誰かがあなたに腹を立てる、侮辱する–
見守るのだ
もしあなたの中に怒りがこみ上げてきたら、それを見守るのだ
丘の上のものみになるのだ
眺め、眺め、眺め続けるのだ
何を見ることもなく、何に取り憑かれることもなく
by osho
もしもお腹が空いたら、それを眺めて、何かを食べるならそれも眺めるということですね。
誰かに否定されて悲しい気持ちになったら、それをただ眺めて、何をしても虚しいなと感じるなら、それも眺めるのです。
快適な生活があるなら、それを眺めて、不快な境遇にあるなら、それも眺める。どちらにしてもその時々の気持ちも眺めるのです。
独りぼっちで寂しいなら、それを眺め、愉快な仲間と一緒にいて楽しい時にもそれを眺めるのです。
多忙で疲れ果てているなら、それを眺め、暇で何もすることがなく時間を持て余しているなら、それも眺めるのです。
頭の中に思考が渦巻いているなら、それを眺め続けるのです。そうすると、次第に過去と未来に向かっていた思考は緩み、眺め、見守ることだけが残るのです。
そうしてゆっくりと、真実の薫りがやってくるのですね。
色んな面で今までの逆張りでやってみようと過ごしていて、その効果は目覚ましく、数カ月前には考えられない生活になってるんですが、つい先日に今までの逆張りで怒りを貯め込んで我慢の限界が来る前に敢えて怒ったんですね。相手は目上の方でしたが…
その逆張りの効果は目覚ましく、相手も納得したらしく謝罪とともにこちらが怒るようなことが起こらないように気をつけてくれてるんですが、なんか怒る相手が必要なことに虚しくなったりで…
一足飛びにはなかなか行かないものですが、こんな虚しさも眺める続けて少しづつ中道というものに近づいて、見守ることだけになるんでしょうね。
逆張りという意識が完全になくなったときに、もっともっと中道に近づくんじゃないですか?
眺め続けることで、自己改善から解放されるようになるのでしょうね。
そうですねぇ。
身に起こることは変わってガッツポーズとったりしましたけど、なんだかんだで気持ちというか根っこの方は何も変わってないんですよね…
そういうのも眺め眺め、思考が緩むのを待つことにします