思い出に浸れない

高校一年のときのクラス会の通知をもらって、もう随分と長い間その頃の友人たちに会ってないなあと思っていたのですが。

幹事さんから前もって、当時の思い出などを各自メールするように言われて、思い出そうとしてみたのですが、どうでもいいくだらないことしか出てこなくて。

誰にでも懐かしい思い出というのがあるはずですが、私はどちらかというと楽しいことよりも嫌な記憶の方を思い出す習性があるようなのです。

だからなのか、過去のどの時代を思い出しても、そこに戻りたいと思ったことは一度もありません。

要するに、今が一番いいのです。幼稚園から始まって小中高、そして大学とそれぞれの年齢に応じたそれなりの生活をしてきたのですが、魅力的な時期として思い出すことはないのです。

サラリーマンを二十年以上続けていた頃も、今となってはどうでもいい時代だったとしか思えないのです。

そういうわけで、あの頃はよかったなあという感慨に浸ることはできないのですが、それでも昔の仲間に会えばそれなりに思い出すこともあるのでしょうね。

過去のいかなる部分にも興味が薄れてしまえば、それはある意味では執着がなくなっているということでもあるのです。

もしもここは思い出したくないという過去があるなら、率先してその部分を見つめてみることをお勧めします。

しっかり見ることができて初めて、どうでもよくなるのですから。思い出にそれほどの興味がなくなれば、それに合わせるように未来にも興味がなくなっていくはずです。

今日を思い切り楽しむことだけを考える人生はシンプルでいいと思いますね。

 

“思い出に浸れない” への2件の返信

  1. 自分も同様に過ぎ去った過去のことはほとんど興味がないのですが未来にも興味がないかと問われたら100%イエスとは言えず…
    昔ほどではないですがやはり特定の事柄に対する未来への希望や期待もあるんですよね。
    でもブログを読んでよ〜く内面を見つめてみると過ぎ去った過去の中でも僅かに興味というか執着を抱いてる事柄がありました。思い出したくない過去というよりも、抱えている事に無自覚であった執着でした。
    それがしっかりと未来への期待として投影されているんですね。
    未来への期待は過去からの執着に他ならないんですね。それを無くすことが出来たら過去―未来という系も自然消滅してしまうんでしょうね。
    僅かでもいつい抱いてしまう未来への期待から逆算して抱えている過去を掘り出すのも一手ですね

  2. よく「執着を手放す」のような表現をするのですが、執着を手放す直接的な方法はありません。手放せなくなっているものを執着と呼ぶのですから。本当はとてもシンプルで、それをただ無防備に見るだけでいいのですね。見れば執着は「消えて」行くのです。そして過去への執着=未来への期待なのも事実です。だから未来への期待の中身を吟味すれば、過去への執着を類推することもできるかもしれませんね。

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