「自分」に個別性はあるか?

朝目覚めたときに、あれ、ここは一体どこだ?とならないのは、昨夜寝るときに見ていた部屋の記憶を瞬時に使って、それと照合するからでしょうね。

周りの部屋の景色が記憶と違っていたらびっくりしてしまうはずです。記憶と照合しつつ、連続性を感じながら生きているわけです。

このことは、自分自身についても同じことが言えるように思うのです。今朝起きた自分が昨日寝たときの自分と同一人物だとどのように判定しているのか?

私たちは、これが自分なのだという印みたいなものを予め持っていて、それによって確かに自分だと判断するのでしょうか?

その印と照合することで、自分という個人の連続性が維持されているように感じるものなのでしょうか?

ここを突き詰めて見ていくと、どうやら自分自身についても結局は記憶を使うことになるのだと分かります。

私たちは、夜寝る部屋の記憶を溜めるだけでなく、その部屋で寝入る自分という記憶も同時に蓄積するのですね。

もしもその記憶を使わずにいるなら、昨日までと同じ自分がここにいるということをどのようにしても知ることができなくなるのです。

結局のところ、この自分というのは記憶の集合に過ぎないということになってしまいます。エゴとしては、どうも寂しい限りですね。

自分とは、そんな記憶データの塊などではない、特別な存在なのだと思いたいのですから。自分をデータだと見なしている人はいないはずです。

けれどもこの受け入れがたい真実を真正面から見ることができるなら、これまで持っていた自分という概念が間違っていたと認めることができるのです。

自分という一つのまとまった独自の存在などはないということ。マインドは思考の塊ですが、それは記憶データなしではとても使い物にならないのです。

自分という概念はあるのですが、「この」自分といった個別性を持った実体はないということです。

それを拒絶するか、心地いいと感じるかはあなた次第ですね。