通常私たちは、目に入って来たものをただ見ているのではなく、思考によって様々に解釈したその後で見ているのです。
つまりあるがままを見るというのは、どんな解釈もせずにただ見ることを言うのですが、それは言葉でいうほどたやすいことではありません。
なぜならマインドが自動的に見えた情報の後処理をしてしまうので、それを抜きにして見ることができなくなってしまっているからです。
例えば、大好きな人と一緒に部屋の中にいるとします。部屋の明かりを消して真っ暗にした状態で、その人に赤いライトを向けるとしましょう。
そうすると、その人の姿はほぼ全身が赤く見えるはずですね。ところがマインドは、過去のその人の姿の情報を持ってきて、本当はこの色ではないとするのです。
今はたまたま赤く見えているけれど、部屋の明かりを点ければいつものその人の肌の色が戻ってくるとイメージしてしまうのです。
また、青い色の光で照らして見たら、ちょっと恐ろしい顔に見えるかもしれませんが、そのときもその顔は本来のその人の優しげな顔とは違うとするのです。
あるがままを見るとは、そうした過去の情報や勝手なイメージを一切使わずに、今この瞬間にどう見えているかだけで見るということ。
したがって、あるがままを見るということは相手の姿は刻一刻と変化するということを受け入れなければなりません。
その昔、誰もが太陽も天の星も地球の周りをグルグル回っていると信じていたのですが、それを根底からひっくり返す説が出現したのです。
つまり、天動説を否定する地動説がやってきて、この時代になって地球の方が太陽の周りを回っていることを疑う人はいなくなりましたね。
けれどもあるがままを見るのであれば、天動説の方が素直な見方だと分かります。実際、厳密に考えたらどちらが正しいということはないのです。
ただ地球の方が回っているとした方があらゆる点で合理的なだけです。夜空の星を眺めながら、天動説に戻って見るのもいいかもしれませんね。
どんな理屈(思考)も使わずにあるがままを見るとはそういうことなのです。その目を養うことを思うと、ちょっと楽しくなりませんか?
道を歩いて、景色が迫ってきては過ぎ去っていくのを、見るようにしていたら、受け身、という言葉が浮かんできました。天動説は、自分が中心であるという、自分勝手な見方だと思っていましたが、案外そうじゃないのではないか。主観と客観。自分を主観的に見る、自分を客観的に見る。周りが動いているという受動的な視点、自分が能動的に動いているという視点。まとまりませんが、受け身は気が楽だな、と犬の散歩中、感じました。
犬の散歩の間に、とても大切で貴重な気づきを得ることができたのではないでしょうか?意識的に生きるとは、まさにそういうことですね。
私の感覚では、エゴだけが能動的であって、真実は能動的でも受動的でもないのです。けれども普段エゴとして生きている私たちにとっては、どちらでもないことは受動的と感じるのかもしれませんね。