活動をやめたらマインドは消える

今あなたには、やらねばならないことがいくつありますか?それから、今すぐにではないにしても懸案事項というか、解決すべき案件はいくつあるでしょう?

そういうものが全部片付いたらどれほどスッキリして気持ちいいだろうと思うかもしれませんね。

ところが、順番に解決していったとしてもまたすぐに、別の案件がやってくるのです。いつまで経っても、やるべきことが何もないという状況にはなりません。

それにはちゃんとした理由があるのです。生きているのだからいろいろあるのは当然、として片付けてしまえばそれまでですが…。

本当のところ、やるべきこと、解決すべき事柄というのはマインドにとっては必要不可欠なものなのです。

そもそもマインドというのは活動のプロセスそのものを言うのです。だから停止しているマインドというのは意味をなしません。

マインドは常に、処理する案件とともに活動しているのです。それなしでは、マインドは消えてしまうからですね。

だから本当に何もすることがないとなると、マインドは悲鳴を上げ始めます。飢えて死にそうになるからです。

幼い頃に、安心して暮らすことができなかったマインドには、充分過ぎる程の案件が日々やってきていたので、そのマインドが成長しても多くの案件を必要とするようになってしまうのです。

そうなると、戦うべき現実、我慢すべき事情、憂慮すべき物語の中から抜け出せなくなってしまうのです。そのマインドにとってはそれが必要だからです。

こうしたマインドの裏事情を深く理解することができるなら、対処すべき事柄は少しずつ減っていってくれるはずですね。

何も強いる必要はない

見守り、気を引き締め、意識的でありなさい

するとあなたは、とてもとても奇跡的な現象に行きあたるだろう

あるものがそれ自身でひとりでに落ちてゆくとき

それはあなたにどんな軌跡も残さないものだ

もしあなたがそれを強いたら、そのときは軌跡が残る

傷あとが残る

by osho

↑これは自分に何かを強いるなら、それがどれほど理にかなっていることであったとしても、傷跡が残ると言っているのです。

自分に何かを強いるのは、必ず影に自己防衛が隠されているからです。自分を改善したいということも同じこと。

その傷跡、その反動が必ず残り、それはその後の人生のあらゆる場面で仕返しを試みるはずなのです。

逆に言えば、どんなことであれ自分に強いる必要はないということです。このことの深い理解は、非常に自分を安らいだ気持ちにさせるはずです。

強いるのはマインドであり、思考なのです。そうではなく、ただ見守り、意識的であり続ければいいのです。

それだけが、不要なものを落としてくれるのです。私たちは、意識でしか本当の意味での成長をすることができないということです。

あるクライアントさんが、「気を引き締める」ことを「背筋をピンとする」と表現したのが印象に残っています。

思考と感情と気持ちの話

私たちはいつも思考の中で生きています。思考が途切れたことがないくらいに、ずっと思考の中にいるのです。

そして時々は、その思考が元となってさまざまな感情がやってくるのです。思考が感情を作り出すとも言えますね。

感情が大きければ、冷静さを失ってしまうかもしれません。嫌な感情であれば、それを抑圧してしまうこともあるでしょう。

いずれにしても、時間の経過とともにその感情からも解放されて、また冷静な自分を取り戻すことができるのです。

そうした思考と感情に揉まれながらも、そのどちらとも言えない不思議なものがありますね。それが気持ちです。

気持ちというのは、勿論思考ではありません。なぜなら、言葉で表現できないような気持ちを経験することも何度となくあるからです。

かといって、感情のように激しいものでもない「気持ち」とは一体何者なのでしょう?さっきまで明るい気持ちだったのに、なぜか急に暗い気持ちになったりしたことが誰でもあるはず。

その気持ちの変化がどこからやってくるのか、本当に不思議なのです。一つ分かっているのは、感情を薄っすらと感じているときには、それに応じた気持ちがやってきます。

怒りの上っ面を撫でていると、イライラした気持ちになったりするわけです。つまり、気持ちをしっかり見続けるなら、その奥に隠された感情に気づけるのです。

一方で思考とも感情とも関連なさそうな気持ちというのもありますね。わけもなく清々しい気持ちになったり、穏やかな気持ち、気分に包まれることもあります。

私自身は、自分の思考や感情だけでなく、できるだけ気持ちや気分にも注意を向けていられるようにしています。

それができると、気持ちや気分に飲み込まれることが減ってきて、短い時間でニュートラルな内面に戻ることができるようです。

社会性と反社会性、そして無社会性

今日もマインドの仕組みについて見ていきます。生まれてからしばらくの間は、マインドがない状態、ノーマインドのままに毎日が推移していきます。

だから赤ちゃんや乳幼児は無邪気な状態のままにいるのです。ノーマインドは純真無垢とも言えますね。

ところが、しばらくすると脳の発達と共にマインドらしきものが生まれて、それが2つの部分へと分裂するようになるのです。

オリジナルの純真無垢な部分と、その反対の部分、つまり我慢したり頑張ったり、戦ったりする部分です。それがエゴとして発達していくわけです。

エゴの部分は、無邪気な自分を否定することで自分を守ろうとする、つまり心理的な自己防衛をするようになるのです。

エゴ=社会性とするなら、オリジナル=無社会性とも言えるのですが、どちらが優位になるかは明らかで、オリジナル部分は抑圧される憂き目に遭うのです。

その両者のバランスが激しく崩れて、エゴの優位性が顕著になってしまうと、自己犠牲が蓄積することになり、無意識的に問題行動を起こすマインドの部分が作られることになるのです。

問題行動=反社会性であって、一見すると 無社会性のオリジナル部分と勘違いしがちですが、この両者は全く異なるマインドの部分です。

エゴ(社会性)が強すぎて、オリジナル(無社会性)が激しく抑圧された結果、問題行動(反社会性)が生まれるのですから。

この3つの部分を同等に見守って、それぞれの存在をしっかり認めてあげることができるなら、そのどれでもない自分こそが自分の本質なのだと気付くようになるのですね。

ちょうどいいスケールで身体を見る

私たちの誰もが共通して思い込んでしまったこと、それは自分とはひとまとまりの存在だというものです。それがエゴの始まりですね。

それが個人という概念を作り出すのですが、それはちょうど自分の肉体がひとまとまりのものに見えるからなのです。

物心がついた時からずっと、身近な場所に自分の身体が見えていて、それがひとまとまりのものとして認識できたからです。

もしも自分の目が身体から数10メートルも離れたところにあったとしたら、どういうことになっていたでしょうか?

身体は1〜2メートルのところから見るとき、ちょうどひとまとまりのものに見えるのですが、数10メートルも離れていたらまったく印象が違っていたはずです。

その場合には、遠くにある身体を自分自身だと思い込むことは不可能だったと思うので、エゴを作ることはできなかったはずなのです。

また、逆に非常に微細なものしか見ることのできないような目だったとしたら、身体の細胞レベルが見えるだけで、この場合もひとまとまりには見えないのです。

常に身体の一部の細胞だけが見える状態であれば、やはりエゴは作られなかったはずなのです。

何が言いたいかというと、結局ちょうどいいスケールで身体が見えるような眼だったことで、身体をひとまとまりとして認識できたのです。

個人としての私がここにいるという思い、感覚というのはその結果でしかなく、それは真実ではないということですね。

気持ちを聞いて貰えば健康に育つ

クライアントさんとのセッションをやっていて、これまでにも何度も繰り返し思うのは、心に余裕のない親に育てられることが最大の問題だということ。

親と言えども普通の人間なので、余裕があったりなかったりして当然なのですが、子供にとっては胎児の頃から幼児の頃までが、親の精神状態が最も影響する期間なのです。

その時にどんな理由にせよ、親(特に母親)の気持ちがゆったりしているのか、気ぜわしくて取りつく島がない状態なのかは、子供の生涯に多大な影響を残すことになるのです。

世間で言われている胎教が大事というのは、そういう意味では当たっているのですが、それはほんの一部に過ぎません。

子育ては生まれてからの方が大変なのですから、子育て以外のことで母親が気を病むようなことがないようにできるのが理想です。

ただし、実は母親の心に余裕がないのは、その時起きている事象によるだけでなく、母親の幼少期におけるそのまた母親の精神状態が影響しているのです。

心に余裕がない状態では、母親は十分に子供の気持ちを受け止めることができなくなってしまうのです。

母親自身が子供のこと以外の心労を抱えていたり、考え方に偏りがあったりして生きづらくなっていたり、ちゃんと子育てしなければと深刻になってしまったりすると、どうしても余裕がなくなるのです。

いっぱいいっぱいにならないためには、細かなことは考えないことにすることです。考えなければその問題は問題ではなくなるからですね。

そうすれば、やらなければならないことはそれほど多くはないと気付くはずです。子供は、自分の気持ちを聞いてもらえれば健康に育つのです。

まったく違った存在の質

身体には健康なときもあれば、病気のときもある。見守ってごらん。ただ見守っていれば、突如として、あなたはまったく違った存在の質を感じ取るだろう。あなたは身体ではない。身体はもちろん病むが、あなたは病んではいない。

by osho

↑これについては、少し注意深い人であれば難なく体得することができるはずです。身体は痛みがあったり苦痛があったりするけれど、見守ればそれは私ではないと気付くのです。

ところが、マインドについては突如として難しくなってしまうのです。身体と同じようにして、マインドも痛みや苦しみを抱えることがあります。

けれども、そのマインドの有り様をただ見守ることができるなら、マインドですら私自身ではないと気付くのです。

それを osho は「全く違った存在の質」として感じ取るはずだと言っているのですね。身体もマインドも私の本質ではないのです。

その存在の質というのは、まったくもって変化というものがありません。常にずっとここに在るもの。

身体やマインドと接触するくらいに近いのですが、それでも根本的に違う次元に在るということを感じるのです。

だから決して身体やマインドの状態に影響されることはありません。影響されるような何かがないからです。

こうした気づきは、意識的であることをやめてしまうと、すぐさまどこかへ行ってしまいます。そうなると、いつもの同化状態に戻ってしまうのです。

全く違った存在の質に気づいていられるなら、そのときは人生を物語として見ていられるということですね。

ノーマインドが善

仏陀は言う。人間は生まれながらに善い、と。悪であることを欲する者はひとりもいない–もし人が悪いとしたら、彼らは悪であるようにむりやり仕向けられたのだ。愛こそが自然であり、慈悲こそが自然であり、憐れみこそが自然だ。憎しみ、凶悪な本能は自然ではない。

by osho

生まれながらに善いということを言い換えれば、マインドがなければ善いということでもあるのです。

生まれた時にはマインドはありませんでした。だから、幼子はあれほど無邪気で無防備でいられるわけです。

ところがマインドが作られるに連れて、心理的な防衛が必要となって、それに伴ってマインドの分裂が大きくなるのです。

結局は、マインド=分裂ということになるのですが、その分裂が強ければそれだけマインドの病みが大きくなり、そこから悪が顔を覗かすことになるのです。

だから悪というのはマインドにとって必須なのですね。私たちは自分よりも悪をしでかす人を悪人と呼びますが、所詮は同じマインドの働きなのです。

だからいつもマインドがどう働いているのかを見てほしいのです。人を見るのではなく、内部で暗躍しているマインドに注意を向けるのです。

そうしたら、マインドが非活性化すればするほど、悪の色合いが薄くなり、善がそれに取って代わるようになるということに気付くはず。

単にそれだけのこと。ノーマインドが自然であり、それは善だということですね。

無欲さのなかで生きる

あなたが今日まで生きてきた、あなたのいわゆる生から自由になりなさい。自殺してはならない!あなたの過去を自殺させるのだ。一瞬、一瞬を新しく生きはじめなさい。欲望のなかで生きてはならない、一種の無欲さのなかで生きなさい。

by osho

10年くらい前のことですが、ある時自分がこれまで生きてきた「○○○○○」(←自分の名前)ではないと感じたことがありました。

その時まで連続していた自分自身が分断されて、別の自分が今いるように感じたのです。

そんなことはそれ以前にはなかったのですが、特別驚くようなことではなかった代わりに、ただ気持ちよかったのを覚えています。

人間は解放されたいと常に思っているのです。一体何から解放されたいのか?それはもちろん自分自身からなのです。

外側にある自分以外のどんなものから解放されたとしても、自分自身に縛られているなら、少しも清々しくはないのです。自分自身とは結局過去のこと。

過去との断絶は、過去を忘れることでも、ましてはなかったことにすることでもなく、ただ無頓着になって過去との関係性が消える感覚になるのです。

だから記憶がなくなることでもありません。逆に何を思い出したところで、他の誰かの体験のように、遠くに感じるということ。

そうなって初めて、未来への希望も薄れてくるのです。未来とは過去の投影に過ぎないからです。

それが無欲で生きるということへと向かわすことになるのですね。

コミュニケーションはハートを使う

私たち人間は、独りでは生きていけないようにできているので、他者とのコミュニケーションは必要不可欠なものですね。

そのコミュニケーションの中心となるもの、それが言語だと思われています。言葉によって、双方の言いたいことが互いに交わされるのです。

クライアントさんとのセッションについても、言葉がとても大きな役割を担っているのは間違いない事実です。

けれども、言葉だけではコミュニケーションのより大切な部分が欠落してしまうということも一方では言えるのです。

ごくまれではあるのですが、遠方のクライアントさんのご希望で電話セッションをするのですが、そのときにはいつも以上に疲労してしまいます。

それはきっと、こちらの伝えたいことがうまく伝わっているかとか、クライアントさんの真意は何なのかに注意を傾けることでエネルギーを消費するからだと思うのです。

コミュニケーションというと言語、つまり思考(マインド)が中心だと思いがちですが、実は私たちは知らずにハートを多く使っているのです。

だからこそ、言葉以外の相手の雰囲気、表情、態度、身体の動かし方、その他のすべての情報を直接交換し合うことで良好なコミュニケーションができるのです。

だからハートを使わないコミュニケーションというのは、単なる情報伝達に終始することになってしまうのです。

親と子、監督と選手、どんな間柄であれ対等で気持ちいいコミュニケーションをするためには、ハートをしっかり開く必要があるということですね。