生はある特有な目的でつくられている
それが無目的であること
それが何か解決されるべきものではなくて
生きられるべき、楽しまれるべき何かであるという目的でだ
あなたはそれを祝うことならできる
それを踊ることならできる
それを歌うことならできる
by osho
自分は何のために生まれてきたのだろう?あるいは、どんな役割を持って生まれてきたのだろう?
こんなことは一度も考えたことがないという人はいないかもしれませんね。そのくらい、人は人生のどこかでそんなことを考えたりするものです。
けれども、生は無目的という目的で作られていると↑で言っているのです。目的など初めからなかったんだと思うと、気楽になれるか気が重くなるかのどちらかです。
気が重くなるという場合には、やるべきことがなくなってしまうという不安を抱くからなのです。
役割を担っていさえすれば、いつだってやるべきことがあるわけで、それなりに安定していられるからですね。
でもそんなことはまやかしなのです。私たち一人ひとりには、そもそもどんな役割も与えられてなどいません。
それを潔く認めてしまうことです。幼い時に、家族がバラバラになってはいけないとか、家族をかわいそうにしてはいけないとして、それをなんとか食い止める役割を自分に課してしまう子供もいるのです。
そうすると、暗い家族の中で元気に振る舞おうとしたり、家族が喧嘩しないように間を取り持とうとしたりして、自分本位には生きられなくなってしまうのです。
そうした無理の連続による自己犠牲のつけが未来にやってくるのです。つまり、そんな生き方は嫌だという真正直な思いが、本人の自覚とは裏腹に人生にブレーキをかけてくるようになるということ。
自分に何かの役割を課しているひとは、即刻その役割を放棄してしまってください。そうしなければ、周りもあなたも生を祝う気持ちを知ることはないでしょう。
エゴにとっては無目的は怖いかもしれませんが、そこから逃げずに淡々と生を生きることができるなら、やっと自ら作った重荷から解放されるのです。