無力さを受容する

生まれたての赤ちゃんは、自分では何もできずにいますが、成長するにつれて、ハイハイができるようになった、立つことができたと言っては周囲に喜んでもらえるのです。

そうした周りからのシャワー、できないことができるようになったことが素晴らしいというエネルギーを受け続けるわけです。

その結果、物心がつく頃には自分自身で何かが「できる」ということが価値があると理解するようになるのです。

けれども、まだ幼い子供には周りの大人のようにはできるわけもなく、そんな自分の無力さを感じて惨めになったりするのです。

結局人生というのは、そうした自分の無力さ、非力さ、無能さから脱却して立派に何かが「できる」ことを証明することに費やされるのです。

大人になって、「できない」ことよりも「できる」ことに目を向けるのは、そうした事情があったわけです。

そしてその先には、自分の無力さから目を背けずに、それをただそのように受容するという生き方が待っています。

無力さを受容するなら、自分という個人としての存在は小さくなって行き、しまいには曖昧になって消えて行くのです。

それこそが本当の自分に気づくということなのですね。

存在と存在は対等

大画面のテレビが欲しいなあと思って、販売店に行ってあれこれ比べたりしていたときに気づいたことがありました。

それは、同じ画面サイズのものでも、自分の目線より下にある場合と上にある場合で、サイズ感が変わるということが分かったのです。

誰にとってもそうだとは言えませんが、とにかく見上げた場合には、画面が比較的大きく感じるし、見下ろすと画面が小さめに感じるのです。

だとしたら、より大きい画面のものを買ってもらおうとしたら、客の目線よりも少し下側にテレビを配置した方がいいということですね。

下にあると、少し小さめに感じてしまうので、もっと大きい画面のものが欲しくなるということなので。

こうした感覚というのは、人間同士でも似たようなことが言えるかもしれませんね。見上げる相手は大きく感じ、見下ろす相手は小さく感じる。

大きい小さいは、物理的な身体の大きさだけでなく、社会的な地位や内面的な部分まで影響されるのかもしれません。

つまり相手をあるがままに見るためには、精神的な部分で見上げたり見下したりをしないでいられることが必須条件だと言えます。

そうした対等な関係性を築くためには、相手の外見や社会的な立場ではなく、相手の存在に意識を向けること。

存在対存在だけが、唯一真に対等なものだからですね。

習慣は人を無意識的にする

私たちは様々な習慣の中で生きています。タバコを吸う習慣、朝新聞を読む習慣、食後にコーヒーとデザートを食べる習慣。

考えてみれば、習慣の中に深く埋没してしまっていて、それが習慣なのかどうかすら気付かずにいたりするのです。

条件付けされるということも、1つの習慣であると言えるかもしれません。例えば、部屋の模様替えをしてゴミ箱の位置が変わったとします。

すると、しばらくの間身体が勝手に動いて元あった場所にゴミを捨てようとしてしまうといったようなこと、誰でも経験があるはずです。

習慣には、良い習慣もあれば悪い習慣というのもあるでしょう。毎日決まった時間にジョギングするといった身体に良い習慣、甘いものを食べ過ぎるなどの身体に悪い習慣。

けれどもここでお伝えしたいことは、どんな内容の習慣であれそこが問題なのではなく、習慣付くこと自体が問題だということです。

なぜなら、習慣というのは人を無意識的にしてしまうからです。全く意識せずに身体が動いてしまうとか、自動的に物事を行ってしまうということが起きるのです。

意識的でいようとすることを阻むものの1つとして、習慣というのがあるということ。私たちにできることは、習慣的にやっていることにまず気づくこと。

その上で、できる限り自分を見守る練習をすることですね。

マインドの欲をただ見てあげる

日々自分のマインドを見つめていると、そこにはいくつもの小さな欲があって、大したものではないのですが、それを満たそうとするわけです。

それが満たされないと不満が残るし、幸運にもそれを満たすことができたとしても、満足が永続することは決してないのです。

結局のところ、欲というのは叶っても叶わなくてもどちらにしろ満たされた人生になるわけではないということ。

元々私のマインドの特徴として、あまり大きな欲を持つことはありませんでしたが、だからといって欲がなくなるわけでもなく。

小さな欲をつぶしていくのが人生だと思っていたのですが、どちらにしても満たされないとなると、欲なんてもういらないと思えてくるのです。

それでも欲をなくそうと思ってなくなるわけでもなく、日々どんな欲を持っているのかについて興味深くみてあげることしかないのかなと。

そうこうするうちには、欲自体が自然と落ちて行くような気がするのです。欲にいいも悪いもなく、単なるマインドの原動力であるに過ぎません。

今日もマインドがどこへ流れて行くのか、ただそれを淡々と見ることにしますかね。

好きでも嫌いでもない

梅雨空が広がって、なんだかスカッとしない天気になりました。ちょっと肌寒いし、雨が降ると若干憂うつな気持ちになったりします。

雨の何がイヤなのかなあと思って内側を見てみたら、傘をささねばならないこと、クルマの乗り降りで傘の始末が非常に悪い。

靴が濡れて台無しになる、ズボンの裾が濡れて気持ち悪い。水溜りの近くを歩いていて、通るクルマに跳ねをあげられる。

湿度100%になって、髪のクセがひどく出てしまう、あるいは洗濯物がイヤな匂いになりがち等々。まだまだ他にも数え上げたらきりがないくらいに出てきそうです。

じゃあ、あまり考えたことはないけれど、逆に雨の日もいいじゃないと思える点をあげてみると…。

部屋の中にいて、雨が降っている音を聞いていると何か心が休まる気がする。これは子供の頃から自覚があったのですが、雨に守られている感じがするのです。

雨の日に買い物に行くと、若干人出が少なくて気分がいい。そしてもちろん雨が降ることで、水不足にならずに済むのですが、これは個人的なことではないですね。

そして最近では、雨降りが嫌いな自分であれ、雨降りが好きな自分であれ、いずれにしても表面的な部分に過ぎないと分かります。

そのどちらでもない本当の自分が、奥深くにいる(在る)ことに気づいていればいいのですね。

パワハラの根っこにあるもの

パワハラをする加害者側の論理というのは、相手が「ノー」と言えない状況を利用して、相手をコントロールしようとするいたってシンプルなものです。

一方パワハラをされてしまう被害者側についても、実は単純にいえば自己防衛がそれを起こさせてしまうのですが、ただ被害者には非がないということで、ほとんど見ようとしないのが実情です。

たとえば、命の恩人がいたとして、その人にセクハラ的なことをされたとしても多くの人は「ノー」を言いづらいと感じるのです。

これがどんな自己防衛なのかというと、恩のある人、大きな借りのある人に対して、我を通したら人非人になってしまうという恐れがあるのです。

その恐怖から逃れる(自己防衛)ために、「ノー」が言いづらい状態へと自分を追い込んでしまうのです。

ワイドショーなどで、レスリングのパワハラ問題をかつて連日放送していたときがあったのですが、日本に沢山の金メダルをもたらした実績ある功労者である監督なのに…、という言葉をよく耳にしました。

そういう色メガネをかけて人物を見てしまう傾向があるのですね。そのことと、行動を天秤にかけてはいけないということです。

その一方で、その人の行動はその内側にあるマインドが起こしたことだと気づいていること。

パワハラがなくならないのは、加害者側にだけ問題があるわけではなく私たちのマインドの働きとして深く根付いているものだと見抜くことですね。

肯定も否定もできない

子供の頃、加山雄三さんに憧れていました。若大将シリーズの映画を観に行ったり、テレビで歌を聞いたり。

沢山の素晴らしい曲を自分で作曲して、俳優さんなのに歌手としても上手に歌えるなんていいなと。

けれども、自分が加山雄三になりたいなどと思ったことはありませんでした。というよりも、そんな発想自体が自分にはなかったのです。

それは大人になっても変わらず、色々な人に憧れて、あんな風な人になれたらいいのにと思うけれど、最後には自分は自分でいいやに立ち戻るのです。

誰もがそうだろうと勝手に思っていたところ、セラピストになってたくさんのクライアントさんの内部事情と向き合ううちに、そうでもないと気づいたのです。

自分が自分でなくなりたいと本当に願っている人がたくさんいることを知らされて、びっくりさせられたのです。

私にしてみれば、自分が自分でなくなりたいと願っている、その自分も含めて消えてしまうと考えると、それはやっぱり嫌なのです。

ただそうした苦しい胸の内を知るに連れて、それも含めてマインドの働きに過ぎないということの理解を得るようになったのです。

そして最近では、自分は「これ」だという確固としたものすら薄れてきたおかげで、誰になる可能性もあったし誰でもいいやというように変化してきました。

マインドの仕組みはどのマインドも全く同じ。そのマインドがどのようなDNAの持ち主のところで成長したのか、どのような環境と体験を積んできたのか。

それだけが違うのであって、その違いが個々のマインドの違いを作り出す原因だったわけで、それが分かれば自分を肯定することも否定することもなくなるはずなのです。

こだわりは不安からやってくる

人は誰でも、自分の好みというのがありますね。それが強くなると、こだわりといったりもしますし、こうでなければならないと感じたりもするのです。

そういった強い思いというのは、本当のところ自分自身を縛ることにもなるし、周りの人に迷惑をかけることにもなりかねません。

例えば私の場合ですが、テーブルの上にある各種のリモコンたちが、あちこちに向いているのが嫌なのです。

なるべくテーブルに対して、まっすぐに並んでいると気持ちがいいのです。どうでもいいことのようでいて、本人としては是非そうなっていて欲しいのです。

色鉛筆の順番がバラバラになっていたりすると、ちょっと気持ち悪くて、少し時間をかけても元々の綺麗な並びに戻したくなるのです。

何に対してもきちっとしていなければ気分が悪いというのでもなく、だから自分でもその規則性が未だに分からなかったりするのです。

ガスの元栓とかをいちいち切るということもないですし、小まめに電気を切るというわけでもありません。

こうした当人だけの傾向というのは誰でも持っていると思うのですが、ここで大切なことは同じことを人に押し付けないということですね。

近くにいる人たちが、自分とは違う傾向を持っているとしても、あるいは自分のこだわりに気を配ってくれないとしても、それはそれでいいのです。

個人的なこだわりとか、場合によっては正しさのようなものというのは、所詮は不安からやってくるものだと理解することです。

不安を不安として、孤独を孤独として、対処することなくただ見ていられるなら、こうしたこだわりや強い思いというのも自然と小さくなっていくはずですね。

違いよりも共通項を見つける

マインドというのは違いを見つけるのが得意です。それは、マインド自体が思考の塊であって、その思考は分裂からやってくるものだからです。

思考にはすべては一つということを本当には理解できません。理解する瞬間に思考が消えてしまうからです。

個々の違いというものがなければ、分裂は消滅してしまうので、個人としての自己も消えていってしまうため、マインドは違いをきわだたせていたいのです。

その結果、違いをいつも見ることになるということ。だから、私とあの人はここが違うとか、比較、区別、差別、こうしたことのオンパレートになるのです。

けれども一方で、共通する部分を見ようと努力することは可能です。物事の根底にある原理原則を理解するためには、絶対的に共通する部分を見つける必要があるのです。

ただし勘違いしてはいけないのは、共通項をまとめて物事を上手に分類するという方法がありますが、これも結局違いを見ることになってしまいます。

たとえば、医学では症状を分類してそれに病名をつけますが、その症状を起こす1つの原因を見ることはしません。

だからいつまでたっても、今の医学は対症療法と言われるわけです。私がマインドの仕組みを理解することが大切だというのも同じことです。

個々人のマインドの状態は千差万別に見えますが、仕組み、働きは同じなのです。だからそれさえ深く理解してしまえばいちいち思い悩まずに済むのです。

本当の深い理解とは、分裂などないということを見抜く目を持つことですね。

自分自身でいること

あなたが「私は他の誰でもない、自分でいよう。どんな犠牲を払おうと、私は自分自身でいるのだ」と決めたまさにその瞬間に、あなたは大いなる変化を目にするだろう。あなたは活力を感じる。エネルギーがあなたの中を流れ、脈打つのを感じるだろう。

by osho

もしもあなたが死に行くときに、人生を十二分に生きて来なかったと感じたとしたら、それは当然次の人生に期待をするはずですね。

そしてその期待する思考エネルギーが実際に次の人生へと向かっていくのですが、それが輪廻というものです。

逆に言えば、十全に生きたと感じたなら、そのときにはもうどんな期待をすることもなくなってしまうので、次の人生へと向かわなくなるのです。

では、どうしたら充分に生きたと思うことができるのかと言うと、それは他の誰かになろうとせずにいられればいいということです。

あるがままの自分、自分自身のままでいることができるなら、そのときには充分に自分を使ったという満足感がやってくるのです。

不完全な自分を完全なものへと近づかそうとしたり、より良い自分になるために改善しようとしてみたり、理想の自分を描いてそれを目標としてみたり。

そういうことのすべてが、あなたのオリジナルを縛り付けて無き者にしてしまったりするのです。その不満が未来への期待を生み続けるのです。

今この瞬間の自分以外はないということに深く気づくことができれば、向かって行くべきどんな目標もないと分かれば、マインドは戦いをやめていくのです。

明日はないと気づくとき、恐怖から逃げるために無意識的になるか、あるいはそこから逃げずにいて意識的になるかのどちらかなのでしょうね。