勇気をもって「無」を見てあげる

内側が完全に中空になった一本の竹
休むときに
自分が一本の竹であるかのように感じてみてごらん
内側の完全に空っぽになった竹だ
これは事実そうなのだよ
あなたのからだはちょうど竹みたいなものだ
そしてその内側は中空だ
皮膚

血液
みな竹の一部だ
しかし内側には中空の空間がある

by osho

自分は身体(竹)ではないとするなら、内側の中空の部分が自分だということになりますね。自分とは「無」だということ。

まだ物心がつくずっと以前から、その何もない中空の部分を、外側(親)から押し付けられたイメージで塗り固めてしまったのです。

それを自己イメージとして、何十年も後生大事に維持してきたのです。その自己イメージを初めに入れ込んだのは幼い自分ですが、それを定着させたのはそれ以降の自分なのです。

その上、その自己イメージが正しいものだと自分に対して思わせるように生きてきてしまったのです。だからそれを信じるしかできなくなったのです。

自己イメージがどんなものであれ、それは思考の産物であって、すべては幻想なのですが、思い込んだ頃あまりにも純粋無垢だったために疑うことができなかったのです。

ただ外側からやってきたものをそのまま入れ込んだのです。もしも「A」を「B」に塗り替えたのなら、「A」を思い出すことができるかもしれません。

けれども、何もない真っさらな「無」に「A」と描いてしまったために、「無」を思い出すことができないのです。

もっと言えば、「無」よりも「A」の方がまだマシということかもしれません。何せ、「無」は不気味だし恐ろしいのですから。

でも勇気を持って、「無」であることを見てあげればいいのです。それで死ぬことはありません。なぜなら、「無」だからですね。