未来に安心するためという別の目的があるのです。

前者は分かりやすいですが、後者の場合はすぐには気づけないかも知れません。どちらが多く混ざっているかを見極める一つの方法は、心の疲労度を見るということです。

前者の場合、それを継続しても疲労するのは身体だけで、心は元気なままでいることが出来ます。

一方後者の場合は、心が完全に疲弊してしまい、場合によってはウツ症状が顕れるかも知れません。どこかで継続出来なくなるのです。

努力は報われるという素敵な響きの言葉がありますが、もしも原動力の大半が恐怖であるなら、仮にいい結果が出たとしても精神を病んでしまう事になりかねないのです。

人が努力する姿を見て美しいと思うのは自由ですが、その努力の原動力が何なのかは本当のところ、本人にしか分かりません。

人に褒められようが、あるいはけなされようが、あなたの原動力がどちらなのかだけが大切だと気づくことです。

愛が多いなら満たされるし、その逆なら誰が何と言おうが速やかに撤退した方がいいということですね。

人生は思い込みで出来ている

ありのままを見るということは、よく言われているようにとても難しいのです。というか、ほとんど不可能と言っても間違いではありません。

なぜなら知覚を通して取得したあらゆる情報を、マインドが横取りして勝手な解釈やら色付けやらをして、自分流にアレンジしてしまうからです。

問題となるのは、そのアレンジしてしまったことに気づくことなく、あるがままを見て聞いているのだと勘違いしてしまうこと。

思考はあらゆる思い込みを作り出して、自分にとって都合の良いように解釈をし続けるのです。

私たちが共通してやらかした最大の思い込みは、私は個人だという思いです。その思考があまりにも強烈なので、個人として生きている感覚まで作り出したのです。

その思い込みがベースとなって、それ以外のありとあらゆる思い込みが連鎖的に作られてしまったのです。

こうなると、どれが真実でどれが思い込みによって創作されたものかを識別することはとても難しいのです。

親兄弟や社会全体から教え込まれた様々な事柄も、それが正しいことだとの思い込みを生み出したのです。

そのようにして、私たちの人生は思い込みのオンパレードと化したのです。その一つひとつを丁寧に解いていって、できれば中立な生に戻すことができたら良いなと思います。

そのためには、日頃から瞑想的である時間を持つこと。思考に巻き込まれることなくそれを見続けられたら、生の全貌が露わにされるのでしょう。

深みへの探求

今日は珍しくオフィスには行かずに、ずっと自宅の自室に篭っていました。外は強い風と吹き付ける雨の音がしています。

毎年春の嵐の日は埃っぽくなって、外を歩くと目の中にゴミがたくさん入って辛い思いをするのですが、今年は珍しく雨ですね。

風雨が強い夜は、その音ですぐに寝付けないで嫌な思いをした記憶があります。特に思い出すのは、大学受験の前日がそうでした。

明日は大事な試験だから、早く寝ようと思えば思うほど、雨戸のガタガタする音が気になってなかなか寝付けなかったのです。

そんなことも忘れて無事に大学に入って、自堕落な学生生活をしていたときのことです。友達と麻雀をやっていたときに、ふと試験前日の夜の話題になったのです。

友人の一人から、風の音が強くて一睡もできなくて試験に臨んだんだということを聞いて、ああ同じような経験をしたんだと知って妙な気分になりました。

あの試験の時には全くの赤の他人だったのが、こうして今一緒に麻雀をやっているということが不思議でもあり、嬉しくもありました。

その彼が白血病で亡くなったのは、それからしばらくしてからです。それでもあの頃の自分にとっては、死は他人事であり、自分にはやってこないと感じていたのです。

若い時だから仕方のないことですが、本当は死はいつも身近にあるのです。それを意識できるかどうかで、人生の質が変わってくるのです。

死を避けることができないという事実が、人間を深みへの探求へと誘うのです。そして、自我にとっては死は消滅を意味しますが、自分の本質にとってはそうではないと知ることになるのですね。