真の探求は、生は無意味だと感じるようになるところからしか始まらない。もし意味があれば、誰がかまうだろう? もしある種の満足があって、物事が完璧にうまく流れ、人生において成功し、人生が仕事や野心でいっぱいであれば、誰が真実や神にかまうだろう?
by osho
日頃から物事を深く見ることができるなら、必ず人は生は無意味だと感じるはずなのです。逆に何かに熱中していたり、他の誰かになろうとしているなら、盲目になってしまうでしょう。
野心で溢れているなら、無意味さには決して気づくことができません。欲望が絶望になろうとするときに、ようやく意味などないと気づくのです。
無意味さとはネガティブなことではなく、エゴが生きていくエネルギーを見失ったときに感じるものなのです。
何を手に入れても本当には満足することができないと分かれば、その時点で生の無意味さが理解できますが、人は繰り返し繰り返し欲望を満たそうとすることをやめられないのです。
そうして初めて真実への探求という事態が起きてくるのです。こんなに無意味なのになぜ自分はここにいるのだろう?という根源的な探求ですね。
そしてその探求は、それ自体が無意味だったと気づくまで続くことになるのです。本当は無意味なのではなくて、意味があるとか意味がないということではないということ。
真実はそのどちらでもないという気づきとともに、人は救われるのですね。