ある夏の日、草むしりかなにかをしているうちに、一休は疲れてきた。暑い日だったので、彼は寺の縁側にあがって、涼しい風にあたった。あまりに気持ちがよかったので、彼は寺のなかにはいり、仏壇から仏像を持ち出して、それを外の柱にくくりつけるとこう言った。
「さあ、あなたも涼みなさい!」
by osho
一休さんというと、トンチを出してくれる人という印象が強いですね。けれども、↑この逸話はいわゆるトンチではありません。
いくら自分が涼しい風に当たって気持ちよかったからと言って、仏像にあなたも涼みなさい、というのは変ですよね。
仏像はどこまでいっても仏像でしかないのですから。一休さんが言いたいのはきっとこういうことだと思うのです。
もしもこの話がおかしいと思うなら、あなた方も同じようにおかしなことを日頃やっていますよ、という暗示なのです。
つまり、私たちは誰かが作った仏像を仏の代わりにして、拝んだり有り難がったりしているのですから。
いわゆる偶像崇拝というものですが、それを普通にやっているのですから、仏像を擬人化したっていいじゃないかというわけです。
なんだか皮肉だなと思われるかもしれませんが、とても深い示唆を含んでいると感じますね。
難しそうな顔をして説教をするお坊さんはいくらでもいるのですが、それよりも余程機知に富んでいると思いませんか?
これって偶像崇拝だけに留まらず、例えば世間的に偉いとされる政治家や医者という職業、凄いとされる東大卒という学歴、もっと卑近な例をあげると高価、立派な品とされるブランド物のバッグや時計etc…どこかの誰かが作り上げた価値観を見てて案外目の前のものをちゃんと見てないってことにも繋がりませんかね?
同時に、周囲の評判や自分で作り上げてしまったこの人はこういう人に違いないという思い込みや自分はこんな人間だ、更にはこういう時にはこうすべきだという基準等、一休さんの言わんとしてることを自分の方に向けると身につまされることが多いエピソードだと思います。
自分はどこまで行っても自分で、その自分の目で見て、耳で聞いてと言うことはなかなか難しいことなのかもしれませんねぇ
その通りですね。
一言で表現するなら、「最大の無知とは自分が無知であることを知らずにいるという無知」ということになるのでしょうね。